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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

最初の徴兵制入隊砲手〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-18 | 航空機

メンフィス・ベルのクルーの紹介、士官を終えて下士官、
ウェスト・ガンナーであるルイス・ミラーを前回ご紹介しました。

今日はもう一人の腰部砲撃手、ビル・ウィンチェルからです。

■ ビル・ウィンチェル 腰部砲手

【徴兵制で入隊

クラレンス・E ”ビル”・ウィンチェル
はマサチューセッツケンブリッジ生まれ。

彼が軍隊入りしたのは、これまでの搭乗員のように
飛行機に乗りたいので自ら志願して、というものではなく、
1940年に始まったばかりの徴兵制くじで彼の番号が引かれたからでした。


1940年9月、民主党郵政のアメリカ上下院議会で、選抜訓練徴兵法
(Selective Training and Service Act of 1940)が可決され、
当時のルーズベルト大統領(民主党)が署名して成立しました。

このときの徴兵法は、連邦選抜徴兵登録庁
(Federal Selective Service System Agency)を設立し、
21〜30歳の男性に選抜徴兵登録をさせ、
徴兵された者に12月の兵役を義務付けるというものでした。

ウィンチェルが被徴兵者となったのはこのアメリカ最初の選抜によります。

その後、アメリカは第二次世界大戦に参戦することになり、
18歳〜45歳の全ての男性に徴兵登録が義務付けられ、
45歳〜65歳の全ての男性には徴兵登録が奨励されるについで、
兵役期間はそれまでの12ヶ月から19ヶ月に延長されることになりました。

1940年10月29日。

その日、何百万人ものアメリカ人が息を呑んでラジオを聴いていました。

何百万人もの若者の番号が、巨大なガラスの「金魚鉢」に入れられ、
誰が最初に徴兵されるかをくじ引きし、それが実況放送されたのです。



その日選ばれた何百万人の中の一人に、ビル・ウィンチェルもいました。

「私の番号は、そのボウルから52番目に引き出された名前だった。
何百万という番号の中で、自分の番号を覚えていない人がいるだろうか?」

このとき自分の番号を引き当てられた者は、特典として?
自分の行きたい兵科を選ぶチャンスが残されていました。
いずれにせよ、若きウィンチェルは決断を迫られることになります。

彼の仲間の一人が、有名な
イリノイ州第107騎兵隊、ブラックホース部隊
に入ったこと、自身馬が大好きで、なにより歩くのが嫌という理由で、
彼は騎兵隊に入隊しに行きました。

ところが彼が応募に行くと、騎兵隊は定員に達し締め切られていました。
(歩くのが嫌という人が多かったってことですかね)

そこで彼は、馬を使う野砲隊に入隊を決めますが、
(なぜ彼がここまで馬にこだわったのかは謎)
彼が入隊して1週間後、馬は使わないことに決まってしまいました。

そして、テネシーのよくわからんキャンプに送られて、
荒地を切り開いて駐屯地を作るような場所で、
いわゆる「KP仕事」(キッチンポリス、本来は厨房の仕事だが
実際は軍隊における下士官の雑務をさす)ばかりさせられました。

「便所掃除。汚い仕事ばかり。
空軍の勧誘が来たとき、私はそのチャンスをつかみました。
今の服装にはとても耐えられなかったのです。

大尉は私に昇進の可能性があることを告げ、
もし空軍に入隊すれば、二等兵として再出発し、
戦争中は格納庫の掃除に明け暮れることになると言い、
私はチャンスに賭けると答えました」。


最初の勤務地はミズーリ州セントルイス。


ここで彼は基礎訓練のやり直しを強いられ、その後、
フロリダのマクディル・フィールドに転勤となりますが、
彼がメンフィス・ベルの一員となる歴史がここから幕を開けます。

【視力検査表をカンニング】

マクディル・フィールドで彼が最初に驚いたのは、
下士官兵が将校と同じように飛行していることでした。

そして陸軍兵にも航空機に乗るチャンスがあるということ、
つまり4発動力の大型爆撃機には空軍のパイロットだけでなく、
陸軍の砲兵が必要とされていることを知ります。

彼の目標は砲手として爆撃機に乗ることになりました。

しかし、ウィンチェルはそのために視力という
もう一つの厳しいハードルを越えなければなりませんでした。

砲兵としての訓練を受けてきたものの、彼は生まれつき左目が乱視で、
それでなくても「片目のガンナー」といわれていたのです。

とても厳しい航空の視力検査に合格できそうにありません。

というわけで、切羽詰まった彼のとった最後の手段は、
視力表のコピーを手に入れてそれを記憶する
というものでした。

あー他にもいたなあ、視力表を覚えるチートでウィングマーク取った人。
海軍最初の飛行士、セオドア「スパッズ」エリソンだったかしら。
違ったらごめん。


というわけで彼はそのファイルを常備し、チャートを片っ端から暗記し、
テストを受けに行くときは、どのチャートを使っているのかを調べ、
一番下の行に来たら、覚えたチャートを読み上げているふりをしました。

記憶力がよかったから、それで20-20の結果になった」

20−20とはアメリカの視力を表す数値です。

アメリカの視力表は日本のと違い、アルファベットを読むもので、
(スネレン視標という)6m(20フィート)離れて検査し、
20フィートから見えるべき指標が20フィートの距離で見えれば20/20。

これは日本の数字に直すと20割る20で=1.0となります。

つまり彼は記憶はしたものの100%正解ではなかったんですね。
いや、もしかしたら怪しまれるので手加減したのか?

日本で航空兵がこういうズルをしたという話は聞きませんが、
日本式のCの空いた部分を指で刺すタイプだと、記憶力に自信があっても
何種類ものチャートを覚えるのは難しかったかもしれません。


【航空砲術学校】

マックディルに到着して間もなく、彼は掲示板の告知を目にしました。
『 航空砲術学校の志願者募集』

キタ〜♪───O(≧∇≦)O────♪

徴兵された砲兵でありながら、彼はこれに志願しました。

結果、ネバダ州ラスベガスの航空砲術学校で6週間学び、
彼は晴れて航空法術学校でウィングマークを取得、伍長に昇進。

砲兵隊にいたら決してありえなかったことです。

このラスベガスの航空砲術学校時代の鮮烈な記憶のひとつに、
彼はある軍曹の言葉をあげています。

彼はこう言ったのでした。

「航空射撃手の平均寿命は6分だ」

爆撃機の任務そのものの危険さを端的に表す言葉でした。
これを聴いてそのことに心を悩まされなかったかというと嘘になります。

だからというわけかどうかはわかりませんが、マックディルに戻った後、
ウィンチェルは無線学校にもトライしています。

同じ爆撃機に乗っている限り、射撃手と無線士の寿命が
そんなに違うとは思えませんが、ここは素直に、彼が
どんな手段でも航空機に乗りたいと思ったと考えることにしましょう。

しかしながら、彼には無線の才能が全くありませんでした。
『ダーとディット』をうまく使い分けることができなかったのです。

ダーとディットは、日本の「トンとツー」に相当します。
ダーはツー、ディットはトンなので前後が逆ですが。

その頃になると、軍は航空に爆撃兵を徴兵するようになっており、
彼は航空スクリーンの小さなバグを追跡する機器担当になり、
それが得意だったので、すぐに爆撃手として定期的に飛ぶようになりました。

結果として彼は25回のベルの任務を終えるまで生き残り、
「爆撃手の平均寿命は6分」という軍曹の予言を大きく裏切って
特別な存在だったと証明することになりました。

(彼が『長生き』しただけ、短命となる射撃手がたくさんいたわけですが)

【俺が将校に銃を向けた件ーノルデン照準器】

当ブログでは、アメリカ各地の軍事博物館で何度となく
このノルデン照準器実物の写真を紹介してきました。

そのコレクションをご覧ください。


ピッツバーグ、ソルジャーアンドセイラー軍事博物館所蔵


カリフォルニア、パシフィックコースト航空博物館所蔵


カリフォルニア、オークランド航空博物館所蔵

これらを紹介したときにも散々説明したように、
ノルデン照準器は当時のアメリカ軍の超機密品扱いでした。

そしてそれを扱うのは・・・そう、爆撃手です。
ノルデン照準器を取り扱う爆撃手は、45口径の拳銃で武装し、

誰にも触らせない、見せないように命じられていました。

ある日、ウィンチェル伍長が乗り組んだ爆撃機が
ヒューストン基地への訓練飛行の後、一晩そこに滞在することになりました。

機内にこの機密機器を置いたままにして置けないので、
彼がそれを基地の保管庫に運んで施錠管理してもらうために
機外に持ち出し、運んでいると、若い中尉が近づいてきました。

「何を持っているんだ」

「ノルデンの爆撃照準器です」

中尉は珍しい言葉を聞いたので好奇心にかられたと見え、
ウィンチェルの方に向かってやってきました。

「ちょっと見せてくれないか」

しかし、彼はノルデン照準器の扱いに関しては、
何人たりとも他者に見せてはならぬ、と命令されていたので、

「それ以上近づかないでください」

しかし、彼の言い方がまだ静かだったせいか、それとも
相手が下士官だったせいか、中尉は平気で近づいてきました。

やむなく彼はピストルを抜いて鋭く叫びました。

「あと一歩でも踏み込んだら死ぬぞ!」

とたんに中尉はシーツのように真っ白になりました。


下士官の将校に対する態度としては常識的にあり得ませんが、
だからこそ中尉はこれがいかに重要な機密であるかを悟ったのでしょう。

彼はそのまま黙ってその場を去りました。


 【メンフィス・ベルの腰部砲手として】

ここまで順調に爆撃手としてのキャリアを積んできたウィンチェルですが、
みなさん、ここでちょっと思い出してください。

メンフィス・ベルの爆撃手、チャールズ・レイトンが士官だったことを。
そう、爆撃手の配置は一般的に士官担当です。

ウィンチェルは1942年5月16日、爆撃手兼航空砲手として

戦闘任務に就くことになり、軍曹に昇進しました。
それからしばらくして、メンフィス・ベルの所属する第91爆撃隊は
出撃前の最終訓練のためにワラワラに向かいます。

彼はワラワラで爆撃手として爆撃機に乗れると思っていましたが、
その直後、空軍上層部は爆撃手は将校でなければならないと決定したため、
ここでウィンチェルは職を失うことになってしまいました。

空軍としては爆撃手として訓練を受けた下士官の使い道に苦慮したようです。

そこで彼がどうなったかというと、スコット・ミラー軍曹とともに、
ミネアポリスのハネウェル社に転勤させられ、
自動飛行制御装置の整備と保守を学ばされることになりました。

ミラー軍曹もそうでしたが、爆撃手の仕事がなくなった今、
飛行機に乗り込む「クルーではなく、メカニック」となったわけです。



ここでもう一度この図をご覧ください。
中央部には飛行機の両サイドに砲が装備されているのですが、
この頃までのB-17では、乗組員の定員は9名で、
両側の銃を一人で担当することになっていました。

攻撃はいつもどちらか片側からしかやってこないだろうと言う判断です。

しかし、実戦に入るとそれは机上の空論であることがわかり、
実際は左右に一人ずつ、二人の腰部砲手が必要だと結論づけられました。

そこで彼は上からこう言われたのです。

「もし腰部砲手で良ければ、君を採用する」

前回のミラー軍曹は自分から配置を申し出てこの配置になりましたが、
もう一人の腰部砲手が決まったのはこういう経緯でした。


そうして、全米で52番目に徴兵され、騎兵隊に入隊しようとして締め出され

次に野砲隊に入隊しようとし、無線訓練で不適格と烙印を押され、
飛行機に乗りたいがために視力検査でチーティングをし、
目の前だった航空爆撃兵の配置を軍の都合でキャンセルされた若い兵士は、
最後に得た配置で腰部銃手となったのでした。


写真の下に展示されていたウィンチェルのフライトスーツと階級章、
ウィングマークなど。

彼の死亡を示すサイトにはこのように記されています。

出生 マサチューセッツ, USA
1994年死亡(年齢 77)
没地  米国イリノイ州クック郡バリントン

TSgt. 技術軍曹- 左腰部砲手

メンフィス・ベルの8番目で最後となるドイツ戦闘機を撃墜したのは
彼の銃撃でした。

また、彼が毎日つけていた綿密な日記によって、後世に
メンフィス・ベルの正確な行動記録が残されることになりました。

化学技術者として引退。


続く。


メンフィス・ベル搭乗員の肖像/モーガン機長〜アメリカ国立空軍博物館

2023-11-13 | 航空機

さて、いよいよメンフィス・ベルの搭乗員を紹介していきます。

メンフィス・ベルに配属された若者たちは、
第 8 空軍重爆撃機乗組員の一般的な構成でした。

ワシントン州、インディアナ州、テキサス州、コネチカット州など
米国全土の州から集まった19歳から26歳までです。

第8空軍と同じように、そして一般的な俗説に反して、
彼らは任務のほとんど(すべてではありませんが)を一緒に飛びました。

固定メンバー以外にも上部砲塔砲手兼技師 3名、
 腰部砲手3名、副操縦士は数名がベルで任務を行っています。

【戦時国債ツァーメンバー】

メンフィス・ベルの戦時債券ツアーのクルー。
このうち初期のメンバーは9人です。

カシマー "トニー" ナスタル SSgt(スタッフサージャント) (右下) は、
25回ミッションを終了しており、帰国の資格を持っていましたが、
実際にメンフィス・ベルに乗ったのは1回だけでした。
何か事情があって戦時公債ツアーに追加されたメンバーです。

黒いスコッチテリアのシュトゥーカくんもツァーに参加したようで、
メンバーの「公式マスコット」として左上に抱っこされて写っています。

【初期コンバットツァーメンバー】

こちらは爆撃ミッションツァー初期メンバーです。

日本なら前方で椅子に座り、中央に機長と副機長、
その周りに士官が配置されるところですが、
アメリカ陸軍の規則はあまり厳密ではないらしく、
機長と副機長、航法士と爆撃手が後ろで立っています。

こんな写真もありますし

機長が後ろから顔をだすという帝国海軍にはあるまじき構図

ちなみに写真の名前の横に説明がある4名が士官となります。

下段左下のボールタレット砲手(丸いボール状の下部砲塔)、
セシル・タレットがここぞとばかりにウィンクしています。

【アメリカに帰国前のメンバー】


アメリカに帰国する前にジェイコブ・デバース元帥
(ヨーロッパ遠征部隊指揮官)と握手するモーガン機長。

【機長としてのヴェリニス大尉】


メンフィス・ベルの副機長として名前を残す、ジェームズ・ヴェリニス大尉
(上段左)は、実際に行ったベルでのミッションは5回だけで、
その後は機長として別のB-17を指揮していました。

これは彼が指揮した「コネチカット・ヤンキー」クルーとの写真です。

なぜ帰国メンバーとして5回しか飛んでいないヴェリニス大尉が選ばれたか、
その後のベルの副機長はどうなったのか、一切わかりませんが、
選定については陸軍的に何か「基準」があったんじゃないかと思います。

ところで余談ですが、ベルのメンバーと撮った写真では
背が低いように見えるヴェリニス大尉、この写真だとむしろ大きい方です。

つまりベルにはモーガン機長始め、やたら背が高い人が揃っていたようです。

■ ロバート・ナイト・モーガン
Robert Knight Morgan 機長 指揮官


"どうやって地獄のヨーロッパ遠征を25回もくぐり抜けて
故郷に帰ることができたのかを一言で言うならば・・・
それは『チームワーク』です。

ロバート”ボブ”モーガンについては、メンフィス・ベルのノーズアートの件で
マーガレット・ポーク嬢のことを取り上げながら少し話しました。


似すぎか

1990年の映画では、マシュー・モディーンが演じました。
「フルメタル・ジャケット」でインテリ新兵のジョーカーを演じ、
「ダークナイト・ライジング」では確かジョーカーにやられていましたよね。

ちなみに、映画では機長の名前はデニス・ディアボーンとなっています。

映画で最後のミッションの時、もし帰国できたらそれぞれ何をしたいか、
わいわいと機内無線で盛り上がっていたら、
「実家が家具会社をやっているんだが、手伝わないか」
と機長自らがいきなり言い出すシーンがあります。

ところが、それに対して、今みたいに命令されるなんて真平だ、
と全員が本音をぶちまけだし、彼は傷つくという苦い展開を、

映画を観た方なら覚えておられるのではないでしょうか。

まさかとは思いましたが、彼の父親は、実際にも
家具製造会社を3つも所有する裕福な実業家でした。

彼はハーバードやスタンフォードと共に世界最高峰のビジネススクール、
アイビーリーグのひとつであるペンシルバニア大学ウォートン校に学び、
卒業後、予備士官として飛行訓練を受け、B-17のパイロットになりました。

彼は車が好きで地元では有名な「走り屋」だったため、
戦闘機を選ぶのではないかと思われていたようですが、
一人でやるよりチームで何かを成し遂げる職種を好み、
結局9人のクルーと組んで任務を行う爆撃機の操縦を選びました。

ただし、彼の爆撃機の操縦は「まるで戦闘機を扱うよう」だと言われたとか。



メンフィス・ベル帰国後叙勲されるモーガン機長。



左上から:
大尉の階級章
少佐階級章
シニアパイロット航空章
コマンドパイロット航空章


■ 東京大空襲〜B-29の機長として



ツァーの途中、ボーイングの工場に立ち寄った時、モーガンはそこで
アメリカ空軍が新しい航空機を開発したことを知りました。

B-17よりも、B-24よりもはるかに大きく、強力で、高く速く飛ぶ飛行機、
そう、ボーイングB−29スーパーフォートレスです。

すっかり魅せられたモーガンは、志願して日本本土攻撃部隊に加わります。
ちなみに「ベル」のクルーで彼と一緒の進路を選んだのは
爆撃手のヴィンス・エヴァンスだけでした。
(爆撃オリジナルメンバーで機長の左で肩を抱かれている人)

エヴァンスがモーガンについてきたのには実はちょっとした
「訳」(というかエヴァンスにとっての利得的理由)があったのですが、
そのことについてはエヴァンス大尉の項でお話しします。



左:第8航空隊のパッチ
左:第20航空群B-29部隊のパッチ



このアメリカ人は中国の味方です
中国軍民で救護してください 
航空委員会

と刺繍された太平洋戦域で携帯されたモーガンの「救護要請章」。

英語の説明には、これが血液型を知らせるものであり、かつ
助けた人には褒賞が出ると書かれている、とありますが、
少なくともこの面にはそういった情報は見られません。

彼の指揮するB-29「ドーントレス・ドッティ」は、
1942年4月18日のドーリットル空襲以降、
日本の首都への初めての爆撃となる東京空襲を指揮しました。

モーガンが指揮する爆撃群が日本本土に最初の空襲を行ったのは
1944年11月24日のことです。

そのとき「ドッティ」に同乗していたのは「ベル」時代の爆撃手、
ヴィンス・エバンスと爆撃総司令官エメット・オドネルJr.准将でした。

モーガンはサイパンから東京に出撃し、
日本上空で26回のミッションを完了しています。
彼の自伝から、そのうち一回のミッションに関する記述によると、

「マリアナ諸島から1,500マイルも離れていた。
ドーントレス・ドッティを駆るエメット・オドネル准将は、
111機のB-29を率いて武蔵島エンジン工場に向かった。

飛行機は30,000フィートから爆弾を投下し、
精度という多くの問題の最初のものに出くわした。
B-29は優れた爆弾照準器(ノルデン)を装備していたが、
低い雲を通して目標を確認することができなかった。

また、30,000フィートで飛行するということは、
時速100〜200マイルのジェット気流の中を飛行するということであり、

爆弾の照準はさらに複雑になった。
空襲に参加した111機のうち、目標を発見したのはわずか24機だった」


ドッティはまた、1945年3月9日、10日の東京大空襲にも参加し、
初の夜間低空火器爆撃(ミーティングハウス作戦)を行っています。

この空襲は第二次世界大戦における単一の空襲で最も死者の多いものであり、
単一の軍事攻撃としては、ドレスデン、広島、長崎を上回るものでした。

■ ドーントレス・ドッティの謎の墜落

東京空襲の後、ドーントレス・ドッティは帰国することになりました。
このときのドッティはモーガンではなく別の機長が操縦していました。

1945年6月7日、フェリーに乗るためにクェゼリンから離陸したのですが、
離陸してわずか40秒後、機体は太平洋に墜落、沈没しました。

これにより、乗員13名のうち10名が即死し、
残骸から投げ出された3名は、その後救助艇によって救出されましたが、
ドッティの残骸は現在に至るまで発見されていません。

残骸は、機内に閉じ込められた10名の乗員の遺体とともに
水深約6,000フィートにあると考えられています。

機体が見つからないのでこのときなぜ墜落したのかも解明していません。

ボブ・モーガンは8月15日の終戦を受けて中佐で現役を引退し、
予備役に留まって最終的に陸軍大佐のランクを得ています。

 死去


モーガン 1990年代

モーガンは2004年4月22日、彼が85歳の時、フロリダ州レイクランドの
レイクランド・リンダー国際空港で開催されたエアショーに出演して帰宅中、
アッシュビル・リージョナル空港の外で転倒し、首の椎骨を骨折して入院。

