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海軍三校卒業生の就職先

2010-10-03 | 海軍

インターネットで本を探します。
検索すれば見たことのないタイトルが引っかかってくる。
汗一つ流さずクリック一つで本が手に入る。
便利な時代になったと思います。

しかし、実際に手にとって、中身をぱらぱら見ていたらこれは買わなかったかも、というものもインターネットショッピングでは買ってしまいますよね、ときどき。
おまけに本は返品不可。

先日、例のごとく本を検索していて「海軍兵学校名簿」という古書が目に入りました。
値段は1万円。何の説明も、何期の名簿かも書いてありません。
貴重なものなんだろうなあ、と思いクリックすると、5000円から購入できるという本屋があり、説明も参考画像もないのに何となく申し込んでしまいました。

「発送しました」のメールが来て何日か後、ポストに少し大きめの手紙が入っていて宛名に古書店の名前。
いやーな予感がしつつも開くと、それは例の5000円の「名簿」でした。
薄いです。
本じゃなくて小冊子というやつですね。
何の説明もない、画像もない本を何も考えずに買ってしまう私もどうかと思いますが、届いてみるとそれは何のことは無い、

「海軍兵学校、経理学校、機関学校」を卒業し北九州地方に住んでいる方のクラス会名簿。総頁数24ページ。

・・・・・(T_T)

はっきりいって、当事者以外に何の価値もないものでございました。
だいたい、昭和59年の情報なんて今では生存者一つとっても激変しているでしょう。
これが5000円・・・・。

しかし。
5000円もかかったから元を取ろう、というつもりではさらさらありませんが、これを何の資料にもしないで葬ってしまうにはしのびません。
これを手にしたのも何かのご縁。

この名簿は、ただ卒業生の住所ならびに昭和59年現在の勤め先が書かれてあるにすぎないのですが、この名簿から海兵三校出身者の戦後のお仕事をリサーチする、ということにしました。

転んでもただでは起きへんでえ。

まず、名簿総数196人。
何とこのころ、最長老は機関31期、兵51期の方がご存命です。
以前、よく海軍ものを読んでいて見る「コレス」という言葉を、単に同期生だと勘違いしていた時期があるのですが、指摘を受けてウィキを当たったところ、これは海軍三校出身者が別二校の同期を指して言う言葉だと分かりました。
語源はコレスポンドcorrespondですが、これは一致する、対応する、という意味で、歴然とそれを示していますね。
ちなみに機関31期は海兵50期のコレスです。


名簿は74期から78期までがほとんどを占めます。
職業を、カウントしてみました。


学校関係・・・・・・30名
医師、歯科医師・・・28名
弁護士・・・・・・・4名
税理士・・・・・・・2名
薬剤師・・・・・・・3名
大学(教職)・・・・6名

資格職だけで73名。全体の約4割をしめます。
そもそも、兵学校は「理数系」の範疇に入る教育をしていたと言われ、機関学校は言わずもがなの理数系ですから、戦後医師、技術者の道に進む人は多かったようです。

会社名から判断して業種をカウントしてみました。
何の会社かわからなかったものは数えていません。

建築・・・・・・・・・5名
鉄鋼・・・・・・・・・6名
電気・・・・・・・・・10名
その他工業関係・・・・20名
船舶、造船、海事・・・5名
商社・・・・・・・・・4名
官公庁(警察)・・・・2名

北九州という土地柄なのか、鉄鋼、化学系企業が目につきます。
もと海軍なので、海に関する仕事はもう少し多いかと思いましたが、そうでもありません。
しかし、196名の中の5名は多い方でしょうか。
公務員はたった2名。一人は警察です。
お役所仕事にはあまり人気は無かったようです。
公職追放、という占領政策にも関係しているのかもしれません。

新聞社の編集に携わる方も4人います。
これも母体総数から見ると多い方ではないでしょうか。
変わったところでは

キリスト伝導隊

真珠湾の立役者の一人淵田少佐が晩年宗教家として半生を送ったのを思い出します。

コンピュータ関係の会社が1名。
今なら何の不思議もありませんが、時は昭和59年。
当時の最先端企業です。


最後の頃には4000人もの大所帯になって「質が落ちた」など言われた後期の海軍三校ですが、とはいえ当時の優秀な若者が集まってきたことに間違いはなく、戦後、彼らのような人材が社会の中枢となって日本の復興と繁栄を築く大きな力となったのです。

さすがに、北九州という限られた地域で見ても、彼らはそうそうたる企業に勤め、また自身の腕で人生を切り開いているのが名簿からだけ見ても分かるような気がします。

「最後の一号生徒」海兵75期の上坂康氏の手記によると、75期全体でいうと、医師195名、弁護士18名、上場会社専務以上が約150名、大学教授、教職、官庁多数。

兵学校の卒業証書を持っていた75期生徒は大学受験資格があったのですが、GHQの、「陸海軍諸学校出身者数は全校生徒の一割を超えてはならない」という指令のため、進学する大学には制約があったとのことです。




このころ最高齢でおられた機関学校31期の方の卒業は何と大正11年。
当時82、3歳でしょうか。
しかし、そのお歳で自営の「山の家」を経営なさっていたようです。

悠々自適の老後が眼に浮かびますね。