その世界の中の有名人、というのがいます。
海軍「内」の有名人とは誰でしょうか?
小園安名大佐?
山本司令?
坂井三郎中尉?
NO。
「戦史には全く名を残していない、自伝も書いていない、
重要な働きをしたわけではない、しかし知らぬものは無い有名人」
という人がいまして、海軍関係者であればその伝説を聞いたことがあるという、
内部では知らぬもののない、もう、キャラ立ちまくりの伝説の男がいるのです。
その名は都留(つる)雄三大佐。
海軍兵学校30期卒。
ちなみに山本五十六、嶋田繁太郎が32期。
この都留大佐が兵学校を卒業したのは明治35年。
砲術科士官となり、その後海軍大佐で予備役、昭和5年に死去しました。
どう伝説の男だったかというと・・・。
「生来、天衣無縫、脱俗解脱、無欲恬淡、奇行に富み、当意即妙、
機知頓知湧くがごとく、しかもヘル談の大家であった」
元兵学校英語教授で、「元海軍教授の郷愁」の著者、
平賀春二氏はこのように述べています。
特に奇行については、海軍さんに語り継がれ、愛されて、
色々な伝説が今日伝わっているのですが、少しそれをご紹介。
いやー、この大佐、本当にいい味出してます。
すっかりファンになってしまいました。
時は日露戦争さなか。
旅順攻城作戦が遅々としてはかどらず、見るに見かねた帝国海軍は
陸戦隊を編成し、乃木軍に協力させることになりました。
陸軍との連絡を取り持つ海軍将校のひとりは、
いつも作業服を着て、潮焼けの無精ひげ、容貌魁偉。
陸軍将校に対しては常に傲慢不遜、相手がだれであろうと
対等もしくはそれ以下の対応をしていました。
作業服では階級が分からず、しかしあまりに態度がでかいので、
陸軍将校たちは彼がえらいのかえらくないのか判断しかねて、
やむをえずこのえらそうな将校には心ならずも低姿勢で接していたそうです。
かくして、明治38年1月1日、旅順落城。
13日入城式が行われます。
陸軍将校たちは参列する海軍将校の列の中に例のえらそうな人物を発見。
その軍服の袖口には金筋が一本半。
そう、中尉の軍装でした。
陸軍将校たちは
「くそおおっ!奴め!」「たかが中尉のくせに!」
と地団太踏みましたが・・・・何も言えませんよね。
式典の席なんですから。
しかし陸軍さんたちにとって幸いであったのは、その偉そうな中尉が、
その式典の五日前に昇進したばかりだったことを知らずにすんだことです。
偉そうにしていたときには、まだ少尉だったことをもし彼らが知ったら
その怒りは倍増していたに違いありません。
さて、時は流れ、頃は大正も末。
老け顔だった都留少尉もいまや中佐となりました。
停泊中の軍艦から上陸用のランチに乗り込んだ艦長都留中佐、
久しぶりの上陸に身も心も浮き浮きと、艇尾に立ったまま景色を眺めていました。
ところが、ランチが桟橋の先端に激突。
純白の第二種軍装を着こんだ都留艦長、
ひとりだけそのはずみで海中に転落してしまいます。
ランチの士官、兵員はもとより、桟橋に上がっていた他艦の連中も
すわ、と緊張してこの名物艦長の災難に注目しました。
みなが息を飲み海面を凝視している中、
まず軍帽がぷかーっとクラゲのように浮きあがり、
続いて固く握られた右拳が水面に突き出されました。
やがて現れた艦長、そのままの姿勢で
「底質。泥!」
「底質」はそこしつ、と読みます。
これは少し、説明が必要かもしれません。
艦船は停泊して投錨する前に、測鉛というものを海に投げ込んで、
深さ、流れ、低質を調べます。
低質が泥、砂、砂利のどれかによって
錨の長さを変えなくてはいけないからです。
着岸の際の底質調査は非常に重要な任務なのです。
ちなみに、現在でも手で低質を調べる作業は行われており
手用測鉛というものを使います。
海面に垂らして、ロープの長さで水深を測り、
錘の先端にグリスなどをつけることで
引き上げたときにくっついてくる付着物から、底質を知るそうです。
都留艦長はランチから投げ出され、海中から浮き上がるまでの
わずか何秒かの間にどうやってみなにウケてやろうかと考えたのでしょうか。
いや。
考えるまでもなく脊髄反射でこういうことをしてしまうのが、
伝説の男たるゆえんだったに違いありません。