2004年5月15日、肺炎を含む怪我による合併症のため死去しました。

■受賞と勲章

殊勲飛行十字章第3位
航空勲章第11章 
空軍大統領部隊賞 
アメリカ国防功労章
アメリカ・キャンペーン・メダル 
アジア太平洋キャンペーン・メダル 3
欧州・アフリカ・中東キャンペーン・メダル 5
第 2 次世界大戦勝利勲章 
空軍永年勤続勲章 第 4 勲章 
陸軍予備役勲章 10 年分




続く。



25回の爆撃ミッション〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-11-10 | 航空機

アメリカ国立空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦中爆撃機のアイコンとなったB-17、
メンフィス・ベルについてお話ししています。

今日は、ベルが実際に完遂したミッションについて取り上げます。

1943年1月23日。

フランス占領下のドイツ軍Uボート基地上空の対空砲火が飛び交う空で、
メンフィス・ベルは命がけで戦っていました。

史上最も有名なフライング・フォートレスとなる運命にあった
この米陸軍航空隊のボーイングB-17Fは、
潜水艦檻を標的とした4つの爆撃機群のうちの1つに混じって、
編隊を組んで目標であるロリアンの潜水艦基地に近づいていました。

ゴールに達するために、ロバート・K・モーガン大尉と乗組員は、
ドイツ軍戦闘機の防護バリアーを突破し、
基地周辺を覆う厚い対空砲火をくぐり抜けなければなりません。

彼らの任務は至極単純明快なことでした。

降下を複雑にする回避行動をとらず、安定した状態を保ち、
最後に "Bombs away "(爆弾投下)と言う。
その後はイギリスのバシングボーンにある第8空軍基地に帰るだけです。

しかし、そこに辿り着くまでに、戦闘機の執拗な攻撃が待っています。

「22分間、彼らは私たちに地獄を見せた。」

あるとき、ベルはフォッケウルフFw-190に正面から攻撃されました。

「通常ならダイブして逃げるのだが、
私たちの下には別のグループがいたから、それはできなかった。
そのとき機首を狙った砲弾が尻尾に当たったんだ」

尾部砲手であるジョン・クインラン軍曹が、

「機長、尾翼がやられました。機長、尾翼がやられました!
尾翼が燃えている!尾翼全体が機体から離脱している!」


息を呑んで沈黙していると、

「機長、まだ燃えています。機長、まだ燃えています!」

さらに一瞬の静寂の後、尾翼の砲手が今度は落ち着いた声で。

「機長、火は消えました」

モーガン機長はは後に、

「今まで聞いた中で最も甘美な”音楽”だった 」

と語りました。
その後パイロットが確認すると、尾翼がないようにみえました。
実際にエレベーターが損傷して、コントロールが難しく、
飛ぶのはもちろん、着陸はもっと大変でしたが、それでも
モーガン機長は優れた操縦技術でベルを基地に連れ戻すことに成功しました。


破損した垂直安定板

■124485

これまでお伝えしたように、メンフィス・ベルとその乗組員は、
ナチスドイツの打倒に貢献した重爆撃機の乗組員として、さらに
後方支援要員の奉仕と犠牲を象徴する時代を超越したシンボルとなりました。

彼らはヨーロッパ上空で25回の任務を完了し、
米国に帰還した最初の米陸軍航空隊の重爆撃機として有名になりましたが、
それが陸軍によって調整された「初めて」であったことは、
前回の「メンフィスベルになれなかった爆撃機」の項で説明しましたが、
今日は実際のメンフィス・ベルの実績について掘り下げてみます。


メンフィス・ベルは、USAAFの戦略爆撃作戦の初期段階で、
イギリスのバシングボーンの第91爆撃グループ、
第 324 爆撃飛行隊に配属された B-17F 重爆撃機です。

1942年11月から1943年5月まで、メンフィス・ベルと乗組員は、
ドイツ、フランス、ベルギーなどへの25 回の爆撃任務を実施しました。

つまりたった半年の間に25回の任務を完遂したことになります。


しかし、「たった半年」と言っても、その半年間、
無事に任務を継続できる爆撃機は現実には稀でしたし、
25回の任務まで何も起こらない方が稀というものでした。

現実に、メンフィス・ベルのヨーロッパ遠征中、
第8空軍は平均して18回の出撃ごとに1機の爆撃機を失っていました。

そしてバシングボーンから出撃した最初の3ヵ月間で、
ベルが所属した爆撃機群の80%が撃墜されました。

モーガン機長がそのことをこんなふうに説明しています。

「朝食を10人で一緒に取る。
その日の夕食には自分以外に一人しかいない。

そういうことだ」

1990年の映画「メンフィス・ベル」でも、目の前で
一緒に出撃した爆撃機を撃墜され、無線から落ちていく彼らの
断末魔の絶叫が聞こえてくるという壮絶なシーンや、

出撃前の壮行会の行われる中、ベルの搭乗員一人が彷徨い出て
「死にたくない!」と泣くシーンがあったのを思い出します。


そんな中、メンフィス ベルはいくつかの戦闘任務で損傷しつつも、
その度生還し、1943年5月17日に 25 回目の任務を完了しました。

25回目の任務を終えて機を降りてきたクルー

そしてその後彼らははアメリカ全土の戦時公債ツアーのため帰国しました。 

124485というのはメンフィス・ベルの機体番号です。


■メンフィス・ベル戦闘ミッション内訳


ミッションを行った場所と落とした爆弾数がペイントされたパネル。
25回ミッションの割に目的地が少ないのは、いくつかの都市
(特にフランスのサン・ナゼール)が重複しているからです。

25回の爆撃目的地内訳は、フランス18回、ドイツ6回、オランダ1回。

また、爆弾の上に描かれた星は、赤がグループリーダーとして7回、
黄色がウィングリーダーとして8回飛行したという意味を持ちます。

1)1942年11月7日 - フランス、ブレスト

2)1942年11月9日 - フランス、サンナゼール

3)1942年11月17日 - フランス、サンナゼール

4)1942年12月6日 - フランス、リール

5)1942年12月20日 - フランス、ロミリー・シュル・セーヌ

6)1942年12月30日 - フランス、ロリアン
(機長:ジェームズ・A・ベリニス中尉)

7)1943年1月3日 - フランス、サン・ナゼール

8)1943年1月13日 - フランス、リール

9)1943年1月23日 - フランス、ロリアン

10)1943年2月14日 - ドイツ、ハム

11)1943年2月16日 - フランス、サンナゼール

12)1943年2月27日 - フランス、ブレスト

13)1943年3月6日 - フランス、ロリアン

14)1943年3月12日 - フランス、ルーアン

15)1943年3月13日 - フランス、アベヴィル

16)1943年3月22日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン

17)1943年3月28日 - フランス、ルーアン

18)1943年3月31日 - オランダ、ロッテルダム

19)1943年4月16日 - フランス、ロリアン

20)1943年4月17日 - ドイツ、ブレーメン

21)1943年5月1日 - フランス、サン・ナゼール

22)1943年5月13日 - フランス、メオー
(機長:C.L.アンダーソン中尉)

23)1943年5月14日 - ドイツ、キール
(ジョン・H・ミラー中尉搭乗)

24、25)
1943年5月15日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン
1943年5月17日 - フランス、ロリアン
1943年5月19日 - キール、ドイツ
(機長:アンダーソン中尉)

24回目、25回目任務が、上記3つのどれであったかは
情報源によって意見が分かれていて決定できないのだそうです。

しかも、5月17日の「ベル搭乗員にとっての25回目ミッション」は、
メンフィス・ベル機体にとっては実際は24回目の出撃でした。


爆撃ミッションというのはいつも同じメンバーでなく、
ときには機長が変わったりしました。
全ての乗員がベルで25回の任務を完遂したわけではありません。

機長のロバート・モーガン大尉がメンフィス・ベルで出撃したのは20回、
副機長ヴェリニス大尉に至っては、ベルに乗ったのは機長を務めた一回だけ、
25回というのは他の爆撃機で挙げた回数だという話もあります。

メンフィス・ベルの乗組員として名前を挙げられているのは、
日本版ウィキでは定員の10名ですが、英語版では15人いるのも
いつも固定のメンバーではなかったということを表しています。

また、モーガン機長以下クルーは、ベル以外のB-17で数回出撃しており、
それは

1943年2月4日 - ドイツ、エムデン ”Jersey Bounce”

1943年2月26日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン ”41-24515”

1943年4月5日 - アントワープ、ベルギー ”Bad Penny”

1943年5月4日 - ベルギー、アントワープ ”
The Great Speckled Bird”


に後一回を足した5回の任務であることがわかっています。
また、メンフィス・ベルに乗るメンバーも同様で、
全く別の搭乗員を乗せて5回任務を行っています。

半年の間、メンフィス・ベルに搭乗したクルーは50名に上りました。
機体の整備や配車ならぬ配機の都合でこういうこともあったんですね。



わたし個人は、爆撃地のほとんどがフランスであったのも意外でした。

確か映画の爆撃シーンで、目標の向上が雲で見えないのを、副機長が、
適当に落として帰ろう、どうせみんなナチなんだというのを機長が拒否、
視界が晴れるまで粘って待っていましたが、実際はそうでも、
映画ではわかりやすくドイツに落とすということにしたのでしょう。

まあ、フランスに落とすときでも、当時の状況を考えると、
「どうせみんなナチ」という言葉が出ても間違いではありませんが。


25回の戦闘任務中、ベルの公式記録は8機の敵戦闘機撃破となっていますが、

実際にはその他5機撃破、少なくとも12機に損傷を与えたとされます。

爆撃手ビンセント・B・エヴァンスの見事な働きもあって、
ベルは驚くべき正確さで、ブレーメンのフォッケ・ウルフ工場、
サン・ナゼールとブレストの閘門、
ヴィルヘルムスハーフェンの埠頭と造船施設、
ルーアンの鉄道操車場、ロリアンの潜水艦格納庫と動力施設、
アントワープの航空機工場の爆撃を行いました。


ところで、「ロリアンの潜水艦基地」というので、瞬時に
映画「Uボート」Das Boot のラストシーンを思い出してしまいました。





25回ミッション完遂で帰国の権利を得たベルの搭乗員は、
イギリスで国王も出席する式典に参列しました。



式典で、ベルのメンバーは、ジョージ6世夫妻の謁見を受けました。
(妻はエリザベス妃、字幕のクィーンは『王妃』の意)
機体の向こう側にいるのは整備クルーです。

ちなみにジョージ6世は海軍兵学校を卒業し、士官候補生時代は
「ジョンソン」の通名で戦艦「コリンウッド」に乗り組んでいますし、
ユトランド沖海戦には砲塔担当の士官として参加しています。


このときジョージ6世が着用しているのは空軍の制服ですが、
おそらく王族特権?で海軍航空隊から空軍にスライドし、
所属を空軍に転籍したためだと思われます。

王は、対戦終結間際には戦略爆撃隊に所属していたというだけあって、
メンフィス・ベルのメンバーにはぜひ会っておきたかったのでしょう。


ベルは、ドイツ空軍がまだ戦闘機で圧倒的な優位を保ち、

ナチス政権の防衛が強固であったこの戦争で、
最も危険な空襲に参加した爆撃機のひとつです。

彼女はメッサーシュミットやフォッケ・ウルフと激突し、銃弾を浴び、
対空砲火を受け、5度にわたってエンジンの1つが撃ち抜かれ、
それでもそのたびに帰ってきました。

この伝説的な爆撃機が最も長く前線から遠かったのは、
輸送の問題で主翼の交換が遅れた5日間だけでした。


当時を振り返って、モーガン機長は、その25回の中には


「簡単な任務もミルクランもなかった」

と断言します。
そして、B-17のミッションを成功させた秘訣があるとすれば、

「タイトなフォーメーションで編隊を組むこと。
そうすれば驚くほどの火力を出すことができた。
それと、ノルデン爆撃照準器のおかげで高高度から精密爆撃ができました。
また、乗組員にはちょっとした神の介入もあったように思います」

「公の場でしばしば "死ぬほど怖かったでしょう?"と尋ねられる。
不安と心配はあった。とても忙しかった。
10人それぞれに仕事があった。怖がっている暇はなかったよ」


そして彼はこう付け加えるのでした。

「ヨーロッパ上空の地獄を25回もくぐり抜け、
死傷者を出さずに戻ってこられた理由を一言で言うなら、
それはチームワークだ。
フライング・フォートレスで戦闘したことのない人には
おそらくそれがどれほど重要なことかわからないだろうと思う」


動画を検索していたら、空軍博物館に
リニューアルされたメンフィス・ベルがお披露目されたのは、
わたしが見学するわずか2年前だったことがわかりました。

Memphis Belle Unveiling

動画途中で、機長モーガン大尉の息子さん(そっくり)という人や、
他のメンバーのご子息が何人か登場し、
ベルがあらたに生まれ変わって展示された感激を語っています。

動画では、修復にどれほどの技術と年月、熱意が注がれたかも
写真を共に説明されていますので、感動的な音楽と共にお楽しみください。



続く。





メンフィス・ベルになれなかった重爆撃機たち〜 国立アメリカ空軍博物館

2023-10-21 | 航空機

第二次世界大戦中の爆撃機のアイコンだったB-17、「メンフィス・ベル」。
このスーパーフォートレスにまつわるいろんなことを、
国立アメリカ空軍博物館の展示からご紹介するシリーズです。

■ 引退から空軍博物館展示までの道のり



25回の爆撃ミッションを終え、アメリカに帰ってきてから
全米津々浦々を公債ツァーで引き回しされていたメンフィス・ベルですが、
ツァー終了後、訓練機として使用するために、
フロリダのマクディル陸軍飛行場へ向かいました。

人のみならず引退した飛行機にも悠々自適の退役生活が待っているとは、
さすがアメリカという感じです。

戦争末期、飛行機がなくて2枚羽の練習機で特攻させたり、
航空燃料がなくて、代替の松根油を取るため、
予科練の訓練生に松の根っこを掘らせたりという話もある我が国とは
そもそも国力からして雲泥の差であることを思い知らされますね。

マクディル基地で訓練用のプラスティック爆弾を搭載中のベル


戦争が終わると、メンフィス・ベルはは他の余剰爆撃機とともに
オクラホマ州の陸軍飛行場に保管され、1946年に破棄される予定でしたが、
テネシー州メンフィス市が「名前のよしみで」この機体を入手し、
その後、ナショナルガードの兵器庫で雨ざらしのまま展示されていました。

1977 年、数十年にわたる天候や外部衝撃による経年劣化後、
メンフィス・ベルは修復され、米空軍から、新しくできた
メンフィス ベル・メモリアルアソシエーション(MBMA)に貸与されました。

 
MBMAの絵葉書、搭乗員のサイン入り

これを見る限り、天蓋といってもほとんどは外に置かれているようです。

1987年から2002年まで、MBMA は、メンフィス・ベルを
メンフィス市マッド島に天蓋をしつらえて展示していました。

しかし、MBMAはメンテのためのリソースに不足してきたこともあり、
2005年に機体をアメリカ空軍国立博物館USAFに貸与することを決定します。

2005年から13年の年月を費やし、博物館の修復スタッフは、腐食処理、
欠落した機器の交換、正確な化粧直しなど機体の修復を完成させました。

博物館で修復を受けているメンフィス・ベル

2018年5月17日、メンフィス・ベルが25回目の爆撃任務を成功させて
ちょうど75年目にあたるこの日、その機体は
国立アメリカ空軍博物館の公式展示品となりました。

■実は25回任務を終えていた爆撃機たち



メンフィス・ベルは 25回の任務を完了した
最初の USAAF 重爆撃機ではありませんでした。

アメリカ軍が宣伝のために選んだのが、たまたまこの機体だったというだけで、
少数の重爆撃機がこれ以前に25回目の任務を完了していたのです。

ここでは、25回任務を達成していながらも、タイミングのせいで
「メンフィス・ベルになれなかった」重爆撃機たちに光を当てています。

【スージーQ / Suzy-Q B-17E】 



 フライング・フォートレスB-17E、愛称Suzy-Q 。

25回の任務を完了して米国に帰還した最初のUSAAF重爆撃機です。
1942 年 2月から 10 月まで太平洋戦争初期に戦闘任務を遂行し、
戦時公債ツアーのため米国に帰国しました。 

ちなみにこのスージーQという名前ですが、オリジナルは
歌手のスージー・クワトロではなく、(そう思っていた人多いと思う)
「デスパレートな妻たち」のスーザン・メイヤーの元旦那が
彼女を呼ぶときに使う名前でもありません。

「スージーQ」は一般的に「ケイクウォーク」「チャールストン」

「ツイスト」「ロコモーション」のような流行したダンスの一つです。

それは1936年と限定的な短期間の流行でしたが、語呂がいいので
スージー・クアトロが自分の愛称にしたり、ドラマに使われるわけです。

B-17の名前の由来はわかりませんが、おそらく
乗組員の誰かの恋人の名前が「スージー」だったんじゃないでしょうか。

【ヘルズ・エンジェルス/HELL'S ANGELS B-17F】


1943 年 5 月 13 日、第 303爆撃群の B-17F ヘルズ・エンジェルスは、
メンフィス ベルの乗組員より 4 日前に、
ヨーロッパ上空で 25 回の戦闘任務を完了した重爆撃機となりました。

しかし、25回を大きく超える48 回の戦闘任務を飛行した後、
戦時公債ツアーのため米国に戻ったのは 1944 年になってからでした。

名実ともに25回任務を果たした最初の爆撃機だったのに、
途中で第303から第358爆撃飛行隊への転勤があり、
結局長い間任務を重ねることになったわけです。

25回目の任務を終えた後、「ヘルズ・エンジェルズ」は
1944年まで戦地に留まり、合計48回の任務の間、
搭乗員の負傷や事故もなく飛行していました。

 1944年1月にようやく米国に戻ることができ、彼らも
「ベル」のようにさまざまな戦争工場を視察しましたが、
当然のことながらそれほど騒がれることもありませんでした。

戦争が終わるとすぐ、1945年8月に「地獄の天使」は
(どうにも厨二病な名前ですね)スクラップとして売却されました。

4日も早く任務を達成していたヘルズ・エンジェルスの搭乗員たちは、
ヨーロッパで粛々と出撃を重ねながら、ベルの国内における
熱狂的な歓迎報道をどのように見聞きしていたのでしょうか。

【ホット・スタッフ/ HOT STUFF B-24
アイスランドに消えた悲劇の爆撃機】


第 93 爆撃群のB-24 「ホット・スタッフ」は、1943年2月7日、
第二次世界大戦のヨーロッパで多くの飛行機が撃墜される不利な状況の中、
25回目のミッションを終了した第8空軍初の重爆撃機と搭乗員、
そして初めての任務達成B-24となりました。

この達成日も、メンフィス・ベルより3ヶ月も前でした。


そして25回を終えてもしばらく出撃を続け、
結局約30回の戦闘任務のうち約半分はヨーロッパ上空を飛行し、
半分はアフリカでの攻撃と地中海での哨戒任務をこなしました。

陸軍は、ホット・スタッフを31回目の任務を完了させ次第帰国させ、
戦時国債の宣伝ツァーを大々的に行う予定をしていました。


つまり最初の「爆撃機のアイコン候補」だったわけです。

ところがここで、彼らをさっさと帰国させておけばよかった、
と陸軍関係者が歯噛みするような事故が起こってしまうのです。

アイスランドでの墜落

ホット・スタッフの帰国が具体的になったころ、
ヨーロッパ作戦地域の司令官であり、空軍の父として知られていた
フランク・M・アンドリュース中将はワシントンD.C.に戻るため、
かねてより知己であったパイロット、シャノン大尉の爆撃機、
ホットスタッフに同乗し、一緒にアメリカへ戻りたいと考えました。


チャーチルと握手するアンドリュース元帥

この元帥の思いつきは、ホットスタッフのクルーにとっては
ある意味「いい迷惑」だった可能性があります。

実はホットスタッフは、何もなければあと一回、潮流作戦、
=プロスティ襲撃に参加するために南に行くはずだったとも言われています。

しかし、ペンタゴンで4つ星大将に昇進をするため、
急ぎで帰国したかったアンドリュースにゴリ押しされたようで、
アイスランドを経由して帰国することが決まりました。

しかし、給油のためアイスランドを経由したホットスタッフは、
1943年5月3日、悪天候の中、ファグラダルスフィヤル山に墜落し、
アンドリュース元帥を含む乗員14名が死亡してしまいます。




墜落した機体から乗員の遺体を回収する

このとき、尾部砲手のジョージ・アイゼルだけが生き残りました。



博物館にはホットスタッフの機体の一部が展示されています。


アンドリュース元帥の事故死は、その後の歴史を変えたかもしれません。


7ヵ月後の1943年12月に連合国最高司令官に指名されたのは
あのドワイト・アイゼンハワー元帥、つまり、もしこの事故がなければ
彼が戦後大統領になる未来もなかった可能性は高いからです。

