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「我々は負けていない」~森岡寛大尉

2010-10-07 | 海軍人物伝



「紫電改最強伝説」という戦記マンガ本に小林たけし氏の
「最後のエース 8月15日本土防空戦」という、第三〇二(さんまるふた)航空隊の
森岡寛大尉を描いた作品があります。

豊橋上空でのB-29との空戦で左手を失った森岡大尉が義手の戦闘員として隊に復帰し、
終戦となった日最後の撃墜を果たすというストーリーで、森岡大尉の教師であった赤松貞明中尉の
愛すべき酒飲みぶりや、森岡大尉の描かれ方がかっこよくて好きな作品なのですが、
特に左手を失った後、隊に復帰し操縦桿に発射装置を移動した特別仕様の機で
「鬼神の乗り移ったような働き」をする大尉が「零戦いまだ健在なり!」と叫ぶところは、
まさに痛快。


今日はこの森岡大尉についてです。

第三〇二航空隊には「行動調書」「編成表」は残されていらず、記録として現存しているのは
「航空日誌」です。
したがって、どういう編隊で飛んだのかはわからないのですが、日誌から空戦の状況を知ることはできます。

森岡寛大尉(兵70)は厚木の航空基地で赤松少尉に手ほどきを受けます。
ベテランの赤松少尉に「あなたは今日4回戦死してるよ」と言われへこむ大尉。
田口光男大尉に「奴は君の才能を認めているのだよ」と慰められます。
事実森岡大尉は才能あるパイロットで、19年11月から関東地方に現れ始めたB-29に、
12月3日には撃墜9(不確実3)、撃破8の戦果を上げる中心となり、めきめきと腕を上げます。

しかし、翌昭和20年1月23日。
この日の航空日誌です。

一、横鎮中管報警戒警報 0040
二、哨戒31法実地 月光 0040-0200
三、月光12機 銀河1機 明治空上空哨戒
  零夜戦5機 彩雲1機 豊橋御前崎間哨戒

  一、戦果 撃墜4機 撃破3機
  二、被害 人員重症二名 森岡大尉 安藤二飛曹

このとき大きな戦果を上げた森岡大尉は、同時に左手を手首から失うという重傷を負います。

傷口の完治を待たず、引き寄せられるように厚木に帰ってきた森岡大尉。
その翌日、零夜戦分隊長、荒木俊士大尉(兵67)が戦死した夜通夜の席で、小園司令は
兵学校教官への転勤を森岡大尉に切り出します。
しかし大尉は「私を厚木に残してください」と訴えました。

戦闘機とのかかわりを断たれたくない一心でした。

情を汲む小園司令の判断で、異例の地上指揮官として隊に留まった森岡大尉は、
焦土の東京を訪ね歩き、義手を手に入れます。
そして4月23日、事故からちょうど三カ月ぶりに零戦の操縦席に座った大尉は離着陸に成功。
兵器整備分隊が大尉のために(マンガにもあった)操縦桿に機銃発射ボタンを取りつけます。

航空日誌から、「まるで鬼神の乗り移ったような」森岡大尉の働きをあらわす
復帰後の三〇二空の戦果を記載します。

5月7日  撃破5
5月10日 撃破5
5月24日 撃墜撃破 損害 17機
5月25日 撃墜撃破 24機
5月29日 P51 2機撃墜


防衛庁資料室所蔵の航空日誌には昭和20年6月以降の記録がありません。
終戦の報せに際して遺棄されたのでしょうか。

302空は8月15日以前にすでに終戦を知っていました。
11日には小園司令はそれを知っていたと言われ、徹底抗戦に向けての動きが15日を境に
隊員の「自主的な」意志によって固められるのですが、ここではそれについては語りません。
そういった不穏な空気の中米機動部隊F6Fグラマン6機が神奈川上空に飛来します。
厚木を飛び立った森岡大尉指揮の零戦8機、雷電4機はそのうち1機を撃墜しました。


写真に残る白皙の美青年のどこにこのような烈々たる闘志があったのかと思われるほどに
森岡大尉は戦闘機乗りとしてその任務を全うし尽くしました。

渡辺洋二氏のインタビューに
「政府が降伏したのであって我々が負けたのではありませんよ」
と静かに語ったというサムライは、昭和20年8月15日、
どんな気持ちで最後の飛行を終えたのでしょうか。




参考:第三〇二航空隊航空日誌 防衛庁戦史資料室所蔵
   日本海軍戦闘機隊 大日本絵画
   決戦の青空へ 渡辺洋二著 文春文庫
   零戦、かく戦えり!より「相模湾上空の空中戦」森岡寛 文春ネスコ
   厚木航空隊事件 敗戦秘話 小園安名物語 阿久根星斗著 高城書房出版
   紫電改 未完の最強伝説より「最後のエース 8月15日本土防空戦」小林たけし