運命が変えられたのはアイゼンハワーだけではありませんでした。

「ホットスタッフ」を事故で失った陸軍は、士気の低下を懸念し、
25回帰国をこの際大々的に宣伝することを決めた(にちがいない)のです。

任務達成後速やかに帰国させて戦債ツァーを回らせる役目は
こうしてメンフィス・ベルに回ってくることになり、
25回ミッションに到達した最初の爆撃機として、
彼らを事故や被撃墜で失う前になんとか無事に帰還させ、
英雄として讃え、大いにこれを祝うことにしたのです。



陸軍省が急遽ヨーロッパにウィリアム・ワイラーを派遣し、
ドキュメンタリー映画『メンフィス・ベル:空飛ぶ要塞の物語
(Memphis Belle: A Story of a Flying Fortress)』
が彼らの宣伝のために撮影されたのは前述のとおりです。


■ なぜ「ベル」だったのか


さて、ご紹介してきた3機の爆撃機は、それぞれ「ベル」よりも先に
25回任務を終え、帰国の権利を持っていたにもかかわらず、
結局主役になることはありませんでした。

その理由は単純に「タイミングが合わなかった」というものです。

このほかにも、25回任務達成の一番乗りは、4機のどれでもなく、
「デルタ・レベル2」だったという話もありますが、
とりあえず墜落してしまった「ホットスタッフ」を除く2機についていうと、
まず、「スージーQ」は、

任務達成がメンフィス・ベルより半年早かった

ので、陸軍省が宣伝目的でこれを持ち上げようとした頃には
すでに帰国して国内の戦債ツァーを終えていました。

事故で墜落したホットスタッフはいうまでもありませんが、
ある意味最も気の毒だったのは「ヘルズ・エンジェルス」かもしれません。
なんと、

ワイラーら映画スタッフが撮影準備している間に
25回任務を達成してしまった

という理由でベルにお株を奪われて主役になり損ねたばかりか、
彼らは25回で帰国というルールすら執行を先延ばしされてしまったのです。

メンフィスベルを一目見るために集まった人々

完全に陸軍の宣伝の都合ありきで、それにちょうどタイミングが合ったのが
たまたまメンフィス・ベルだった、ということになりますが、
いかに戦争中のこととはいえ、当事者同士にとっては
この苦々しい真実はかなり戦後も尾を引いたのではないかと思われます。

ことに、英雄は一機だけでいいと言わんばかりに、25回任務を終えても
いつまでも帰国させてもらえなかった「ヘルズ・エンジェルス」の
搭乗員たちの心中は、果たしていかなるものだったでしょうか。



続く。




モーガン大尉とマーガレットの物語〜「メンフィス・ベル」アメリカ国立空軍博物館

2023-10-18 | 航空機

第二次世界大戦中、最初に25回の空爆ミッションを成功させ、
帰国の権利を得ることで国民のアイドルになった爆撃機、
「メンフィス・ベル」の物語、二日目です。

今日ももう少し、パネルの新聞記事から拾い読みしていきます。



帰国してきた「英雄」たち、ことに士官たちは
好むと好混ざるに関係なく、偉い人たちの出席するところに引っ張り回され、
そこで面白くもなんとないおじさんの話を拝聴するのが使命です。

というわけで、どこのかは分かりませんが、
市長という人のともすれば時事放談のような演説を聞くモーガン機長は、
新聞記事の写真でもわかるくらい退屈そうな顔をしています。

「フライング・フォートレスを街に持ち帰った後、
昼餐会の席で搭乗員たちはタイムズ誌に表彰される」

また、10人の搭乗員はそれぞれスターのように注目され、
そのインタビューが事細かく報道されました。

「ベル」には4名の士官が指揮官として搭乗していました。
爆撃機の命令系統としてこれがスタンダードなのか、
4名の階級は全てキャプテン、大尉で、機長と副機長、
そしてナヴィゲーターと爆撃です。

あなたは戦争の英雄というものの構成要件はなんだと思うだろうか?
あるいは、敵国の上空に差し掛かった爆撃手どんなことを考えるものだろう?

背が高くスリムなテキサス生まれのヴィンセント・B・エヴァンス大尉、
帰還した「メンフィス・ベル」の爆撃手である彼は、
B-17爆撃機によるヨーロッパと北アフリカの枢軸側に対する
25回の爆撃任務を成功させ、質問に答えた。(以下欠落)


土曜日、ハートフォード・タイムズ紙がベルの勇敢な飛行士10名を招待した
ハートフォード・クラブの昼食会の席で、若々しい笑顔の機長は、
昼食会の同席者の質問に答えて非公式にこのテーマについて語った。

「面白いですね」と彼は引き気味に言った。

(記事欠落)

20回目の爆撃任務の頃には、もしかしたら生きて帰れるかも、
というような感覚になってきますが、そんな時にはバイオリンの弦を
引き締めるように、気持ちも引き締めるようにしました。

「ああ、もし25回任務を達成したら、任務を離れて休めるんだ・・
いやまてよ、後5回、後5回の任務だ、これが大変なんだぞ」と。

そして彼らとその愛機は最初に退役することになった。

(略)


「25回爆撃のフォートレス帰国する」

フライングフォートレス「メンフィス・ベル」のベテランクルーは、
アメリカで最初にヨーロッパにおける完璧な25回の任務を終え、
昨日、ワシントンにおいて、ハップ・アーノルド空軍司令、
陸軍長官であるロバート・パターソン両者と愛機の前で面会した。



「ベル」搭乗員、ハミルトンを訪問、
「我々はベルの品質を高く評価している」

爆撃機ベテラン、プロペラ会社の労働者に謝意を表す

ハミルトンは航空機プロペラの製造会社ですが、
ここで彼らを迎えて行われた例のドキュメンタリー上映と、
セレモニーなどが行われ、その際、搭乗員たちは
工場の労働者にその性能の良さを褒め、お礼を述べたという記事です。

■メンフィス・ベルのアートワーク



今日は前回触れたこのノーズアートについて掘り下げてみます。
同じデザインの「電話中のメンフィスベル」が、機首の右と左で
衣装の色を赤と青と違えてペイントされていますが、
右舷側の女子は赤い服(下着かも)に合わせて赤毛、そして
左舷ひ側はブロンドと髪の色も変えています。


オリジナル原画はこちら。
赤い下着に金髪ですから、「ベル」のアレンジは現場の判断と思われます。

それにしても原画と比べるとノーズアートの画力が・・・
まあそれはいうまい。

特にノーズアートの珍妙なヘアスタイル。
多分ミリタリー男子にはペティ・ガールのヘアースタイルの
構造的仕組みが理解できなかったのだと考えられます。

これはメンフィス・ベルのために描かれたオリジナルではなく、
機長のモーガン大尉はアーティストのジョージ・ペティに
「ペティガール」の使用許可をもらい、一連の画集の中から
これぞというイラストを選んだという経緯があります。



当時発行されていた雑誌「エスクヮイヤ」。
1941年の4月号に掲載された「ペティ・ガール」が、
のちの「メンフィス・ベル」のノーズアートに選ばれました。

それにしても、アメリカでは当時こんなイラストを表紙にしてたんですね。
「エスクヮイヤ」誌は男性向けマガジンだったので、イラストも
ノーズアートになりうるようなセクシーな半裸の女性が多めです。

この表紙は、爺ちゃんとミニスカートのお嬢さんが、どんな経緯なのか
フェンシングの突きを解説書を見ながら型の練習をしているのですが、
爺ちゃんの飛び出した眼球はポイントよりちょっと下に釘付け。

今なら漫画にもならないくらい危ないネタが時代を感じさせますが、
イラストのタッチは現代でも十分通用しますね。



元々「メンフィス・べル」という名前は、機長モーガン大尉の恋人、
マーガレット・ポーク嬢にインスパイアされたものでした。

映画「メンフィス・ベル」で彼を演じたマシュー・モディーンは
実にハマり役だったと思わせる写真ですね。
このときモーガン大尉は若干24歳だったそうです。

■コクピットに貼られた「写真」



このマーガレット・ポークの写真は、モーガン大尉がコクピットに持ち込んで
操縦席の前に貼っていたのと同じものになります。

写真使用例:
本来は写真入れではないはずですが、モーガン大尉(左)は
写真を少し折り曲げてここに無理に入れていました。


ところでどの作品だったか、アメリカの戦争映画で
日本軍機の操縦席に貼られた恋人の写真が映るシーンがありましたが、
この慣習はすくなくとも日本にはなかったように思います。

恋人なり妻なりの写真を見ながら「仕事」をする文化ではありませんし、
持っていたとしても懐中の写真入れなどにひっそりと納め、
誰も見ていない時に眺めるという感じだったのではないでしょうか。

ただし、同僚のいない戦闘機とか、なかでも特攻機、
特殊潜航艇の乗員がどうしていたかは本当にわかりません。



いかにもヤラセっぽい写真・・・なんて言っちゃいけないか。

撃墜マークをポーク嬢に指し示すモーガン機長。

この下の記述によると、彼女はメンフィスに住む前にはイギリス在住で、
(イギリス人ではない)二人が出会う前にはアメリカに移り住んでいました。



左:
25 回目の任務から数週間後、機首の爆弾の列の下に
 8 つの鉤十字を含むマーキングがメンフィス・ベルに追加されました。

右:
メンフィス・ベルのノーズ アートは、第 25 回ミッションから約 1 週間後、
後に多数の宣伝マークが追加される前のものです。
こちらが現存するメンフィス・ベルと同じペイントになります。





「メンフィス・ベル」のノーズアートを描いた、
トニー・スターサー(Starcer)の他の作品群です。
いずれも第91爆撃隊のスコードロンパッチで、

第91爆撃隊はそれそのものが爆弾のワシ、
第322=爆弾を落とすアンクルサム
第323=爆弾の上で腕組みするガゼル
第324=爆弾とニンジンを持つバックスバニー
第401=爆弾の上で攻防を振り回すビッグフットとインディアンボーイ

というデザインです。
バックスバニーにはやっぱり使用許可をとったんでしょうか。

■ 機長と「メンフィス・ベル」の恋の行方

ところで、ここでとても悲しい報告をせねばなりません。
これだけ写真に撮られ、その恋の経緯があらゆる媒体にさらされ、
すっかり注目のカップルとなったモーガン機長とポーク嬢。

その後結婚してハッピリー・エバー・アフターとなれば、
アメリカ軍としても大変喜ばしいことだったのですが、
やはり男女の仲というのはそう簡単にいかなかったのです。



結論から言うと、このビッグカップルの恋は実りませんでした。


ここで二人が付き合うまでの経緯をお話しします。

メンフィス在住のオスカー・ボイル・ポーク夫人には二人の娘がいました。
長女のエリザベス、そして妹のマーガレット。
(実はもう一人男の兄弟もいますが今関係ないのでその話はなしで)

姉エリザベスは、マッカーシー大尉という軍医と結婚していましたが、
彼がフロリダのマクディル飛行場にある第91爆撃グループに入隊し、
ワラワラへの移動命令を受けたので、彼女も付いていくことになりました。

夫の軍医は移動に列車を使えましたが、妻はたった一人でフォードを
南東部から北西部まで運転していかなければなりません。
家族に会うために途中立ち寄ったメンフィスで、エリザベスは

「一人で長距離ドライブするのは寂しいし心配」

と泣き言をいい、一緒に来てくれと妹に頼みました。
最初、妹は断りましたが、長女を心配した母が、

「わたしも一緒に行くから!
なんだったらサンバレーとイエローストーンも行きましょ!

きっと楽しいわよ。ね、ね?」

と妹を説得し、愛犬のスコッチテリアを加えて旅行することになったのです。

そしてマーガレットは、ワラワラで、
ロバート・K・モーガンという若い少尉と出会うことになったのです。



マーガレット・ポークは1922年12月15日、テネシー州ナッシュビルの
第11代大統領ジェームズ・ノックス・ポークの子孫として生まれました。
(サンフランシスコには彼の名前をとったポークストリートというのがある)

名家のお嬢さんだったわけです。
彼女の父親は弁護士であり、木こりであり、南部の伝統的なプランター、
オスカー・ボイル・ポーク、母はベッシー・ロブ。

マーガレットは私立の女子校に通っていたにもかかわらず、
おてんばな女の子に育ちました。
スカートをたくし上げて、走って、どんな遊びでもするような。

しかし、「運命の」といわれるわりには、二人とも
最初の出会いをはっきりと覚えておらず、たくさんいる誰かの一人、
という認識だったようです。

事態を「特別なもの」に変えたのは、ある口論でした。
彼女はそのころボブ(モーガン)の誕生パーティに呼ばれたのですが、
他の若い男性とデートの約束をしていました。

このとき彼女が気まぐれと好奇心からモーガンの誕生日を優先して
デートをキャンセルしようとしたら、
なぜか姉と義理の兄から猛烈に叱られてしまいます。

「もう大学生じゃないんだから。今は男の世界なんだから」
(意味不明。今軍人相手に勝手なことをして彼らを振り回すな、的な?)

しかし、なんと女心とは不思議なものでしょう。

ボブ・モーガンの誕生日パーティに行きたいとゴネたことが、
今まで彼のことをなんとも思っていなかったはずの
マーガレットの関心を彼に向けてしまったのです。

そうなるとボブの方も彼女が気になり出し、
若い二人はあっさりとつきあいはじめることになったのでした。

そうなると、モーガンはとにかく一途でした。
彼女にアピールするために、爆撃機に乗って近所を徘徊?し、
朝の5時からモーニングコールよろしく爆音を撒き散らす。
低空で彼女の家を目掛けて飛ぶものだから、
家にいると建物全体が揺れて飛行機が窓から入ってきそうでした。

まあ、血気盛んな男子の示威行為というのは加減を知りませんからね。
このときのことはマーガレット自身がこう述べています。

「ボブは悪魔かというくらいパイロットとしては最高でした。
彼はあの飛行機を本当に飛ばすことができた。すごく興奮したわ」


今の日本でこんなアピールを彼女にできる飛行職種なんて、
ブルーインパルスの隊員くらいしか思いつかないなあ。


1942年9月12日、B-17F 41-24485は初めてメンフィスに着陸しました。
ボブ・モーガンは、マーガレット・ポークに "彼の "飛行機を見せるために
軍に特別な許可を願い得たそうです。

そして彼女の宝箱に終生残されたその日の思い出の品は、以下の通り。

メンフィスのピーボディ・ホテルでのダンスのチケット
;半券番号782「Us, September 12 1942」記載

蘭のコサージュのドライフラワー

スイートハート・リング
ゴールドの結び目にダイヤモンド

そしてほどなくして、イギリスへ出発するモーガンから小包が届きます。
中にはダイヤモンドの婚約指輪が入っていました。


■マーガレット・ポークへのインタビュー

「ベル」が無事に25回のミッションを終えて帰国してきたあと、
マーガレットはマスコミのインタビューを受けています。

インタビュアー: ”メンフィス・ベル "を見たとき、さぞ興奮したでしょう。
「メンフィス・ベル」が第4フェリー・グループ・フィールドの
格納庫の手前で停車し、モーガン大尉が降りてきたときには。


フライング・フォートレスがほぼ垂直にバンクしながら
飛行場を旋回するのを見ながら、あなたがこう言っていましたね。

『垂直のバンク!!あれが彼の飛行機よ!』と。


これが皆の待ち望んでいたフライング・フォートレスだと、
あなたはどうしてそう確信できたのですか?

マーガレット: ボブのフォートレスの扱い方はとてもスムーズでしたから。

インタビュアー :キャプテン・モーガンを見るのは何カ月ぶりですか?

マーガレット: ええ、正確には9ヶ月ぶりです。

インタビュアー キャプテン・モーガンに初めて会ったのはどこですか?
ワシントンでしたよね?


マーガレット: 去年の7月にワシントンのワラワラで。

インタビュアー :どのようにして知り合ったのですか?


マーガレット: 姉と義理の弟のところに滞在していたのですが、
その頃ボブが家に来て、そこで会いました。


インタビュアー:キャプテン・モーガンはアッシュビルの出身ですよね?
アッシュビルの予備校に通っていたのですか?

マーガレット:いいえ、バージニア州のエピスコパル高校です。

インタビュアー:彼はどこの大学を "母校 "と呼んでいますか?

マーガレット:ペンシルバニア大学です。

インタビュアー:モーガン大尉はいつから空軍にいるのですか?

マーガレット:2年半です。

インタビュアー: 飛行訓練はどこで受けましたか?

マーガレット: ルジアナ州のバークスデール飛行場です。

インタビュアー: あなたとモーガン大尉が婚約したのはいつですか?

マーガレット: 去年の9月です。

インタビュアー :結婚式の日取りについて教えていただけますか?

マーガレット: まだ決まっていません。

インタビュアー :モーガン大尉は、現在の全国的な戦時国債ツアー、
メンフィス・ベル "のツアーが終わったら、国内に滞在するのですか?

マーガレット: はい、少なくとも半年は。

インタビュアー :今回の戦時国債ツアーで何都市を訪問されますか?

マーガレット:21かそれ以上です。

インタビュアー: その都市のいくつかを教えていただけますか、
マーガレット?

マーガレット :ナッシュビル、ニューヘイブン、デトロイト、
クリーブランド、サンアントニオなどです。

インタビュアー:彼らはいつメンフィスを離れましたか?

マーガレット: 昨日の午後です。

インタビュアー:モーガン大尉がメンフィスを訪れている間、
あなたは彼の公の場に何度も同行しましたね。

マーガレット: ええ、ほとんどです。

インタビュアー :土曜日にコート・スクエアで開かれた会合で、
群衆があなたを呼び続けたときはスリリングだったでしょうね。
スリル満点だったでしょうね。

マーガレット:とてもスリリングで光栄なことでした。


いやー・・・・なんというか・・。

二人が破局した理由というのをわたしはこの時点で何も知りませんが、
こんな扱いをあっちこっちでされたら、本人同士がどうでも
ずっとこんな騒ぎに巻き込まれるのかと思って嫌にならないかな。

なんでそんなことを聞く?
予備校とか大学とか、インタビュアーなら前もって調べるか本人に聞けよ、
と言いたくなるようなことまで婚約者に聞いていますよね。

二人の「お別れの原因」については、そのうち
何か調べていてわかったらここでご報告するかもしれません。

わたしとしては「世間に騒がれすぎでどちらかが嫌になった」に10モーガン。


ただ、二人は結婚することはありませんでしたが、
マーガレット・ポークは1990年に亡くなるまで、
メンフィス・ベル・メモリアル協会の資金集めに協力していたそうです。


続く。

「メンフィス・ベル」アメリカン・アイコン〜 国立アメリカ空軍博物館

2023-10-14 | 航空機

ピッツバーグに滞在していた2020年の夏、一人で車を駆って
オハイオ州デイトンにあるアメリカ空軍の公式航空博物館、

国立アメリカ空軍博物館
National Museum of the United States Air Force


に一泊二日の見学旅行に行きました。

アメリカでもコロナ禍真っ最中の頃で、ホテルは安く取れましたが
肝心のわたし自身が体調を崩してしまい、見学出撃以外は
ホテルでほとんど寝て過ごし、朝早くから近隣のドラッグストアに
市販の薬を買いに行くなどして乗り切ったことは忘れられません。

といいながら、他に紹介したい物件を優先していたら、
ここの展示について紹介するのを忘れていたことに気がつきまして、
久しぶりにテーマを決めて取りあげることにしました。

あまりにも膨大な航空機の展示であるため、
写真を観ていても、いつも圧倒されてテーマが絞れないくらいでしたが、

今回のシリーズでご紹介するのは映画でも取り上げられたB-17爆撃機、
「メンフィス・ベル」と戦略爆撃機についてです。



第二次世界大戦中世界的に有名だった爆撃機は、B-24リベレーターと、
やはりボーイングのB-17フライングフォートレスが双璧でしょう。

もちろん爆撃機としてはB-25ミッチェル、我々日本人にとって
DNAレベルでその名前が真っ先に出てくるB-29もありますが。

そして、B-17が登場する戦争映画で有名なのが、当ブログで扱ったこともある
グレゴリー・ペックの「頭上の敵機(Twelve O'clock High)」
そしてこの度の「メンフィス・ベル(Memphis Belle)」です。

また、まだ観ていませんが、スティーブ・マックィーン主演の
「戦う翼(The War Over)」でもB-17が登場するそうです。

B-29は日本の本土攻撃でその名前を知られていましたが、
B-17は主にヨーロッパ上空でその活動を行いました。

B-24とともにアメリカの戦略爆撃の屋台骨を形成し、
主にドイツの軍需産業の機能を麻痺させることを目的にして
連合国側のその地域における勝利に大きく寄与した爆撃機です。

ここ国立博物館には、「メンフィス・ベル」のノーズアートを持つ
B-17爆撃機の本物が展示されていて、これを実際に見ることができます。

少し特殊というか他の展示機と違うのは、このコーナー全てが
この「メンフィス・ベル」とその搭乗員たちがアメリカに与えた
社会現象ともいうべき影響についての詳細な説明となっていることです。

■ 作られた「アメリカのアイコン」



「アメリカン・アイコン」というサブタイトルの通り、
爆撃機「メンフィス・ベル」は当時の爆撃機の象徴的存在でした。

1990年にイギリス映画が制作されましたが、実はこれは初めてではなく、
先日、ジョン・フォードの「海の底」という映画ログで言及した、
フォード=海軍、キャプラ=陸軍、でいうところの
陸軍航空隊のお抱え監督?ウィリアム・ワイラーをヨーロッパに派遣して
「メンフィス・ベル」のドキュメンタリーが撮影されています。

わたしにとって映画「メンフィス・ベル」は、戦争というジャンルを超えて
全く軍事に詳しくなかった当時でも好きだった作品の一つでした。


出演者の一人、ジャズピアニストで歌手、俳優の

ハリー・コニックJr.のファンだったという理由で観たらこれが良くて、
何度も観るくらいすっかりハマってしまいました。
(特に彼が劇中歌う「ダニーボーイ」のシーン)

Harry Connick Jr sings Danny Boy in "Memphis Belle"

しかし、「メンフィス・ベル」がアイコンとまで言われ、
国民に絶大な人気があったことは、随分後になるまで知りませんでした。



まず、なぜメンフィス・ベルとその搭乗員がそれほど有名になったかですが、

それはなんと言ってもワイラーのドキュメンタリーが宣伝となったからです。

そして、なぜアメリカ陸軍がワイラー(当時陸軍少佐)を派遣して、
一爆撃機のドキュメンタリーを制作させようとしたかですが、これには
当時のアメリカ陸軍航空隊第8空軍のローカルルール、

「25回爆撃任務を達成した爆撃機の搭乗員は帰国して良い」

の初めての達成にメンフィス・ベルがリーチをかけていたためでした。
陸軍は、これを大々的な広報に繋げる計画を立てたのです。

危険なミッションを無事に成功させ全員が生きて帰れば、
彼らとその爆撃機は、ナチス・ドイツの打倒への貢献をもって、
存在そのものが奉仕と犠牲の永遠のシンボルと讃えられ英雄となれる。


これを大きく宣伝すれば、国民の関心を引くと同時に、
何よりも陸軍航空隊への入隊希望者の増加が見込めるだろう、というわけです。


メンフィス・ベルは、アメリカ空軍の戦略爆撃作戦が開始されてすぐ、
イギリスの第91爆撃群第324爆撃飛行隊に配属されました。

1942年11月から1943年5月までの間(つまり6ヶ月ということになります)
メンフィス・ベルとその乗員はドイツ、フランス、
ベルギーの目標に対する攻撃を含む25の爆撃任務を行いました。

爆撃機を前にした搭乗員のパネルでは、当時の新聞記事が読めます。



ダグラス飛行場に帰ってきたメンフィスベルの機体に群がる民衆。
「メンフィスベルが沿岸にやってきた!」という見出しです。

「メンフィス・ベルの乗組員がブリッジポートで歓声を受ける

勇敢なチームと闘いの傷を残したフライングフォートレス、
明日ハートフォードに到着の予定

轟音を立てて降下した爆撃機B-17 フライング フォートレス
メンフィス ベルの 10 人の控えめな乗組員は、
そのすべてに少し圧倒されているかのように見えた」

「これまでの4回の出撃で、有名なフライングフォートレス、
メンフィス・ベルの隊員たちは、爆撃機がドイツのブレーメンにある
フォッケウルフ航空機工場の日中爆撃をどのように完了したかを語った」


で、機体に群がっているのが全員若い女の子であるのに注意。
彼女らは、憧れのメンバーに一目会うため、そして
爆撃機を実際に触って自分の痕跡を残そうとしているのです。

まるで彼らの娘がエルビス・プレスリーに、あるいは
ビートルズに熱狂するように、彼女らは10人の搭乗員に夢中になりました。


もうこういうのももはや報道写真ではなくプロマイド。
さぞ女の子は胸をときめかしたに違いありません。


この黒いスコッチテリアの名前は「シュトゥーカ」。
知ってる人は知ってるあのシュトゥーカです。

マスコットを抱いているのはコネチカット州ニューヘブン出身、
副操縦士ジェームズ・ヴェリニス大尉で、彼はこれからアメリカに
ウォーボンド(戦争債券)販促ツァーのために出発するのですが、
窓から顔を出して自分と愛犬に「イギリスの見納め」をしています。


 
「メンフィス・ベル」のマスコットは生後5か月のスコッチテリア。

スコッチテリアのことを「スコッティ」といいますが、
「シュトゥーカ」は語感が似ているってことでつけられたみたいですね。

副機長とスコッティの取り合わせは、カメラマンのお気に入りの構図となり、
いろんな写真が撮られて残されています。

背景のベルの機首には、撃墜したドイツ機数を表す8つのの鉤十字と、
乗組員が参加した空襲の数を表す25個の爆弾マークが刻まれています。

さらにいくつかの記事を後ろから拾い読みしてみます。


モーガン大尉(メンフィス・ベル機長)の言葉だ。

”爆撃任務に就いているときは、終わるまで怖がっている暇はない。
それが、乗組員たちに共通の感情だった。
しかし、一度帰投すると、いろんな気分が押し寄せてくる。

上空で待機しているときの緊張感、
天候がうまくいくかどうかについてもいつもピリピリしていた。”

別の搭乗員は語る: 


”最初の5回はかなりビクビクした。
そのうちに慣れてきて、次の15回は行けるかどうかが気になりだす。
20回目には、どうにか乗り切れるような気がしてくる。
そして25回を成功させる。
そして25回を無事に終えた時、何かを成し遂げたと感じた。

もう家に帰れるんだと。"



この写真には、彼らの爆撃機の名前の由来の意味が込められています。
新聞の見出しは、

「メンフィスベルとスキッパー」

右は爆撃機機長、ロバート・K・モーガン大尉、そして左は
彼の恋人、テネシー州メンフィス在住のマーガレット・ポーク嬢です。

お気づきのように、「メンフィス・ベル(メンフィス美人)」は、
彼女にちなんで命名されました。

当時、爆撃機の愛称は搭乗員が自分たちでつけており、
特に機長はその命名権を持っていたようですね。

というわけでモーガン大尉は当初、爆撃機の愛称を
マーガレットの愛称である「リトル・ワン」にするつもりでしたが、
副操縦士のジム・ヴェリニス大尉が待ったをかけ、
「メンフィス・ベル」っていうのはどうか、と提案したのでした。

ヴェリニス大尉は、ちょうどそのときジョン・ウェイン主演の
長編映画『 レディ・フォー・ア・ナイト』を鑑賞した後でした。



映画の主人公が所有するリバーボートの名前、「メンフィス・ベル」が
爆撃機の愛称としてぴったりくる、と思ったのかもしれません。

もっとも、この映画そのものは決してハッピーなものではなく、
「メンフィス・ベル」はカジノ蒸気船で、しかも劇中火事になっており、
験(げん)を担ぐ日本人なら絶対に選ばなさそうです。

モーガン大尉はこれを受け入れ、ノーズアートのために
『エスクァイア』誌専属画家だったジョージ・ペティに連絡を取り、
名前に合わせた「ペティ・ガール」の絵を依頼しました。


「ペティ・ガール」とは、エスクァイア誌の1933年の創刊号から
1956年までの間掲載された女性のピンナップ画シリーズのことです。

Crew of the Memphis Belle with the Petty Girl nose art

左から4人目の黄色いセーフティベスト着用の士官が、

「本当の名付け親」副機長ヴェリニス大尉、そしてその右が
「オリジナルの名付け親」機長モーガン大尉です。

後のメンバーについてものちのちくわしく語っていくことにします。


続く。

 

”ミステリーシップ” フランク・ホークスのテキサコ13〜シカゴ科学産業博物館

2023-07-17 | 航空機

TEXACO、という文字を見ると、わたしはどうしても
ガソリンスタンドを思い出してしまうのですが、
テキサコは2005年にシェブロンと統合して名前が消滅し、
いつの間にかテキサス州にしか存在しなくなっていました。

しかし、テキサコという名前は、少なくとも航空ファンの間では
この小型飛行機のことであるようです。



「ミステリー・シップ」

というのは、当博物館に展示されているテキサコ13のことです。

1930年代、大変有名だったホークスというパイロットが、
トラベルエアーモデルR「ミステリー・シップ」を操縦して、
これで世界を回り、航空記録を打ち立てました。

この時点で気が付いたのですが、テキサコ13が愛称で、
「ミステリーシップ」の方は正式な機体の名前です。

フランク・ホークス(1897-1938)は、
第一次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊のパイロットでした。

彼は1920年〜30年代にかけて、テキサコ社をスポンサーとして
アメリカやヨーロッパで214の地点間記録を打ち立てた、
記録破りの伝説の飛行家として知られています。


男前だったことから、映画にも何本か出演しています。

1937年に公開された連続映画『The Mysterious Pilot』では、
「世界最速の飛行士」と称賛されています。

 "Don't send it by mail ... send it by Hawks."
(郵便で送るな・・・・ホークスで送れ)

という言葉が当時の流行語になったくらいの「時の人」でした。

■ テキサコ13

1930年8月13日、フランク・モンロー・ホークスは、
カリフォルニア州グレンデールのグランドセントラルエアターミナルから
ニューヨーク州ロングアイランドのカーティス空港まで、
速度記録を更新するフライトに挑戦しています。



彼の飛行機は、正式にはTexaco No.13と名付けられた
トラベルエアーのタイプR「ミステリーシップ」。

このときの中継地と滞在時間は次の通り。

9時16分G.M.T ロスアンゼルス グレンデール

↓ 1,070km

12時43分G.M.T ニューメキシコ州アルバカーキ(17分滞在)

↓869km

15時28分G.M.T  カンザス州ウィチタ(7分滞在)

↓966km

18時23分G.M.T.  インディアナ州インディアナポリス
(13分滞在)

↓135km

21時41分G.M.T.ニューヨーク州ロングアイランド
カーティス・フィールドに着陸


そして、グレンデールからロングアイランドまで、
12時間25分3秒という記録的な経過時間で飛行することに成功。

彼は同じコースでチャールズ・リンドバーグが樹立したそれまでの記録を
2時間20分29秒更新し、新記録を打ち立てました。

各給油地での滞在時間を見る限り、彼はおそらく給油の間、
トイレに行って飲食物を受け取ることしかしていないと思われます。

しかし、わたしがそうだったようにほとんどの日本人は
リンドバーグは知っていてもこの名前を認識していないでしょう。

当時のアメリカ人にとって彼は超有名人で英雄でしたが、
それがつまり「最初と2番以降」の違いなのだと思います。

ことにリンドバーグは、この3年前に、既に
人類史上初の大西洋単独無着陸飛行を成し遂げていましたから、
いかにいまさら大陸横断時間を短縮したところで、
それは「ああ機体の性能が良くなったからね」
という注釈付きで語られる程度の「快挙」だったわけで。

加えて、ホークスはその一週間前、同じコースを東から西に飛んでいますが、
この時は14時間50分3秒とリンドバーグの記録に5分及びませんでした。

たまたまというか、西から東に飛ぶことで追い風を受けた機体は
2時間も短縮できたという事情もありました。

■テキサコ13号



ホークスのテキサコ13号は、カンザス州ウィチタの
トラベル・エアー・マニュファクチャリング社が製造した
5機の特別設計・製造のレース機のうちの4機目でした。

設立したのは、我々日本人ですら知るビッグネーム、

ウォルター・ビーチ(ビーチエアクラフト創立者)
クライド・セスナ
(セスナ創立者)
ロイド・ステアマン
(ステアマンエアクラフト創立者)


が名前を連ねていました。
(ステアマンが主任設計者)

ミステリーシップの「タイプ R」とは、
設計者の一人であるハーブ・ロードンのイニシャルから取りました。



1)カウル
エンジンを覆うことで冷却をよくし、空気抵抗を軽減した
NACA設計による

2)低翼設計
空気抵抗力を減らし速度向上
非常に薄くワイヤーで補強されていた

3)密閉式コクピット
低めに位置するため気流の流れが向上
パイロットの頭の後ろが高い「ホイールパンツ」採用

4)鋼管製胴体
機体の重量は軽くなり、強度も上がった

5)鋼鉄製ワイヤー
翼と着陸装置がより安定するようになった


タイプRは、溶接された鋼管で作られた
モノコックの胴体を持つ低翼単葉機でした。

胴体とリブにスプルース材が使用され、
胴体と主翼は、1/16インチのマホガニー合板で覆われていました。



(機体)
全長6.147m
翼幅9.144m
全高2.362m

(翼)
弦1.524m
総面積11.6平方m

空虚重量907kg
総重量1,497kg

(エンジン)
空冷、過給、排気量15.927l 9気筒ラジアルエンジン
300馬力/2,000r.m.
(ホークスのR-975は、2,400r.p.m.で450馬力)

巡航速度 1,950 r.p.m.で時速322km
海面走行時最高速度 時速402km

巡航速度での航続距離1,609km


■ 「ミステリーシップ」の由来

なぜタイプRが「ミステリーシップ=謎の船」だったのか。
わたしも真っ先にそれを疑問に感じましたが、この名前は
主に新聞などメディアが呼び出した「アオリ」的ネームだったようです。

それは創業者のビーチが極端な秘密主義だったからでした。

1929年にクリーブランドで開催されたナショナル・エア・レースに、
タイプRが2機が参加したことがありました。

パイロットは着陸するなり格納庫に直接タキシングしてエンジンを止め、
すぐに中に押し込まれて姿を消しました。
ご丁寧にも格納庫は施錠され、見張りをつけるという有様です。

これによって何が守られたのかは謎ですが、
少なくともこれでキャッチフレーズが決められることになりました。

■ フランク・ホークス



フランク・ホークスは、陸軍航空隊時代大尉まで昇進し、
記録的な大陸横断飛行の際には、陸軍航空隊の予備役でした。

記録を打ち立てたことで世間から人気を博し、
彼自身も"ミステリー・パイロット "を任じていました。

彼の肩書きは、
パイロット、デザイナー、作家、俳優、スポークスパーソン
となっています。

1897年アイオワ州に生まれ。
両親共に俳優だったそうです。

彼はロングビーチの高校高校生時代、飛行機に興味を持ち、
新聞記事を書いて飛行場の宣伝したことがありました。
この感想文で飛行への関心が高まり、飛行場のビジネスにつながると、
オーナーを説得して、体験と称し何度も無料でフライトしていたそうです。

カリフォルニア大学卒業後、1917年に第一次世界大戦が始まると、
宣戦布告されると、ホークスは陸軍に入隊しました。

【第一次世界大戦】

パイロットを目指して陸軍に入隊した彼は、
信号士官予備隊少尉の任に就いた後、飛行教官となり、少尉に昇進。

この頃彼は空中のデモ飛行で僚機と衝突する事故を起こして、
相手共々危険飛行の叱責を受け、
1週間の禁固刑という処分を受けています。

1919年に現役を退き、予備役大尉に昇進しましたが、終戦となったので、
しばらくバーンストーミングをしていました。

この頃、彼は、ロサンゼルスのフェアで
当時23歳のアメリア・イアハートを乗せて「初飛行」体験させています。
彼は10分間の体験飛行の賃金として、
イアハートの父親から10ドルを受け取りました。

【パイロットとしての成功】

ホークスはゲイツ・フライング・サーカスに参加し、
この頃珍しかった空中給油を行なって世間の注目を浴びるようになりました。

当時、アメリカはリンドバーグの「リンディーブーム」でしたが、
彼はそんな中自前の飛行機で賞金稼ぎで全米を回り、
「リンディが飛んだように」航空機に乗ることを売り込んでいました。

熱心に自己宣伝を続けた甲斐あって、彼はスポンサー
(マックスウェル・ハウス・コーヒー)を獲得し、その後ろ盾で
愛機「ミス・マックスウェルハウス」に乗ってレースの速度部門で優勝。

また、1927年テキサス社(Texaco)は、航空製品を販売するため、
ホークスを自社の航空部門の責任者に採用しました。

そこで彼は「テキサコ・ワン」と名付けた飛行機でテキサス代表団を
ヒューストンからメキシコシティまで往復させる仕事をしました。

彼は飛行機による全国親善ツアーで150以上の都市を訪れ、その間
「テキサコ・ワン」を見た人は50万人にのぼると言われています。

彼は自伝『スピード』の中でこう書いています。

「ツァーでは175の都市を訪れ、7,200人の乗客を乗せ、
56,000マイルのクロスカントリー飛行をした。
そして飛行機と乗客にその間一度の事故もなかった」


【テキサコ・イーグレット】

しかし彼も無事故のままいられたわけではありません。

1930年1月17日、フロリダ州ウェストパームビーチから離陸時、
滑走路が水溜りだったせいで「テキサコ・ファイブ」を破壊し、
駐車していた3機の列に激突するという壮絶な事故を起こしました。

しかし、ホークスは全く怪我もしませんでした。

1930年、ホークスはテキサコを説得し、
グライダーの有効性を実証するための試験飛行を支援することになりました。

当時、アメリカ陸軍航空隊の予備役だったホークスは、
グライダーの軍事的有用性を予見し、
政府の支援不足やベテランパイロットからの批判にもかかわらず、
大陸横断飛行を計画したといわれています。



テキサコ・イーグレット

1930年3月30日、サンディエゴを出発し、
ドイツのグライダーパイロットたちが飛行を危ぶんだロッキー山脈も、
予測されたすべての障害を乗り越え、時折乱気流に遭遇しただけで、
ホークスはニューヨークに到着し、
長距離グライダー曳航の実現可能性を事実上証明しました。

【テキサコ13の誕生】

1930年、ホークスはテキサコに、
失われた「テキサコ・ファイブ」の代わりに、革命的な新しいレース機
「トラベルエア タイプR ミステリーシップ」
を提案しました。

そして、完成後、一連の展示飛行やアメリカ横断の記録達成に乗り出します。

次々と記録を打ち立てながら、ホークスは、
記録的な飛行で集めたメディアの注目を利用して航空振興を図り、
特に高速の宅配便が実現可能であることを実証しました。

たとえば、フィラデルフィアでワールドシリーズ最終戦が終了したとき、
ホークスはクイーンズのノースビーチに飛び、
当時の電報サービスよりも速い20分後に試合の写真を届けたりして、
航空機のスピードと安全性と利便性をアピールしたのです。

1930年には、彼の人生と航空キャリアを記録した
自伝『スピード』も出版されましたが、これはなかなかの名著で、
今日でも普通に著作として読み継がれているほどです。


【事故からの回復】

マサチューセッツ州ウスターに訪れ、
現地のボーイスカウトに「安全な飛行機を開発する必要性」を説いた
その翌日、ホークスはぬかるんだ滑走路で飛行機を転倒させ、
鼻と顎を骨折し、歯が抜けるほどの重傷を負いました。

現在MSIに展示されている飛行機は、
この時の事故で損傷した機体を修復したものになります。

怪我の回復後もホークスは新型機で記録を更新し続け、1933年、
「テキサコスカイチーフ」で西から東への大陸横断飛行速度を記録し、
その後はノースロップ社でデモパイロットを務めました。

そして、映画やショーに出演、著作を通じて
常に航空について関わっていました。

【死去】

1937年、ホークスはエアレースからの引退を表明し、
グウィンエアカー社で営業担当副社長になっていました。

もはや彼はレーサー絵はなく、気楽なデモンストレーターとして
飛行機で全米を回る生活をしていました。

彼自身は、

「自分はおそらく飛行機で死ぬことになると思う」

と話していたということですが、その通りになりました。
1938年、自らの操縦する飛行機で墜落死したのです。

顧客に機体を宣伝するためニューヨーク州イーストオーロラに着いた彼は
ポロ競技場に着陸し、そこで顧客予定のキャンベル候補、
その他としばらく過ごした後、キャンベルを乗せて飛び立ちましたが、
直後に機体は墜落し、炎上しました。

残骸の中からホークスが、燃え盛る翼の下からキャンベルが
引き出されましたが、二人の怪我は致命的でした。

飛行機は着陸直後頭上の電話線に引っかかったとみられています。



MSIのテキサコ13は、博物館展示の炭鉱の上を、
イーストコーストに向かって素早く急激なバンクターンをしています。



その機上には、かつて時代の寵児であったパイロット、
フランク・モンロー・ホークスの姿が再現されています。


続く。


ユナイテッド航空 ボーイング727〜シカゴ産業科学博物館

2023-07-11 | 航空機

MSIのトラフィックコーナー展示から、最後に
ユナイテッド航空のボーイング727を紹介します。



スミソニアン航空宇宙博物館以外で、
このクラスの大きさの航空機を室内展示していたのは、
わたしの記憶の限りではここだけです。

さらに、このボーイング727は一種の動的展示として、
何分に一度か、引き込み脚を出したり入れたりを見せてくれます。

ブルーの髪のお姉さんや、指差しているグループなど、
普段見ることのない(飛んでいる時ですからね)ジェット機の脚収納シーンに
皆思わず立ち止まってその動きを眺めています。

■ ボーイング727

ボーイング727は、ボーイング社が開発・製造した旅客機です。
旅客機には、通路が二つのもの、(国際線のほとんどがこれ)
一つのものがありますが、二つのを「ワイドボディ機」と呼ぶのに対し、
こちらは「ナローボディ機」とされています。

1958年、より重い707クワッド(quad)ジェット
4発エンジンジェット機が登場した後、ボーイング社は、
大量輸送をこちらに任せて、ナロータイプを
小さな地方空港間を行き来させる需要に対応させました。


1960年、ユナイテッド航空とイースタン航空が、
それぞれ40機の727の注文を行い運用を始めます。

1962年11月27日に最初の727-100がロールアウトし、
1963年2月9日に初飛行、翌年イースタン航空が就航しました。

クヮッドの4発に対し、エンジン3発をトライジェットといいますが、
ボーイング社で生産された唯一のトライジェット機である727は、
T字尾翼下にプラット&ホイットニーのJT8Dローバイパスターボファンを、
後部胴体の左右に1基ずつ、中央に1基を搭載しています。


JT8D-9A


胴体上部とコックピットは輪切りにすると6角形をしていて、
全長40.5メートル、2クラスで106名、1クラスで129名が定員となります。
旅客機のほか、貨物機やコンバーチブルバージョンも製造されました。

727は主に国内線に使用されましたが、国際線も運航しました。
2022年2月現在で、国内に残って商業運航しているのは合計38機。

最後の機体は1989年9月に製造された1,832機で、
それ以来生産されていないので、後は消えていくだけとなります。

■開発

ボーイング727の設計は、ユナイテッド、アメリカン、イースタン航空の、

「滑走路が短く、乗客数の少ない小都市に就航するジェット旅客機」

という要求を反映して行われました。

当時、双発の民間航空機は空港までの最大飛行時間60分という規制があり、
各社ともにハブ空港の圏内に位置する小空港に乗り入れたかったからです。

そして結局、3社は新型機の設計にトライジェットで合意しました。

しかも、727は主翼に高揚装置を備えていたため、
初期のジェット機よりも短い滑走路での着発が可能でした。

たとえばフロリダのキーウエスト国際空港は、
滑走路が当時4800フィートでしたが、ここにも余裕でOKでした。

ちなみにキーウェストの滑走路は現在でも5,076ft(1,547m)しかなく、
そのため出発フライトの機体には重量制限があります。

後の727型は、より多くの乗客を運ぶために拡張され、
ボーイング707やダグラスDC-8などの初期のジェット旅客機や、
DC-4、DC-6、DC-7、ロッキードコンステレーションなど、
老朽化したプロペラ旅客機の短・中距離路線で置き換えられていきました。

1984年には1,832機、1,831機の納入で生産が終了し、
1990年代前半に737がこれを上回るまで、
ジェット旅客機の中で最も多い総数となっています。

■デザイン


赤で示した部分がエンジンからつながるS字ダクトですが、
初便の離陸時に、ダクト内の流れの歪みによって
エンジンにサージ(急激な増減)が発生するという問題を引き起こしています。

この問題は、ダクトの最初の曲がり角の内側に
大型の渦発生装置を数個追加することで解決しました。

727は汎用性の高い旅客機で信用性も高く、
多くの新興航空会社の機体の中核を成すようになりました。

727が世界中の航空会社で成功したのは、
中距離路線でありながら小さな滑走路を利用できた、つまり、
人口が多くても空港が小さい都市から、
世界中の観光地へ乗客を運ぶことができた
からです。

短い滑走路に着陸できるようになったのは、
そのすっきりとした翼のデザインにありました。

翼にエンジンを搭載しないため、前縁装置、
および後縁リフト増強装置を翼全体で使用でき、
最大翼揚力係数3.0を実現したことが最大の理由です。



後に控えたU-505の見学に体力を温存するため、
私たちは結局申し込むことはありませんでしたが、博物館では、
展示されているユナイテッド航空ボーイング727の機体に乗り込み、
その内部と外部を探検し、民間航空を形成する技術について学ぶ、
というツァーが常時開催されていて人気でした。



ツァーの案内をするのは贅沢なことに?
ボランティアである、ユナイテッド航空の本物のパイロットです。

飛行機、飛行、航空業界について聞けば、それこそ何でも答えてくれたとか。
コクピットの説明などもこのボランティアは操縦法まで教えてくれそうです。



時間がなかったので中に入って写真を撮ることもできませんでしたが、
この左側の『Thin Air』は高度に対する技術、
そして右側の『Rough Air』は、
気流に対する安定性の追求についての展示だと思います。



左側の席はフライトアテンダントが座るジャンプシートでしょう。
昔の東京大阪のシャトル便では、右側最前席に座ると、
FAの方達としばらく向かい合うことになる仕様でしたが、
(あれは男性の方々にとってはお得感を感じる瞬間だったらしい)
今ではあまりお目にかからないような気がします。


【ダン・クーパー事件とエア・ステアの廃止】

727は小規模な空港向けに設計されたため、地上設備からの独立性確保として
胴体後部の下腹部から開くエア ステアが設けられました。

信じられないことに、これ、当初飛行中に開くことができたのです。


開いているエア ステア

1971年11月24日。
その頃、世界的にハイジャック事件が頻発していましたが、
この日ダン・クーパーと名乗る男が、
ポートランド発ノースウェスト・オリエントのボーイング727
をハイジャックし、シアトルのタコマに緊急着陸させた上、
現金20万ドルとパラシュートを要求して再び離陸させ、
このハッチを使って降りていった、という衝撃の事件が起こりました。

D.B.クーパー事件

ちなみにダン・クーパーは搭乗券を買う際の偽名であり、
事件の名前として残っている「D.B.クーパー」は、
あわてんぼうのどこかの記者の間違いが流布されてしまったものです。

いずれににしても、この飛び降りた人物のその後がわからず、
生死すら判明していない(おそらく死亡したとされる)ため、
今日に至るまでことの真相は明らかにされていません。

何しろ、被疑者とされた名前の残っている人物だけで13人もいるのです。


それはともかく、この事件以降、ボーイング社はじめ全ての航空会社は、
飛行中にエア ステアを下げることができないようにする装置
その名も「クーパー ベーン」を取り付けて再発に備えました。

【727の運用】

21世紀に入っても、727は一部の大手航空会社で現役を続けていました。

しかし、燃料費の高騰、9.11以降の経済情勢による旅客数の減少、
空港騒音の規制強化、古い機体の維持やフライトエンジニアの人件費、
こういった理由から、ほとんどの大手航空会社は727を廃止し、
より静かで燃料効率の高い双発機で代替しました。
(3基エンジンの727は騒音問題でずいぶんもめた)

また、現代の旅客機はパイロット2人という少人数で運航しますが、
727型機はパイロット2人とフライトエンジニア1人を必要としました。

2003年にはデルタ航空もノースウェスト航空も
最後の727型機を定期便から退役させ、
多くの航空会社が727を737-800またはエアバスA320に置き換えました。


■ ボーイング727の墜落事故

ボーイング727が関与した死亡事故は118件に上ります。
死亡者多数の大事故をいくつかリストアップします。

特に1960年〜80年代は大事故が多すぎて、130人で「脚切り」しましたが、
事故原因のほとんどはヒューマンエラーによるもの、
パイロットのミス、ハイジャック、軍機との衝突、攻撃などです。

事故の数だけ見ると、飛行機に乗るのが怖くなりますが、
この原因を見る限り、機体そのものは、適正に扱っていれば
絶対と言っていいほど事故にはならないのでは、とさえ思います。

まあただ、これはボーイング727という機体だけのデータと考えれば、
単純にやっぱり飛行機って落ちるんだなあということになるんですけどね。

それではどうぞ。


1966年2月4日: 全日空60便(727-100型)
夜間に東京の羽田空港にアプローチ海上に原因不明で墜落
搭乗133人全員死亡

1971年7月30日:全日空58便
航空自衛隊のF-86F戦闘機と衝突し乗客・乗員162名全員が死亡

1976年9月19日:トルコ航空452便
空港を間違えて着陸しようとして山地に衝突
乗員8名と乗客146名全員が死亡

1977年11月19日:TAPポルトガル航空425便
空港の滑走路をオーバーラン、急な土手を越えて突っ込み炎上
乗客164人のうち131人が死亡

1978年9月25日 パシフィック・サウスウエスト航空182便
サンディエゴでセスナ機と衝突して墜落
727便の乗客137人全員とセスナ機の2人、地上にいた7人の計144人が死亡

1980年4月25日: ダン・エア1008便
旋回中に地形に衝突し、乗客・乗員146名全員が死亡

1982年6月8日: VASP168便
最低降下高度を下回って山に衝突
乗客・乗員137名全員が死亡した

1982年7月9日: パンナム759便
ニューオーリンズ国際空港を離陸した直後マイクロバーストにより墜落
搭乗していた145人全員と地上にいた8人が死亡

1985年2月19日:イベリア航空610便
着陸中にテレビアンテナに衝突して墜落
乗員148名全員が死亡

1986年3月31日: メキシカーナ940便
離陸後、上空で過熱したタイヤが爆発し火災が発生、機体は制御不能に
乗員167名全員が死亡

1988年3月17日:アビアンカ航空410便
離陸後、コロンビアの低山に墜落
搭乗していた143名全員が死亡

1989年10月21日:タンササ414便
アプローチに失敗し山中に墜落
乗客・乗員138人のうち131人が死亡

1992年12月22日: リビア・アラブ航空1103便
リビア上空でリビア空軍のMiG-23と空中衝突を起こし墜落
乗客147名と乗員10名が死亡、MiGパイロット二人は生存

1993年5月19日:SAMコロンビア航空501便
空港(SKRG)へのアプローチ中に山に衝突
乗客・乗員132名全員が死亡

1996年11月7日: ADC航空86便(727-200型機)
空中衝突を避け回避行動をとった後コントロールを失い墜落
144人が死亡

2003年12月25日: ユニオンデトランスポーツ

アフリカンデギネ141便
滑走路をオーバーランして海へ
乗客名簿に記載された163人のうち151人が死亡
墜落の原因は乗客と貨物の過積載





続く。


シュトゥーカvsスピットファイア〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-29 | 航空機

さて、前回同博物館展示のスピットファイアについて紹介しましたが、
本文中触れたスピットファイアの設計者、R.J.ミッチェルの伝記でもある、
映画「スピットファイア」のDVDを取り寄せましたので、
いよいよ当ブログ映画部でご紹介しようと思っています。



相変わらずものすごい角度で展示されていることに感心しますが、
スピットファイアと空戦真っ最中のシュトゥーカ、
後で見たらこちらの写真は何枚も撮っていたのに、
スピットファイアの単体の写真が一枚もないのに気づきました。

こういうところでドイツ軍機を見ると、必要以上にテンションが上がり、
色めきたって、夢中で何枚も写真を撮ってしまうわたしって一体・・・。

■ シュトゥーカ Junkers Ju 87 Stuka



右上の筆記体は、当時イギリス王立陸軍の医療隊にいて、
ドイツ侵攻中のクレタ島で連合軍と行動を共にしていた
ギリシア系軍医のセオドア・ステファニデス(Theodore Stephanides)
医師・博識家・自然主義者・生物/天文学者・詩人・作家・翻訳者の言葉です。

「私たちはシュトゥーカを恐れました。
それは叫び声を上げながら降下してきて、
恐るべき正確さで爆弾を放っていきました」


シュトゥーカは、各翼の下に 100 ポンドの爆弾を、
胴体の下に 1,100 ポンドの爆弾を運ぶことができた




第二次世界大戦中、非常に正確なドイツのストゥーカ急降下爆撃機は、
他のどの航空機よりも連合軍の地上部隊に多くの破壊をもたらしました。


テンション上がったわりに、この一文を読むまで、シュトゥーカが
戦闘機なのか爆撃機なのかも知らなかったというわたしである。

シュトゥーカ、という響きは個人的にロシア語っぽく聞こえるのですが、
急降下爆撃機を意味するドイツ語の

Sturzkampfflugzeug
シュトルツカンプフルクツァイク


の最初部分を取って愛称にした感じでしょうか。
つまり、急降下爆撃機をキューバクと呼ぶみたいな。

同攻撃法の専門機みたいな位置付けで開発されたのかと思いますが、
対地攻撃の任務も請け負っていました。

1936年から始まったスペイン内戦で、あのコンドル軍団と共にデビューし、
第二次世界大戦終わりまで現役でした。

冒頭の写真を見ていただくと、逆ガル翼、そして
次の写真で空戦中なのに出しっぱなしの脚(固定スパット式)が
シュトゥーカを特徴づけていることがお分かりでしょう。


1)ダイブブレーキ

(赤いに囲まれた部分がブレーキ)

スツーカの設計にはいくつかの革新的な技術が含まれていました。

両翼の下にある自動引き上げ式急降下ブレーキは、
降下のスピードを遅らせ、爆弾を正確に投下し、
衝突する前に引き上げる時間を確保する役目を持ちました。

これは、たとえパイロットが高いGフォースで失神しても、
航空機が攻撃急降下から回復することを保証するものでした。

急降下攻撃における性能は、これによって向上し、
一定の速度を維持しながら、狙いを定めることができるようになりました。



2)後部機銃



後方からの敵機用。
後方砲手の射界を確保するため、二重垂直安定板が導入されていました。

3)逆ガル翼



急降下のスピードを上げ、同時に空力に耐えるためのデザインです。

3)ダイブ アングル サイト(降下角度指示器)


右舷のフロントガラスに赤く塗られたダイブアングルサイトにより、
パイロットは飛行機をターゲットに直接向けることができます。

しかし、その角度はどうやって決定したんでしょうか。
おそらく、赤い線は地平線と合わせて降下角度を知ったのだと思いますが、
角度は30°から90°までありますね。

90°急降下することが「理論的に」可能だったってことか?
と思って調べてみたところ、

Junkers Ju 87 - Stuka in Action | German Dive Siren (Real Footage in Color - WW2)
↑ 本当にやってました

5)自動操縦

こんな無茶な急降下をして大丈夫なのか、と思ったら、
案の定、シュトゥーカのパイロットは時々重力のため
気を失っていた
ので、急降下から飛行機を引き上げる仕組みの
自動操縦システムが装備されていました。

急降下の際にかかる乗組員への身体的ストレスは深刻で、
座った状態で5G以上の負荷がかかると、パイロットには
「シーイングスター」⭐と呼ばれる灰色のベールのような視力障害が発生します。

こうなると意識を保ったまま視界を失い、5秒後にはブラックアウト。
Ju87のパイロットは、急降下からの「引き上げ」時に
最も視覚障害を経験していました。

自動操縦がなければ、ほとんどがそのまま墜落コースです。


開発中、Ju 87 V1が墜落し、ユンカースのチーフテストパイロット、
ウィリー・ノイエンホーフェンとハインリッヒ・クレフトが死亡しました。

急降下による週末動圧試験中に逆スピンになったせいでしたが、
この事故により垂直安定尾翼デザインの変更とともに、
急降下時の風圧に耐えるため、フレームとロンジョンにブラケットをつけ、
胴体と前縁の下に重いメッキが取り付けられ、
油圧式ダイブブレーキが設置されることになりました。

この結果、Ju 87は急降下爆撃機として構造強度要件に達し、
降下速度600km/h、地上付近の最大水平速度340km/h、
飛行重量4,300kgに耐えることができたのです。

■ ”ジェリコのラッパ”の真実

Ju 87の主席設計者、ヘルマン・ポールマンは、
急降下爆撃機の設計はシンプルで堅牢でなければならないと考え、
格納式ではなく、「スパット」と呼ばれる固定式の脚周りを採用しました。

また、冒頭の軍医、ステファニデス少佐の書いたところの「叫び声」とは、
「ジェリコのラッパ」と呼ばれ、まるでシュトゥーカが
サイレンを付けていたかのように喧伝されましたが、
急降下の際に発生した風を切る音に過ぎませんでした。

この威嚇音はドイツのブリッツ(電撃戦)の際、
プロパガンダとして喧伝されましたが、実際のところは
隠密性の点からそれが威嚇として効果があったのは
スペイン内戦のころだけだったという話です。

■ 欠点

シュトゥーカは、第二次世界大戦の勃発時に、
近接航空支援と対船舶の役割で大きな成功を収めました。

1939年9月のポーランド侵攻では、航空攻撃の中心となり、
1940年のノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスへの侵攻においても
不可欠な存在であることを証明しました。

確かに頑丈で精度が高く、地上目標に対して非常に有効ではありましたが、
当時の他の多くの急降下爆撃機と同様に、戦闘機に対して脆弱でした。



ここMSIの機体展示、後方から追い詰めてくるスピットファイア、
その攻撃から得意のダイブで逃げようとする瞬間のシュトゥーカは
どうみても前者有利の雰囲気を醸し出しています。

スピットファイアのコクピットには、マークから察するに
すでにドイツ機を5機撃墜した「エース」が乗っていて、
6個目のハーケンクロイツを仕留めるチャンスを虎視眈々と狙います。

急降下爆撃機は、爆撃のための急降下は得意でも、
戦闘機のような駆動性は持ちませんから、それこそ狙われたら
ここのシュトゥーカのように、ダイブして逃げるしかなかったでしょう。

事実、1940年から1941年にかけてのバトル・オブ・ブリテンでは、
操縦性、速度、防御力に欠けるシュトゥーカを運用するために、
重戦闘機の護衛を付けていたという話があります。

しかし、それはシュトゥーカに限ったことではなく、
急降下爆撃機としての性能と信頼度はずば抜けていました。



王立海軍のテストパイロットで、敵機鹵獲飛行隊の指揮をとった
エリック『ウィンクル』ブラウン大尉は、

「私は多くの急降下爆撃機を操縦してきたが、
本当に垂直にダイブできるのはシュトゥーカだけでした。

急降下爆撃機では、最大潜航角が60度程度になることもありますが、
シュトゥーカを飛ばすときは、すべて自動で本当に垂直に落ちていくのです。

シュトゥーカは他にはない独自の飛行機でした」


とその性能を絶賛しています。

■ シュトゥーカとヴォルフラム・フォン・リヒトホーヘン



撃墜王として有名だったマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの弟、
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、自身もパイロットとして
有名でしたが、彼は自身の経験を惜しみなく発揮して
この時期、陸軍支援航空の主要な推進者でした。

彼は自身の空戦体験から、近代空軍が克服するべき
いくつもの問題を提起し、戦術と作戦レベルを引き上げようとしました。

彼の一つの戦術的な提案は、作戦を革新させました。
それがシャトルエア戦術(前線に近い位置から航空機を往復させる)であり、
兵站にモータリゼーションを活用する作戦でした。

ドイツ空軍は彼の意見を全面的に取り入れてきましたが、
(彼がゲーリンクに絶大な信頼を置かれていたためかと)
ことシュトゥーカの開発に関しては、
当時技術局で新型機の開発・試験を担当していた彼は、
ユンカースの主任技師に、

「パワー不足でドイツ空軍の主力急降下爆撃機になる見込みはほとんどない」

とにべもなく切り捨てています。

そのため、一度は、ライバル機であるハインケルHe118が優先されて
シュトゥーカは開発中止を言い渡されましたが、



プレイボーイで有名だったリヒトホーフェンと同じくらい女出入りが多く、
(いらん情報)有名な戦闘機パイロットで設計技師の
エルンスト・ユーデットが競合のハインケルの試作機を墜落させたため、
消去法でシュトゥーカの開発が継続されることになりました。

選ばれたとはいえ、シュトゥーカの設計はまだ不十分で、
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは首を縦に振りませんでした。

彼はより強力なエンジン、最高速度が350km/hを下回らないもの、
という高い要求を突きつけ、これを解消するために
ユモ210 D倒立V型12気筒エンジンを搭載することになりましたが、
この試験飛行の結果にもリヒトホーフェンは満足しなかったようです。

地上では280km/h、1,250m(4,100フィート)では290km/hと
数字では全く要求に達しませんでしたが、
良好な操縦性を維持していたため、そのまま採用となりました。

■シュトゥーカの戦術


バトル・オブ・ブリテンの後、ドイツ空軍はバルカン半島、
アフリカ、地中海、東部戦線の初期にシュトゥーカを配備しました。

ほぼ垂直に飛び込み、ピンポイントの精度で爆弾を投下することができたので
地上支援、対戦車、対船舶に使用されました。

シュトゥーカは、50 機以上の編隊が
Vまたは「フィンガー」フォーメーションで飛行する戦法を取りました。
この技術は、最終的に世界中の空軍によってコピーされることになります。

急降下の方法とは次の通り。
自動的に行われる動きは赤字、パイロットの操作は青字。



高度4,600mで飛行

コックピットフロアにある爆撃窓から目標を確認
ダイブレバーを後方に動かし、操縦桿の「スロー」を制限


[ダイブブレーキが自動的に作動]

トリムタブをセット、スロットルを下げ、冷却フラップを閉める

[機体は180°ロールし、自動的に急降下する]

[Gフォースによるブラックアウトが発生した場合、
自動潜行回復システムが作動]

[60~90°の角度でダイブすると、ダイブブレーキの展開により
500~600km/hの一定速度を保つ]

航空機が目標にある程度近づくと、接触式高度計
(あらかじめ設定された高度で作動する電気接点を備えた高度計)
のランプが点灯して爆弾の放出地点を示す(最低高度 450 m )


爆弾を発射
操縦桿のノブを押して自動引き抜きを開始

[引き上げが始まる]

[機首が地平線の上に出ると、急降下ブレーキは後退、
スロットルが開き、プロペラは上昇モードに設定される]


パイロットはコントロールを取り戻し、通常の飛行を再開する


■ その後のシュトゥーカ

ドイツ空軍が制空権を失うと、シュトゥーカは敵戦闘機から
格好の標的となりました(この博物館の展示のように)。

しかし、より良い代替機がなかったため、1944年まで生産されていました。
1945年までに、地上攻撃型のフォッケウルフFw190が登場しましたが、
物不足の折、Ju87は1945年の終戦まで現役で活躍していました。



シュトゥーカのパイロットとして最も成功したことで
「シュトゥーカ大佐」という異名すら持っていた

ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐
Hans-Ulrich Rudel 1916– 1982

は、終戦までずっと、
東部線線でシュトゥーカに乗って戦い続けました。

戦車 519輌、装甲車・トラック 800台以上、
火砲(100 mm口径以上) 150門以上、装甲列車 4両、戦艦 1隻(マラート)
嚮導駆逐艦 1隻、駆逐艦 1隻、上陸用舟艇 70隻以上、
航空機 9機(戦闘機 2、爆撃機 5、その他 2)

というとんでもない戦績を上げたルーデル曹長(活躍時)ですが、戦後に

「何故あのような遅い機体(Ju87)で、あれだけ出撃(2500回)し、
かつ生き残ることが出来たと思いますか?」

と尋問をする英米軍将校に対して、こう答えたそうです。

「わたしには、これという秘訣はなかったのですが・・」
(大真面目)

ルーデル大佐が凄過ぎ、というか、
それだけ遅い機体の代名詞だったのねシュトゥーカって・・。

■ 科学産業博物館所蔵のシュトゥーカ



連合国は 1941 年に北アフリカの飛行場でこの飛行機を鹵獲しました。

鹵獲当時は特別なカモフラージュがされていて、
サンド フィルター、砂漠のサバイバル用品、その他の改造により、
熱帯での戦闘に備えることができました。

世界に現存する2機の同型シュトゥーカのうちの1機となります。


続く。




スピットファイア〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-27 | 航空機

MSIの「小さな飛行機展示」のなかで、最もわたしの目を惹いたのは、
あたかも空戦真っ最中のスピットファイアとシュトゥーカでした。

いろんな航空博物館で戦闘機の展示を観ましたが、
外で野晒しにされるままの残念な展示がほとんどに対し、
ここMSIとオハイオの国立航空博物館、そして
まだ紹介していませんが、サンディエゴの航空博物館、
この三つは屋内展示されているという点でまず格違いです。

そして、国立であるオハイオの博物館以外では、
専門の航空博物館でもないここが、もっともいろんな意味で
優れた航空展示をしていると感じました。

さすが、「北半球一の科学産業博物館」を自称するだけのことはあります。



かつて実際にこのような体勢で行われたに違いない空戦を、
ワイヤの吊り方で生き生きと再現する手法。

2階の同じ高さからこのかつてのライバル機を目にするだけで、
想像力の豊かな人なら、想念を過去へと容易く運んで
一時のタイプトリップを楽しむことができるに違いありません。

さて、そのスピットファイアです。

速度と機動性は戦闘において特に際立っており、
その高度な空気力学により、これまでに製造された
最も重要な軍用機の 1 つになりました。

スピットファイアは、4 か月にわたるバトル オブ ブリテンで、
シュトゥーカを含む数百のドイツ戦闘機を撃墜しました。

スピットファイアは、戦前、戦中、戦後を通じて継続的に改良され、
生産された唯一のイギリスの航空機でした。

■スピットファイア

ます、わたしが愛してやまない、サー・ウィリアム・ウォルトンの
「スピットファイア」組曲から「プレリュードとフーガ」、
これを貼っておきますので、是非聴きながらご覧ください。

William Walton : Spitfire Prelude and Fugue. Video clips.

不詳わたくし、この曲があまりに好きすぎて、
かつて乗馬をやっていたとき、部内試合本番のBGMに使ったくらいでした。

このYouTubeも、数ある同曲バージョンの中で、
エンジン始動音から始まり、工場での組み立てシーン、
待機中のパイロットにスクランブルがかかり、座っていた椅子を倒して
走っていくシーンなどが観られるおすすめです。

前半プレリュード部分は第二次世界大戦時のモノクロフィルム、
後半フーガからは現存するスピットファイアでの飛翔と、
なかなかこの映像構成も気が効いていると思います。



第2次世界大戦中、

Supermarine Spitfire Mark 1-A
スーパーマリン スピットファイア マーク 1-A 


は、ドイツの侵略に対するイングランド本土防衛の最大の要でした。


 
"The spitfire had style and was obviously a killer."
「スピットファイアにはスタイルがあり、際立った”キラー”だった」

MSIのスピットファイア紹介パネルに書かれたこの言葉は、
RAF(ロイヤル・エアフォース)のエースパイロット、



アドルフ”セイラー”・マラン 1910-1963
Adolph’ Sailor' Gysbert Malan

のスピットファイアへの賛辞です。

海軍士官候補生から海軍予備役少尉になったのち、
RAFのパイロットになった経歴から、同僚に
「セイラー」と呼ばれていたというマランは、
第二次世界大戦中にRAF戦闘機部隊に所属し、
最も高い撃墜スコアを記録したエースとして大変有名です。

以前スミソニアンの展示を元に世界のエースシリーズをした時には
その名前は出てきませんでしたが、

27機破壊、7機共有破壊と未確認機2、確実3、16機損傷

という記録はRAFのトップに位置します。

そのシリーズでも書きましたが、戦闘パイロットの撃墜数というのは、
時と場所、機体の性能と相手の状況によって一括りに語れないものなので、
「数重視」では、どうしてもRAFのパイロットは浮かんできません。

なぜなら、1941年当時、ルフトバッフェは技術的にも技量的にも
そして戦術的にも洗練され、大変レベルが高かったからです。

ドイツのエースが、いずれもソ連空軍相手に、とんでもない数の
撃墜数を上げていたことを思い出していただければと思います。

たとえば、バトル・オブ・ブリテンで彼と対戦して被弾負傷した
ルフトバッフェのエース、ヴェルナー・メルダース大佐は、
死亡時(乗客として乗っていた飛行機が墜落)28歳で
すでに115機の撃墜記録を持っていました。


Werner Mölders 1913-1941

余談ですが、前述のセイラー・マランは、戦闘機パイロットのために
「空中戦のための10箇条」(Ten Rules)というものを提唱しています。

それは以下の通り。

1、相手の「白目」が見えるまで待て

2、照準が確実に「ON」になってから、1~2秒の短い連射をせよ

3、射撃中は他のことは考えず、全身を緊張させ、
両手をスティックに添えて、リングサイト(照準)に集中せよ

4、常に鋭い視線を保て ”指は出したまま”

5、高さはイニシアチブを与える 常に振り返って攻撃開始せよ

6、決断は迅速に行う 戦術が最善でなくても迅速に行動する方が良い

7、戦闘空域では、30秒以上まっすぐ水平飛行をするな

8、急降下で攻撃するときは、常に編隊の何割かを上空に残し、
トップガードとして機能させよ

9、イニシャティブ、アグレッション、空中での規律、
チームワーク、これらは空中戦で重大な「意味」を持つ言葉である

10、素早くもぐりこめ 強く攻撃を加えたら すぐに退避せよ!

これらは日本の戦記物でも見覚えがあるような内容ですが、
当時から世界規範で共有されていた認識ではないでしょうか。

まあそういう「エース・オブ・エーセス」のセイラーが
スピットファイアのことをこのように高く評価していたということです。


■ スピットファイア テクニカルデータ


1)独特な薄い楕円形の金属翼により、
スピットファイアは他の戦闘機よりも空気力学的に優れていました。

2)リトラクタブル(引き込み式) ランディング ギア
空気抵抗力を減らし、高速飛行を可能にしました

3)翼の本体に組み込まれた 8 基の機関銃

4)マーリン・エンジン (ロールス・ロイス社が設計)
優れたパワーとスピードを提供しました

コクピット
密閉されたラップアラウンド コックピットにより、
あらゆる方向の敵戦闘機を発見するための視認性が向上しました



空戦に向かうスピットファイアの飛行編隊

■ スピットファイアの戦闘戦略

スーパーマリン・スピットファイアは、爆撃機攻撃から本土を守る
短距離戦闘機として設計され、ブリテンの戦いでこの役割を果たし、
伝説的地位と、戦争中最高の通常防御戦闘機の称号を得ました。

マルチロール機へと進化したスピットファイアは、
非武装の写真偵察(P.R.)機の役割の先駆けとなりましたし、
初めての夜間戦闘機の役割も果たしました。

この夜間迎撃で最も成功したといわれる例は、
1940年6月18日/19日の夜、74飛行隊の”セイラー”マラン中尉
2機のHeハインケル 111を撃墜した時と言われます。

具体的な戦闘戦術としては、スピットファイアのパイロットは
太陽を背にして攻撃し、敵の目をくらませた、とあります。

がしかし、これも普通に世界中の空戦パイロットが言っている気がします。

あと、スピットファイア中隊は一列に並んで飛行し、
ドッグファイト中に3機の
「VICヴィック・フォーメーション」
に分かれた、という記述もあります。

VICフォーメーションとはRAFが発明したもので、
最初に登場したのは第一次世界大戦の時です。

つまり、最低3機で作る「逆さV」=エシュロン型ですね。



VICとはRAFにおけるVのフォネティックアルファベットで、
それがそのままフォーメーション名になりました。

この発明以前、軍用機は船団のように、
列をなして飛んでいたそうですが、これだと
リーダーや他の飛行機と連絡を取ることはできず、さらに
地上方対空砲火を受けた際、飛行隊は一斉に旋回することで
編隊をばらばらにしてしまうか、リーダーに付いて一列になることで
定点での放火にさらされることになります。

その点、V字編隊で飛行すると、銃撃を受けたら180度旋回することで
編隊はそのままで裏返る形で移動することができました。

また、編隊を組むことで飛行士がお互いを確認し、
手信号でコミュニケーションをとることができ、
視界不良や雲の中でも一緒に行動することができます。

その後、爆撃機や偵察機が戦闘機から攻撃を受けたとき、
VICは優れた防御特性を持つことが証明されました。

パイロットが内側に目を向けて編隊を維持することで、
互いに攻撃機を見落とすことができ、
オブザーバーや後方砲手が連動して射撃することで
互いを守ることができたのです。

VIC以前、RAFのパイロットが採用していた
ライン・アスターン隊形(単縦陣)
(4機が互いに後方を飛行する)
を、

Idiotenreihennイディオッテン ライヘン
=「バカの列」

と呼んでいたルフトバッフェのパイロットたちは、
バトル・オブ・ブリテンで、RAFのVIC隊形に対しなすすべなく、
自分達もそれを「ケッテ」Kette(鎖)と名付けて
いつの間にかちゃっかり取り入れることにしたのはここだけの話。

今現在も、VICフォーメーションは軍用機隊列の基準です。
っていうか、これって渡り鳥のフォーメーションそのものだよね。


■ スピットファイアvs零式艦上戦闘機

戦争が太平洋に舞台を移したとき、そこに投入された
オーストラリアやイギリスの飛行士は、P-40やスピットファイアに搭乗した
戦闘経験のあるベテランがほとんどでした。

しかし、これまで相手戦闘機を圧倒することに慣れていた彼らも、
そこで対戦する零戦がスピットファイアを圧倒することを発見し、
大変な衝撃を受けたといわれています。

「機敏な日本の戦闘機相手に旋回ドッグファイトをしないこと」

この先人の教えを学ばなかったスピットファイアは失われました。

ただ、これらの問題にもかかわらず、スピットファイアはそれなりに成功し、
三菱キ46偵察機を捕らえることもできたようです。

1943年10月から410機のスピットファイアMk VIIが
Mk Vcsに代わって対日本機戦に投入されましたが、
実際に行われた空対空戦闘はごくわずかでした。

1943年半ばには、ソロモン諸島作戦とニューギニアで
日本海軍が大きな損害を受けて、それ以降は
オーストラリア北部への攻撃を継続することができなくなったからです。

南西太平洋戦線の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、
フィリピンへ凱旋をオーストラリア軍など外国勢と共有することを望まず、
このため、RAAFスピットファイアは、ニューギニアに残る日本軍に
戦闘爆撃に投入されて空戦には出番がありませんでした。

オーストラリア空軍のパイロットたちは、この状況を、
耐え難い(多分プライド的に)労力と命の浪費
と見なしました。



【インド・ビルマでのスピットファイア対日本機】

東南アジア地域では、1943年11月、インド・ビルマ戦線の3つの飛行隊に
最初のスピットファイアVcsが配備されました。

スピットファイアのパイロット2機が、1943年初めて日本軍に遭遇し、
チッタゴン上空で日本機の編隊を攻撃し、このとき
一人は戦闘機と爆撃機2機を損傷させ、もう一人は2機を撃墜しました。

1943年、オーストラリア空軍のスピットファイアが
日本軍の爆撃機11機と戦闘機3機を撃墜したという記録があります。

その後もビルマで日本陸軍航空隊(IJAAF)と空戦が行われ、
スピットファイア3個飛行隊が、キ43「オスカー」キ44「トージョー」
との数日間の戦闘の末、戦場での制空権を獲得しました。

1944 年初期から中期にかけてのコヒマとインパールの戦いにおいて、
スピットファイアは連合国軍の制空権を確保し、
西側同盟国が関与した戦争最後の大規模な戦闘に寄与しました。



■ 映画「スピットファイア」と「フュー」


「The First of the Few」
「Spitfire」1942年

この 1942 年の映画は、スーパーマリン スピットファイアのデザイナー、
R.J.ミッチェルの人生をベースにしたストーリーです。

「スピットファイア」のタイトルは、アメリカ上映用に付けられました。

戦争中に制作された多くの英国のプロパガンダ映画の 1 つで、
イギリスのプロパガンダ映画にはお馴染みの
レスリー・ハワードがミッチェルを演じています。

元々のタイトルは、バトル・オブ・ブリテンに参加した搭乗員たちを
ウィンストン・チャーチルが称えた、

"Never was so much owed by so many to so few".
(これほど多くの人がこれほど少数の人に多くの借りを作ったことはない)

という言葉の”few"からとられていますが、
このタイトルが、「スピットファイア」に変わる
ほんの数日前、レスリー・ハワードはリスボンからロンドンに向かう
民間旅客機をドイツ空軍に撃墜されて死亡しました。

そして、何を隠そう冒頭にアップしたサー・ウォルトンの
「スピットファイア」はこの映画のテーマソングです。

The First of the Few (1942) - Trailer

The First of the Few Ending Clip

2番目のトレーラーの最後には、
チャーチルのセリフを進化?させたと思われる、

Never in the field of human conflict was so much owed
by s many to so few.
(人間同士の争いの分野で、これほど多くの人が
これほど少数の人に借りを作ったことはない)


という文字が現れます。

当ブログ映画部では、次回映画ログで本作を取り上げます。
どうぞお楽しみに。


■ MSIのスピットファイア


博物館のマーク 1-A は、バトル オブ ブリテンで飛行した、
数少ない現存するスピットファイアの 1 つです。

コックピット右舷側のスワスティカ=Swastika(逆卍)は、
この飛行機がドイツで 5 機の「撃墜」を達成したことを示しています。


続く。



バッファローの青いハーケンクロイツ〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-13 | 航空機

マスキーゴンのシルバーサイズ潜水艦博物館は、
もちろん潜水艦についての展示がメインですが、
地元のベテランの遺品などを後世に遺すという役割も担っています。

今日は、何人かのベテランたちの制服と、
また展示に寄せられた模型などをご紹介していこうと思います。

■ある海兵隊パイロットの記念品



まずは海兵隊パイロットの保護ベストです。
ライフジャケットですが、パイロットの場合、
搭乗時に着用するものだと思われます。

船と違って、何かあってから着込む時間の余裕はないですから。

ベストの右胸に見えるのは「サメよけ」。
ベストを膨らますのに息を吹き込むためのホースとか、ダイマーカーとか、
会場に落ちた時に広げる簡易筏とか、
とにかく全てが誰にでも瞬時にわかるように、
(海上で説明書広げるわけにいきませんから)
実物に大きく用途と使い方が書いてあるのが特徴です。


同じ海兵隊パイロット、ウォルト・スプロール中佐の軍服一式。



スプロール中佐、大尉時代のメダルその他。
この一角、この人が寄贈したグッズで作る思い出コーナーみたいですね。

彼は愛称「デス・ラトラーズ」(死のガラガラヘビ)、
VMF 323航空隊でF4U-4コルセアにのっていたパイロットだったようです。

軍籍にあったのが1944年から56年とあるので、
朝鮮戦争にも出撃して、中佐で退役したと思われます。



ちょうどライトで見えませんが、
結婚式で海兵隊の制服を着たスプロール氏と花嫁の写真もあり。

下の航空母艦における発着シーンの写真ですが、艦番号から
この人がエセックス級「レイテ」の艦載部隊にいたことがわかります。

「レイテ」は就役46年、退役したのは1959年なので、
ほぼスプロール中佐と「同期現役」の艦と言っていいでしょう。

■ ジークとコルセア


零戦とコルセアがまるで空戦をしているかのような模型展示。
この展示は、マスキーゴン出身で最も成績をあげた、
コルセアパイロットの「アイク」ケプフォード大尉に因んだものです。



マスキーゴン出身のアイク・ケプフォード大尉は、
第二次世界大戦でアメリカ海軍のトップ6位のエースでした。

彼の撃墜記録は対日戦において16機とされており、
その成績は1943年から4年までの間、南太平洋の
ブーゲンビルとラバウルで、F4Uコルセアで立てたものです。

彼は、ラバウルの日本軍基地への攻撃を行った
あの有名な「スカルアンドクロスボーンズ」(骸骨と交差した骨)
というニックネームの飛行隊所属で、
1944年3月に日本がラバウルでの作戦を事実上放棄するまで、
79日間の空戦で154機の日本機を撃墜したとされます。

この時代の撃墜記録なのでおそらく正確ではなく、
多い方に修正されているとは思いますが、だとしても凄い数です。


1944年2月19日、ケプフォード大尉は多数の敵機から集中砲火を受け、
燃料をほとんど使い果たしながらも、緊急注水ブースターの助けを借り、
低高度であまつさえ追跡機を撃ち落とし、ギリギリの生還を果たしました。

終戦までに彼は3つの主君飛行十字章、2つの海軍十字章、
シルバースター、航空勲章を獲得していましたが、
まわりはこれでも勲章もらい足りないと思うほど、
彼の活躍は目覚ましかったようです。

戦後の彼は、有名なドラッグチェーンのCEOとして活躍しました。

模型のコルセアはケプフォード大尉機を再現しています。
これには、コルセアという機体は特に技術のあるパイロットにしか
乗りこなすことができない特別な操作性を持っており、
さらに駆動製に優れた零式艦上戦闘機に対抗しうる機体だった、
と書かれています。

■ USS「マイアミ」



ジョン・ロバート・ヴェーニエというベテランが製作した模型で、
博物館に寄付したのはこの人の家族だそうです。

ご本人は亡くなったので、その遺品として、ということでしょうか。
解説がありますので、翻訳します。



USS「マイアミ」(CL-89)
「クリーブランド」級軽巡洋艦

USS「マイアミ」は1万トンの「クリーブランド」級軽巡洋艦で、
ペンシルバニア州フィラデルフィアで建造されました。

1944年4月、「マイアミ」は対日本戦を開始するため太平洋に向かいます。

サイパン進行と6月のフィリピン海海戦で、
空母の護衛として初めて戦闘に参加し、
テニアン島、グアム島、パラオ島、その他敵が占有する島々に上陸し、
その役割を継続しました。

1944年10月、「マイアミ」は高速空母機動部隊の一員として
沖縄、台湾、フィリピンにある日本軍基地を攻撃し、
レイテ沖海戦に参加しました。

10月26日には6インチ甲板砲によって駆逐艦「野分」を撃沈した、
とここには書いてあります。


陽炎型駆逐艦「野分」

ちなみに、「野分」を撃沈したのは「マイアミ」単独ではなく、
ハルゼーの高速戦艦部隊にいた軽巡「ヴィンセンス」
「ビロクシー」駆逐艦「オーエン」「ミラー」
との共同です。


「野分」はサンベルナルジノ海峡手前で高速戦艦部隊に捕捉されましたが、
アメリカ軍は野分を巡洋艦もしくは大型駆逐艦と判断したためか、
よってたかって砲撃され、大破。

最後駆逐艦の魚雷を受けて沈没し、艦長以下272名全員が戦死しました。
「野分」には救出された「筑摩」の乗員120〜30名が乗っていましたが、
やはり「野分」と同じ運命をたどりました。

このとき、アメリカ軍に救助され、生き残った人が一人だけいたそうですが、
その人のその後の人生はどんなものだったのでしょうか。


1944年から1945年の終戦までの間、
「マイアミ」は空母機動隊に同行し、フィリピン、アジア、台湾、
そして日本の本土に攻撃を行いました。

1945年3月から1945年4月まで、敵の特攻機による絶え間ない攻撃に耐え、
沖縄を占領するキャンペーンに参加しました。

戦後は西海岸に戻り、海軍予備役の訓練に参加して1947年退役。
その後は太平洋予備役艦隊に配属され、
そこで14年間「モスボール」されて過ごしました。

最終的に1961年9月に海軍名簿から除籍され、
翌年スクラップとして売却されて生涯を終えました。

■ 航空機模型展

アメリカの戦争博物館には、必ず有志の寄贈した模型がありますが、
潜水艦博物館にも関わらず、航空機模型を寄付した人がいたらしく、
説明を添えて展示してありました。

せっかくですので、ちゃんと翻訳しておきます。



🇯🇵 中島飛行機 一式戦闘機 隼 Ki-43🇹🇭

日本軍のKi-43は翼荷重が軽く、空中回転半径が小さい戦闘機で、
1941年10月に導入されました。

残念ながら、火力が小さくて速度が遅かったため、
日米両国が12月に開戦を迎えたとき、
P-38、P-40、P-47による上空からの攻撃に対しては脆弱でした。

そしてアメリカ軍にP-51マスタングが導入されると、
Ki-43は低速飛行時、低空旋回飛行時をのぞく、
あらゆるシナリオで劣勢に立たされることになります。

つまり勝てなくなってしまったのです。



この模型の尾翼には白い象の徽章があしらわれていますが、
これはタイの軍隊によって運用された同機を再現しています。

1940年のフランス領インドシナのように、日本による併合のあと、
タイ王国は占領に直面することがありませんでした。

このKi-43はそんな関係下日本からタイ軍に支給されていたことを表します。



🇯🇵 三菱 零式水上観測機 F1M

1941年にデビューしたF1Mは、当初戦艦や重巡洋艦で運用するための
カタパルト発射式観測機として設計されました。

ただし、ポイント迎撃、船団護衛、沿岸哨戒、対潜哨戒、軽輸送など
さまざまな役割で使用されていました。

F1Mは11,000フィートで230mphの最高速度と
460マイルの航続距離を持っていました。
日本は第二次世界大戦中1,118機を生産しましたが、
これはこの時代の服用機としては異常に多い数でした。

🇯🇵 中島 Ki-44 二式単座戦闘機 鍾馗 Shoki

ki44は旧式のキ43の後継として1942年1月導入されました。
機体には12.7ミリ機関銃が4門装備されており、
最高速度は時速360マイルでした。

その、より強力なエンジンはki-43を凌駕していましたが、
Ki-44は航続距離の不足により、P-51マスタングのような
アメリカの航空機に対しては依然としてわずかに不利でした。

それにもかかわらず、機体は終戦まで使用されていました。

このモデルは、第二次世界大戦中に
大日本陸軍航空隊が使用したマークを再現しています。


🇮🇹 マッキ C-202 フォルゴーレFolgore



C.202は1941年イタリア空軍で配備され、1944年まで生産されました。
最高速度は時速375マイル、航続距離は475マイルに制限されていました。

これは、アメリカのP-40やイギリスのホーカー・ハリケーンと比較して
ハンドリングと攻撃能力がわずかに優れているだけの、
短距離のポイント防御機としてのみ有用でした。

Macchi C.202 Folgore footage - Regia Aeronautica in ww2 [AI, 60fps, Colourized]

とはいえ、北アフリカではメッサーシュミットBf109
ほぼ互角の性能を発揮したと言われます。


🇺🇸 ブリュースター バッファローF2A-2🇫🇮

アメリカのレンドリース政策とその他の戦時兵器協定の一環として、
アメリカ製のブリュースター「バッファロー」のうち44機は
フィンランドに売却されたことがあります。

そののち、機体は装甲を外され、翼から機銃が外されて軽量化され、
機動性が向上することになりました。

フィンランド空軍は、1939年と1940年のロシアに対する
冬戦争で証明されたように、他の国よりも
このバッファローをうまく運用したことで有名です。

ここにあるモデルは、第二次世界大戦中に
フィンランド空軍が使用したいくつかの塗装のうちひとつを再現しています。



白い背景にFAFの青いハーケンクロイツは、
このシンボルがナチスのイデオロギーに教化される前のものです。

🇳🇱フォッカーD.XXI 🇫🇮🇩🇰



オランダで設計製造されたD.XXI のプロトタイプは、
1936年3月に初飛行、1938年に現場に投入されました。

最高時速は時速286マイル、航続距離は578マイルで、
また、7.9ミリ機感銃を4門搭載していました。

戦前に生産されたフォッカーは146機あり、
オランダ、デンマーク、フィンランドで運用され、
最も効果的に使用されたといわれています。

フィンランド空軍の最後のフォッカー航空機は、
1951年まで運用されていました。

ここにあるモデルも、ナチスがシンボルを制定する数年前に導入された、
FAFの誇り高い鉤十字の徽章をつけています。



 メッサーシュミット Bf-109G



BF-109GはメッサーシュミットBf-109の後継モデルで、
1942年2月以降に生産されたバージョンです。

機体の翼の下には特にアメリカの銃爆撃機、
B-17を撃墜するためのロケットを装備していました。

Bf-109Gは爆撃機の搭載している.50口径マシンガンの範囲を超えて
攻撃を加えることができました。
ロケット弾が命中すれば空中で大型の爆撃機を爆破することもできたのです。

Bf-109はすぐさまドイツルフトバッフェ武器のバックボーンになりました。

この武器を形作る部品の一部は、あの悪名高い強制収容所で
強制労働によって作り出されていました。

フォッケウルフ FW-190D-9



1941年に就役したFW-190は、Bf-109とともに
ドイツ空軍の装備の不可欠な存在であり続けました。

フォッケウルフの2,240hpエンジンによって、航空機は
21,000フィートで426mphまで加速が可能です。

また、機種に13ミリ機銃2門、翼に20ミリ機関砲2門を装備していました。


ここにあるモデルのマーキングは、

Luftwaffe Jagdverband 44(JV-44)
第44戦闘団

を再現しています。

これらの航空機は、メッサーシュミットのMe262戦闘機を収容している
ドイツ空軍基地を防衛する任務を担っていました。



Me262ジェット戦闘機「シュヴァルベ」は、
空中での最高速度は速いにもかかわらず、
プロペラ機のような加速力を欠いていたため、
フォッケウルフの迅速な応答能力が不可欠だったのです。



続く。



ユンカース・ユモ004BとホイットルW.1X〜スミソニアン航空博物館

2022-04-27 | 航空機

スミソニアン博物館の「マイルストーン」機体シリーズには
この二つのエンジンも歴史的な意味から展示されています。

Junkers Jumo(ユンカース・ユモ)004B
Whittle(ホイットル)W.1X

ジェットエンジンの開発の歴史について、当ブログでは
同じスミソニアンのジェット推進シリーズをご紹介してきたのですが、
そのときこの展示を覚えていれば取り上げたものを、
今になって気づいたので、また改めて焦点を当てることにしました。

ピストンエンジンからジェットエンジンへの転換は、
航空史におけるまごうかたなきマイルストーンでした。

この発明以降、従来より遠くへ、速く、
かつ低コストでの移動が可能となったのです。

ユンカース・ユモはドイツ、ホイットルはイギリスのエンジンです。
この頃アメリカは技術的に後進国で、ジェットエンジンについては
蚊帳の外技術だったのですが、なぜか21世紀の今日では、
そのどちらもがアメリカの国立博物館に展示されているのが歴史の妙ですね。



この二つのエンジンを開発した二人の技術者は
ドクトル・フォン・オハインとサー・フランク・ホイットル
この二人は全く別々の場所にありながら、それぞれが独自に
ジェットエンジンという発明を通して新しい時代を切り拓きました。

■ ホイットル W.1Xエンジン

Whittle W.1Engine

世界最初の遠心流たーボジェットエンジンの一つです。
イギリスの軍人でありエンジニアであったフランク・ホイットル卿は、
1932年にこの設計の特許を取得し、
1936年にはPower Jets Ltd.を設立しました。

当ブログでは以前、フォン・オハインとサー・ホイットルについて、
(そのときはWhittleをウィットルと表記していますが、今回はこちらで)
特にホイットルの不遇ぶりと晩年の二人の出会に至るまでを
”フォン・オハインとウィットル 二人のジェット機開発者”という項で
これでもかと書き連ねたことがあるので、今日はその時に書かなかったことを
何とか探し出して書いてみたいと思います。

【パワージェッツWUの”将来性”】

ホィットルが最初に開発したのは、1930年代の終わる頃でした。
パワージェッツWU(WUはホイットル・ユニットの意味)と名付けられた
この実験用ジェットエンジンについてはイギリス政府は無関心でした。


ホイットル中尉(当時)

これは、前段でも書いた、遠心式ターボジェットについての
ウィットル論文に対する軍需省の評価が低く、
ほぼほぼ無視されていたということが祟ったと思われます。

しかし、ウィットルが画期的なアイデアであるところの
ジェットエンジンに関する論文をどういうわけか気前良く公開していたため、
各国の目端の効く技術者たちが、このアイデアを後追いし始めていることに、
お役所はようやく気づいたというところかもしれません。
(全く想像で言っているだけですので悪しからず)

ともあれ、突如興味を示した航空省が、科学研究部長のパイ博士(Pye)ら
視察団を送り、パワージェッツWUのデモンストレーションが行われました。

この実験結果については、ある資料は失敗だったといい、
ある資料は非常に成功したとされていて、実際どうだっかは不明なのですが、
WUは飛行に用いるには非力で重かったというのは事実でしょう。

開発中に圧縮機の弱さや燃焼の不安定などのアクシデントもあって、
ホイットルらは苦労したというのも事実だと思いますが、
航空省はこのターボジェットに可能性を感じたのだと思います。

これまでにイギリスが装備してきたレシプロエンジンと併用して
軍備においてそれどころか競合する存在になることを見抜いた研究部は、
実験そのものではなく将来性を買い、エンジンを購入すること、
そしてホイットルのパワージェッツ社の運転資金として
そのエンジンを貸し出す、という形で資金提供をすることを申し出ました。


そして、英国航空省は、1939年にこのエンジンを発展させたものを
グロスターE.28/39テスト機で評価することを決めたのです。

W.1の開発が進むと同時に、グロスターは地上試験用に
プロトタイプのW.1Xを搭載しました。
このときエンジンは開発者の名前をとって
「ホイットルスーパーチャージャー式W1」
と命名されていたそうです。



【W.1ジェットエンジン空を飛ぶ】

1937年にベンチテストされたホイットルWUとは異なり、
W.1は航空機への搭載を容易にするために左右対称に設計されました。

W.1の新基軸的なところは、

ヒドゥミニウムRR.59合金製(高強度、高耐食性、高耐熱性)の両面遠心圧縮機
逆流式ラボック(Lubbock)社製燃焼室(燃料が燃焼する空間)
「もみの木の根」形状で固定された72枚のブレードによる

水冷式軸流タービン部
ファース・ビッカース・レックス78(ステンレス)を使ったタービンブレード

などが採用されていたことです。
水冷式は後に空冷式に変更されています。

W.1型では、その後コンプレッサーの関係で2Gに制限されることになります。
ジェットパイプの最高温度は597℃になりました。


あら飛んじゃった

しかし、新しい設計の開発が超長引いてしまったため、
この際飛行不能と判断された部品と試験品などを使って、
テストユニット「アーリー(初期)エンジン」を作ることになりました。

これを組み立てたのが、ワンオフ(一回しか使わないつもり)の「W.1X」

1941年4月に行われたタキシング試験で、公式には飛行不可能なエンジンが
グロスターE.28/39の動力源として短い「ホップ」を行い、
1ヵ月後に正式なW.1エンジンとなって飛行試験にこぎつけたのです。

誰かは知りませんが、飛行機の前で写真を撮っている人たち
(多分メガネの人がサー・ウィットル)はさぞ嬉しかったことでしょう。

この後、飛行可能なエンジンを取り付けられたE.28/39が
史上最初の公式飛行を行ったのは1ヶ月後でした。

1942年2月、E.28はW.1Aエンジンで飛行試験を行い、
このとき高度4,600mで時速430マイル(690km)にまで到達しています。



さて、ここで登場するのが、あわよくばこの新技術を
ノーリスクで手に入れたい、と虎視眈々と狙っていたアメリカ
でした。

1941年に英国を訪問したヘンリー・ハップ・アーノルド将軍(でたー)は、
アメリカで飛行させるためにW.1Xの機体現物と、
より強力なW.2B量産型エンジンの図面、ついでに
パワージェッツ社の技術チーム一抱えを、
アメリカにまるっと空輸するよう手配しました。

さすがは技術はないが、やる気と金だけはたんまりあるアメリカ。(当時)
スケールが違う。

そうやって空輸されたW.1は、まずゼネラル・エレクトリックI-A、
次いでゼネラル・エレクトリックI-16の原型となり、
W. 2Bはというと、1943年には推力750kgfを発生するまで開発されました。

(イギリスから連れてこられた技術陣がその後どうなったかは不明)

GE社の改良型であるIA型は、1942年10月2日に、ここでも紹介した
米国初のジェット機であるベルXP-59Aエアラコメットに搭載されています。


その後W.1Xは耐用年数を終えると英国に返還されましたが、
1949年11月8日、パワージェット社からスミソニアン博物館に寄贈され、
再び大西洋を渡ってアメリカにやってきてここにあるというわけです。


タイプ ターボジェット 
推力:5,516 N(1,240 lb)/17,750 rpm、
3,781 N(850 lb)/16,500 rpm(初飛行のため減衰) 圧縮機。
圧縮機:単段、ダブルエントリー、遠心式 燃焼器:10個の逆流室 
タービン:単段、ダブルエントリー、遠心式 単段軸流式 
重量:254kg(560ポンド)


■ ユンカース・ユモ004Bエンジン

Junkers Jumo 004B Engine

スミソニアンの説明はいきなりこんな言葉から始まります。

「フォン・オハインのエンジンの最初の成功にもかかわらず、ドイツ当局は
ユンカースから、より有望なターボジェットを開発することを支持しました」


ハンス・ヨアヒム・パブスト・フォン・オハインが発明した
ジェット推進システムに最初に興味を示したのは、
これも前述の通り、ハインケル社でした。


エルンスト・ハインケル(左)とオハイン(当時23歳にしては老けてない?)

オハインはハインケルでターボジェットを搭載した初の航空機、
He 178V1を開発したのですが、残念なことに(ラッキーだったという説も)
ハインケル社がナチスとドイツ空軍に冷遇されており、
初のジェットエンジン搭載についても全く日の目を見ませんでした。

ハインケルHe178 V1

冷遇されていたハインケルとオハインでしたが、英国科学省のように、
やはりこの技術の可能性を見出した人物が現れたのです。


左から:シュエルプ、ホイットル、オハイン、
1978年オハイオ・デイトンの国立空軍博物館にて

この一番左の人物、
ドイツの技術者ヘルムート・シェルプ(Helmut Schelp)、
そして、

ハンス・マウヒ(Hans Mauch)
の二人は、ドイツの航空エンジンメーカー各社に声をかけて
独自の開発プログラムを開始するように促しましたが、
どの会社も新技術に懐疑的だったため、なかなか軌道に乗りませんでした。

1939年、シェルプとマウヒが各社を訪れ、進捗状況を確認したところ、
ユンカース・モトーレン・ヴェルケ(Jumo)部門の責任者が言うには、

「コンセプトが有用であっても、それを手がける者がいない」

そこでシェルプは、ユンカース社のターボ/スーパーチャージャーの
開発担当、アンセルム・フランツ博士に白羽の矢をたて、
開発チームを立ち上げさせました。


アンセルム・フランツ博士(Dr. Anselm Franz)

プロジェクト名はRLMの109-004

この109-は、第二次世界大戦中のドイツのエンジンプロジェクトに共通で、
有人飛行機用ロケットエンジン設計の識別にも使われています。

フランツは、保守的でありながら革新的な設計を選択しました。

「軸流」と言って、エンジン内に連続的でまっすぐを空気の流すという
新しいタイプのコンプレッサー(軸流コンプレッサー)を利用する点で、
フォン・オハインと異なるアプローチを採用したのです。

この軸流圧縮機は、効率にして約78%という優れた性能を持つだけでなく、
高速の航空機にとって重要な、より小さな断面でできていました。

開発においては、実に戦略的というのか実質的というのか保守的というのか、
生産の迅速化と簡素化のために、理論上のポテンシャルを追求せず、
それどころか大きく下回るエンジンの生産を目指しています。

そのため、より効率的な1個の環状燃焼器ではなく、
6個の「フレーム缶」を使ったシンプルな燃焼エリアを選択しました。

タービンの開発においても、開発用エンジンではなく、
すぐに生産に移れるエンジンの試作に取り掛かったのも同じ理由からです。

フランツの堅実すぎるアプローチはRLMから疑問視されていたそうですが、
004は生産と使用を開始する運びとなりました。

【テスト飛行】


Me262戦闘機のナセルに搭載されたJumo 004エンジンの正面図


1940年10月、ディーゼル燃料式004A試作1号機の初試験が行われました。
RLMとの契約では最低推力が600kgfに設定されていたのですが、
最高推力は430kgfに留まりました。

その後航空省のコンサルタントの協力を仰ぎ、問題解決して
8月には5.9 kN、12月には9.8 kNで10時間耐久飛行に成功しました。


1942年7月18日、試作機のメッサーシュミットMe262
004エンジンを搭載して初飛行し、
その後RLMは80基の生産を請け負う運びになります。

Me262試作機の動力源として最初に作られた004A型エンジンは、
材料の制約がなかったので、ニッケル、コバルト、モリブデンなど、
希少な原材料を使っていたのですが、よく考えたらこれでは
大量生産することができません。

そこでフランツは、燃焼室を含むすべての高温金属部品を、
アルミニウムのコーティング軟鋼に変更。
タービンブレードはクロマジュール合金(クロム、マンガン、鉄70%)、
という風に仕様を変えて構造を簡略化しました。

こだわりすぎると良くないってことですね。

【欠陥調査と本格的な生産】

その後、1943年に004B型はタービンブレードの故障を起こしますが、
ユンカースチームはこの原因を特定することができませんでした。

材料の欠陥、粒径、表面の粗さといった点もチェックしまくった結果、
ブレードの固有振動数が故障の原因であることを突き止めたのです。
ブレードの周波数を上げることによって、
エンジンの運転回転数を下げて解決しました。

なんだかんだで大変だったため、
ようやく本格的な生産が開始できたのは、1944年初頭のことです。

そしてこのジェットエンジン設計における工学的な細部の課題は、
結論としてMe262の戦線への投入を遅らせる原因になりました。

それではMe 262が早く投入できていたら戦況は変わったのか?

と言われると歴史にイフはないとはいえ、
これくらいでは勝敗が覆ることは決してなかっただろうとしか言えませんが。


アンセルム・フランツ博士は、多くのドイツ技術者の例に漏れず、
戦後アメリカに渡ってアメリカ空軍のために研究を行い、
その結果ライカミングT53ターボシャフトエンジン
ハネウェルAGT-1500タービンを開発しています。

T-53はベル社のUH-1ヘリコプターに、
AGT-1500はM1エイブラムス戦車に搭載されました。


ちなみに、1932年の段階で、ハンス・フォン・オハインはこう言っています。

”The airplane rattled because it had piston engines...
It was not as romantic as I thought it would be...
I thought flying should be elegant.”

ピストンエンジンのせいで飛行機はガラガラとウザい・・
これって僕基準ではロマンチックじゃないんだ・・
飛行ってのはエレガントじゃなくちゃ)

日本のあの飛行機設計者もそうだったようですが、
技術者というのは時としてスタイリストでロマンティストですね。

しかしこれが彼がジェットエンジンを作るモチベーションとなりました。
そして奇しくも同じ時期に、ジェットエンジンの着想を得ていた
サー・フランク・ホイットルは1929年、こう言っているそうです。

”Why not increase the compressor compression ratio
and substitute a turbine for the piston engine?”

(コンプレッサーの圧縮比を上げて、ピストンエンジンの代わりに
タービンを使ってはどうかな?)

二人が戦後アメリカで出会ってソウルメイトになったという話は
以前ここでもしていますが、同時期の技術者として
二人には元々前世からの因縁めいたものがあったのかと思わされます。



最後に、スミソニアン博物館におけるものすごい写真を。

左から

「ボーイング727の父」ジョン・スタイナー、
ハンス・フォン・オハイン、
アンセルム・フランツ、
チャールズ’チャック’イェーガー准将、
サー・フランク・ホイットル


わかる人にしかわからない、絢爛豪華なメンバーです。



続く。



リフティングボディM 2-F3〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-19 | 航空機

スミソニアン博物館の宇宙開発コーナーの隅には、
全く目立っていないのですがこんな奇妙な形の航空機があります。

これはちゃんと飛行機としての機能を持つのだろうか?
などと考えずにはいられないスリム感のないシェイプですが、
別の角度から見てみると、


予想とは(どんな予想だ)全く違う上部の佇まい。
これはあれかな、特殊な用途のための実験機かしら。

現地に説明のパネルもなかったので(あったのかもしれませんが見つからず)
NASA 803  FLIGHT RESEARCH CENTER
という機体に書かれた文字だけを頼りに調べてみたところ、
これは、「リフティングボディ ノースロップM2-F3」
という機体であることがわかりました。

リフティングボディ?バーベル持ち上げるアレかな。
それウェイトリフティングや。


■リフティングボディとは

バーベルならずとも、何かのボディを持ち上げるもの。
この名前からはそういう雰囲気が漂ってくるわけですが、
何なのか、リフティングボディ。

wikiによると、

「極超音速での巡航を前提とした航空機、ないしはスペースプレーン等のような
大気中を飛行することがある一部の宇宙機に使われる、
機体を支える揚力を生み出すように空気力学的に工夫された形状を有する胴体」

んん?それって普通の宇宙船やロケットと何が違うの?
正直ちょっとこの日本語は分かりにくいですね(分かりますが)。
この英語の方が説明としては分かりやすいかと思います。

「リフティングボディとは、固定翼機や宇宙船において、
本体そのものが揚力を発生する構造のことである」

分かりやすくて短く収まっています。英語の人有能。
本体そのものが揚力を持つように空気力学的に工夫するのは当たり前ですから、
リフティングボディが何かの説明にこの部分はいらんってことですわ。

それにしても、この機体の形状を特に下から見て、
皆様何か思うことはありませんか?

そう、翼らしい翼がないのです。

人が鳥のように空を飛ぼうと思った時、その機械には鳥のような翼をつけましたが、
こちらは全く鳥の翼的なものはなく、厚みのある紙飛行機、という感じです。

リフティングボディは従来の翼を持たない胴体であり、
胴体そのものが揚力を発生する固定翼機や宇宙船の形状をしています。

翼がない、というのはイコール「揚力面をなくす」ことであり、
これは亜音速での巡航効率を最大にするということを期待してのことです。

皆様は、音速を超えることを目的にしたX−1、そして
スカイロケットなどがどうやって発進したか覚えておられますよね。
大型爆撃機のペイロードとして離陸し、空中からドロップされたその形状は、
やはりほとんどミサイルのような、翼の小さなものでした。

これは、亜音速、超音速、極超音速飛行、あるいは宇宙船の再突入のためには、
翼の抵抗と構造を最小にする必要があるからです。

そうして翼の抵抗と構造をミニマムにした結果、リフティングボディは、
機体全体で揚力を得ることができるような構造となっています。

(という説明を読めば読むほど、紙飛行機のことだよね、と思ってしまったわたし)


■リフティングボディ前史と開発史

最古のリフティングボディは、アメリカのロイ・スクロッグス(Roy Scroggs)
という仕立て屋さんが考案した「The Last Laugh」かもしれません。


スクロッグスと「最後に笑う者」

無尾翼のダート型をしたリフティングボディ。
スクロッグスは1917年にデルタ翼の特許を取っています。

安全性、経済性、STOL性能をもたらす飛行機を作りたいという彼の執念は、
多くの人から嘲笑され、奇抜なアイデアは航空専門家に否定されました。

スクロッグスがこの実験機に付けた名前「最後に笑う者」は、
そんな世間に対する挑戦的な意味で付けられました。

機体は90馬力のカーチスOX-5エンジンが2枚羽根のプロペラを駆動するもので、
テストでは3mの高さまで上昇しましたが、特許出願後、
空港で飛行試験を試みたところ、誘導路に乗り上げて転倒し、破損。

失意のうちに彼は開発を諦めたわけですが、後年、
コンコルドの翼型実験で低速を試すために設計されたハンドリーページHP.115は、
「The Last Laugh」と非常に似たデルタ前縁角のスイープを持っていました。

そして、スペースシャトルは最終的にデルタ翼が採用されました。

つまり、スクロッグスが最後に笑うためには、リフティングボディは
低速では効率が悪く、その研究が盛んになるのは、
あと50年、エンジンの進化を待たねばなりませんでした。


リフティングボディの研究最盛期は1960年代から70年代にかけてです。

ソ連との宇宙開発競争真っ最中の時期から、アポロ11号によって
勝ちを手にし、ノリに乗っていた頃にかけてということになります。

アメリカは小型・軽量の有人宇宙船を作るための研究として、
リフティングボディのロケット飛行機を何機も製造し、
ロケットで打ち上げられた再突入機は何機か太平洋上でテストされました。


左から;X-24A,、M2-F3 、HL-10リフティングボディ
冒頭写真の機体は真ん中のM2-F3 どれもいわゆる「翼」がない

航空宇宙関連のリフティングボディの研究は、宇宙船が地球の大気圏に再突入し、
通常の航空機と同じように着陸するというアイデアから生まれたものでした。

大気圏再突入後、マーキュリー、ジェミニ、アポロなど、
従来のカプセル型宇宙船は、着陸する場所をほとんど制御できませんでした。

中には、地球の自転と移動の関係を勘違いしてコンピュータに打ち込み、
ただでさえピンポイントで場所を選べないのに、
えらく離れたところにカプセルが落下して苦労した回もあったくらいです。

その点、翼を持つ操縦可能な宇宙船は、着陸範囲を広げることができます。

しかしそのためには、宇宙船の翼が再突入と極超音速飛行という
動的および熱的ストレスに耐えられるような翼が必要となってきます。

そんな翼、作れるのでしょうか。

そこで、ストレスに耐えられないなら翼をなくせばいいじゃない、となって、
翼がなければ胴体そのものに揚力を持たせればいいじゃない、となり、
翼をなくすという案に辿り着いたというわけです。


NASAによるリフティングボディのコンセプトの改良は、
1962年にNASAアームストロング飛行研究所から始まりました。

最初のフルサイズモデルが、木製の無動力機であるNASA M2-F1でした。

カリフォルニア州エドワーズ空軍基地で行われた最初の実験では、
まず、ポンティアックが機体を運ぶところが見ものです。


なんか楽しそう

そしてC-47の後ろに牽引されたM2-F1が放出されました。
M2-F1はグライダーなので、着陸範囲を広げるために
小型のロケットモーターを搭載していました。


ふざけてんのか

M2-F1はすぐに「空飛ぶバスタブ」と呼ばれるようになったそうです。


■「600万ドルの男」オープニングタイトル


スミソニアン博物館に展示されているノースロップM2-F3は、
1967年ドライデン飛行研究センターで墜落したノースロップM2-F2をもとに
再建された重量物運搬用機体とされています。

墜落した機体を元に、って何なんでしょうか。


 1967年5月10日、NASAの研究用航空機である無翼機、
M2-F2リフティングボディがカリフォルニアの砂漠に墜落しました。

この映像がそのまま使われたテレビ番組のオープニングがあります。

The Six Million Dollar Man Opening and Closing Theme (With Intro)

まさかと思いますが、どなたかこのテレビ番組をご覧になったでしょうか。
主人公のスティーブ・オースティンなる人物は、この事故で重傷を負い、
バイオニックインプラントのおかげで、超人的な強さ、スピード、
視力を持つサイボーグとなって、悪と戦うというヒーローものです。

映像を見ていただくと分かりますが、 M2-F2は、
飛行機というよりボートのような外見をしています。

前述のように、NASAは、宇宙からの再突入をより制御し、耐熱性を持たせる
リフティングボディ、無翼飛行の実験を行っていました。

わたしが撮影した下からの写真を見ていただくと、リフティングボディは、
機体の下部がとにかくぽってりと丸く、上部を見ると驚くほど平らです。
これは、揚力を得るために設計された形状で、
翼の代わりに機体の姿勢を制御するための垂直尾翼を持っています。

ボディはアルミ製、エンジンはXLR-11ロケットが搭載されていました。

オープニング映像でもわかるように、B-52爆撃機の翼の下に搭載され、
高度13,716mまで上昇後、エンジンを点火、その後滑空降下し着陸します。

これらの飛行により、パイロットが無翼機を宇宙から飛ばし、
飛行機のように着陸させることができることが実証されたのでした。



12年間のリフティングボディ飛行のうち、重大な事故が1回だけ起きました。
それが「600万ドルの男」のタイトルになった映像のときです。

16回目のテスト飛行で、ブルース・ピーターソンの操縦するM2-F2は、
機体が制御不能になり、時速250マイルで地面に突っ込み、
何度も転がりながら静止したため、ほぼ壊滅状態に陥りました。

墜落の原因は、フロー・セパレーション(境界層剥離)によって引き起こされた
制御の不安定さからくるダッチロールの発生とされています。




ピーターソンは何度か手術を受けましたが、顔の怪我、頭蓋骨の骨折、
片目を修復する「バイオニックインプラント」は当時ありませんでした。

事故で破損したM2-F2をベースに、先端フィンの間に第3垂直尾翼を追加し、
制御特性を向上させる改造が施されたM2-F3が製造されました。


つまり、「600万ドルの男」オープニングで飛び、墜落するのは、
他でもないスミソニアンに展示されているのと同じ機体ということになります。

このリフティングボディシリーズは、
NASAとノースロップ社の共同プログラムによって建造されました。
機体名の「M」は「manned」「F」は「flight」バージョンを意味します。

まず、最初のバージョン、M2-F1およびM2-F2の初期飛行試験により、
有人による宇宙からのリフティングボディ再突入のコンセプトが検証されました。

1967年5月10日にM2-F2が墜落したときには、すでに貴重な情報が得られており、
新しい設計に寄与していたため、この墜落は計画の失敗という意味ではありません。

ただ、M2-F2は横方向の制御性に問題があったため、ノースロップ社で
3年にわたる設計・改修の末、M2-F2を再建しました。

1967年5月の墜落事故では、左翼と着陸装置が引きちぎられ、
外板や内部構造にも損傷があったため、飛行研究所のエンジニアは、
エイムズ研究所や空軍と協力して、より安定性を高めるために
中央のフィンを持つ機体の再設計を行いました。

当初、機体は修復不可能なほど損傷していると思われましたが、
オリジナルの製造元であるノースロップ社が修理を行い、M2-F3と改名する際に、
第3垂直尾翼を追加して、先端尾翼の間の中央に配置し、
制御特性を改善するように改造されたというわけです。

M2-F3は依然としてパイロットにとって厳しい機体でしたが、
センターフィンの採用によって、M2-F2の特徴であった
パイロット誘起振動(PIO)の高い危険性を排除することができました。

■運用

M2-F3は1970年6月2日、NASAのパイロット、ビル・ダナが初飛行を行いました。


繋がれてる人がDana

改良された機体は、以前よりもはるかに優れた安定性と制御特性を示しました。
ダナはM2-F3で高度20,200m、マッハ数1.370を記録しました。

その後27回のミッションでM2-F3は最高速度マッハ1.6を達成。
最高到達高度は、20,790mでした。

このM2-F3は、1967年から1972年にかけて27回の飛行を行っています。

その実験の全てを成功させ、多くはスペースシャトルの実施に生かされました。
このリフティングボディの研究により、無動力着陸が安全であることが実証され、
シャトルには着陸エンジンが不要ということがわかったのです。

■ スミソニアン国立航空宇宙博物館のM2-F3

軌道上の宇宙船に搭載されているような
RCT(リアクション・コントロール・スラスター)システムを搭載し、
機体制御の有効性に関する研究データを取得しました。

M2-F3は、リフティングボディプログラムの終了に伴い、
現在の多くの航空機に使用されているサイドスティック型コントローラと
同様のサイドコントロールスティックの評価実験も行っています。


1973年12月、NASAはM2-F3をスミソニアン協会に寄贈しました。
現在は、1965年から1969年までドライデンのハンガーでパートナーだった
X-15 1号機とともに、国立航空宇宙博物館に展示されています。


■リフティングボディ実験のレガシー

1990年代から2000年代にかけての先進的なスペースプレーン構想では、
まさにこのリフティングボディ設計が採用されています。


HL-20実物大模型

例えば、HL-20人乗り打ち上げシステム(1990年)、
プロメテウス(2010年、中止)などがそうです。



HL-20の技術を発展させたドリームチェイサーは、現在のところ、
無人の補給船としての運用が想定されています。
ヴァルカンロケットに搭載して垂直状態で打ち上げられ、
滑空帰還して通常の滑走路へ着陸するのです。



2015年、ESA(欧州宇宙機関)のIntermediate eXperimental Vehicle(IXV)
がヴェガロケットで打ち上げられ、弾道飛行によって
低軌道からの地球帰還実験をシミュレートする飛行実験を実施。
史上初めてリフティングボディ宇宙船の再突入を成功させました。

IXVは、FLPPプログラムの枠組みで評価されうる、
ヨーロッパの再使用型ロケットを検証することを目的とした、
欧州宇宙機関の揚力体実験再突入機です。

このM2-F3は、これらの重量級無翼リフティングボディの第1号です。

無翼機の形状だけで空力的な揚力を得るというコンセプトは、
スペースシャトルの設計そのものに生かされることになりました。


リフティングボディのコンセプトは、NASAのX-38、X-33、
BACのMulti Unit Space Transport And Recovery Device、
欧州のEADS Phoenix、ロシアと欧州の共同宇宙船Kliperなど、
多くの航空宇宙計画で実施されてきました。

リフティングボディは、SpaceX社のファルコン 9ロケットにも採用され、
その設計原理は、ハイブリッド飛行船の建造にも利用されています。

続く。


マッハ2の偉業 ダグラスD-558-IIスカイロケット〜スミソニアン航空博物館

2022-04-17 | 航空機

スミソニアンの歴史的航空機シリーズの一つだと思うのですが、
ちょっとメインとは外れたところ(エスカレーターの横)に
こんなロケット機が展示されています。


ダグラスD-558-2スカイロケット(D-558-II)


いかにも近未来的なシェイプの航空機。
これはダグラス・エアクラフト社がアメリカ海軍のために製造した
ロケットおよびジェットエンジン搭載の研究用超音速機です。

■クロスフィールドの最速記録マッハ2



1953年11月20日朝、奇しくもライト兄弟が人類による動力飛行をおこなってから
50年目の1ヶ月前に当たるこの日、A・スコット・クロスフィールドは、
音速の2倍であるマッハ2で飛行した史上初のパイロットになりました。

この偉業を可能にしたのが、ロケット推進による空中発射の実験機、
ダグラスD-558-2号機「スカイロケット」です。

このテスト飛行で、スカイロケットは高度6万2千フィートから急降下中に
マッハ2.005(時速1291マイル)を達成しました。

その数秒後、XLR-8ロケットエンジンは燃料を使い果たして停止したため、
クロスフィールドはすぐさま地上に滑走し、
エドワーズ空軍基地のムロック・ドライレイクに着陸しました。

同じスミソニアン博物館のマイルストーンシリーズで、
音速を破ったX-1「グラマラス・グレニス」を紹介したばかりですが、
ダグラスD-558-II「スカイロケット」もまた、このX-1はじめ、
X-4、X-5、X-92Aといった初期の遷音速研究用航空機の一つです。

D-558-IIの初飛行は、1948年2月4日、
ダグラス社のテストパイロット、ジョン・マーティンが行いました。

この日から1956年までの間に、NACA(NASAの前身)、海軍・海兵隊、
そしてダグラス・エアクラフト社の共同プログラムにより、
単座・双翼の3機が飛行しましたが、初飛行から5年目にスカイロケットは、
世界で初めて音速の2倍の速さで飛行し、航空史にその名を刻んだのです。


「D-558-II」という機体名の「II」は何かと言いますと、
当初3期で計画されていて、第1期の機体は直線翼、
そして後退翼(swept wing)の第2期機が最終的に選ばれたからという説、
単にフェーズIIだったから、という説もあります。

ちなみに第3期は、第1期、第2期の試験結果を具体化した戦闘機で
モックアップを製作する計画でしたが、実現には至っていません。



後退翼が特徴

主翼の掃角は35度、水平尾翼の掃角は40度です。
主翼と尾翼はアルミニウム製で、胴体は非常に大型、
主にマグネシウム製でできています。

マリオン・カール中佐の最高度記録(非公式)


X-1と同じく、D -558-IIも、発射は大型機の翼の下から行いました。

これは、1953年8月21日、ボーイングP2B-1S「スーパーフォートレス」から
ドロップされる瞬間のスカイロケットテスト機です。

母機の「P2B-1S」は改称で、ダグラス・エアクラフト社は、
降下艇としての役割を果たすためにこの爆撃機を改良しました。

この日、この超音速研究用ロケットプレーンは、
エドワーズ空軍基地上空3万フィート(9,144m)で投下され、
この飛行中、マッハ1.728に達しました。

この日の出来事は、ワシントンAPはこのように打電しています。

海軍は月曜日、海兵隊のパイロット、マリオン・E・カール中佐
8月21日にダグラス・スカイロケット調査機で
83,235フィートの高度新記録を打ち立てたと発表した。


この名前を当ブログは何度となく必要に応じて記しているわけですが、
第二次世界大戦の戦闘機エースで、ラバウル航空隊と死闘を演じた
あのマリオン・カール中佐が、戦後は
テストパイロットとして活躍していたことを書くのは初めてかもしれません。



「スーパーフォートレス」機内で飛行服(耐圧スーツ)を身につけている
マリオン・カール中佐(左)。

海軍によると、この非公式な世界記録は、
新しく開発された高高度飛行服のテスト中に樹立されたものでした。

飛行服のテストのつもりで高度を上げて行ったら、
機体がいつの間にか記録を更新するくらい高く上がっていたので、
この際記録としてカウントしておこうということになったのでしょうか。

それまでの高度非公式記録は、2年前にダグラス社のテストパイロット、
ビル・ブリッジマンが同じ飛行機で打ち立てた79,494フィートだったので、
カールはこれを4000フィートも更新したことになります。

しかしながら、全米航空協会の規則では、高度記録への挑戦は
地上から離陸した飛行機でないとダメとされていたため、
この空中発射による記録はニュースにはなったものの、
公式記録としては認められることはありませんでした。

ちなみにブリッジマンの記録も空中発射された飛行機で作ったもので、
同じ条件だったので非公式記録となります。


■D -558-I スカイストリーク(ジェットエンジン)


左:マリオン・カール

「スカイロケット」の先代のD-558-Iは「スカイストリーク」Skystreak
何かに似てますよね・・・F-86?

第1期のD-558-1は、ジェットエンジンと直立翼を採用した機体です。
テストパイロットとしてのマリオン・カールは、このバージョンで
時速650.8マイル(1048km)の世界最高速度を記録したのです。

この機体は、真っ赤な色だったことから、
「クリムゾン・テストチューブ」とあだ名をつけられていました。

建造されたのは全部で3機、カール中佐が記録を立てたのは2号機でしたが、
その後のテスト飛行で圧縮機の分解により発射に失敗し墜落、
パイロットは死亡し、機体も失われることになりました。

あくまでも一般人の印象ですが、X-1があまりにも有名なのと、
せいぜいスカイロケットを知る人がいるのみで、
スカイストリークはほぼ無名と言っていいかと思います。

それはX-1がロケットエンジンで、スカイストリークが
普通にターボジェットエンジンだったから、と思い切って言ってしまいます。

D-558-Iは降下中だけとはいえ、ジェットエンジンでありながら
長時間の遷音速飛行を一応達成しているのですが・・・・。

X-1の超音速飛行はこれと比べると短時間であり、
航空工学的な実績は、ある意味こちらの方が評価されているらしいです。

さて、そこでD558-1を何とか改造して、ロケット動力とジェット動力、
両方に対応できるようにしようとしたのですが、不可能とわかったので、
全く別の機体であるD558-IIが誕生することになりました。

1947年に契約が変更されてD558-1の代わりに
3機の新しいD558-2を代用することが決定します。

この3機のテスト飛行の結果、多くの貴重なデータが得られました。
例えば、遷音速と超音速における翼と尾翼の荷重、揚力、抗力、
そして緩衝特性の関係などについてです。

■なぜ遷音速か

遷音速の研究機はなぜ必要だったのでしょうか。

その理由の1つは、マッハ0.8から1.2までの速度範囲について、
それ以前の正確な風洞データがなかったこと。

もうひとつは、従来のP-38「ライトニング」のような戦闘機は
音速に近づくと、密度の増加や気流の乱れによる衝撃波の発生で急降下し、
機体がバラバラになってしまうというリスクがあったからです。

遷音速の限界に耐えられる機体を作ることによって、
危険を回避し、衝撃波にも十分耐えられる安全性の確保ができますね。

NACA、陸軍航空隊、海軍を中心とする航空関係者は、特に現場で
遷音速域での圧縮効果に耐える構造強度持った機体を切望していました。


このとき陸軍は最初から「ロケットエンジン派」でX-1にも出資しましたが、
海軍はより保守的な設計を好み、D-558-Iを推しています。
NACAは保守的でしたが、X-1の研究も支援しています。

各団体の傾向がちょっとずつ違うのが興味深いですね。

ダグラスD-558-IIは結局米海軍とダグラス・エアクラフト社、
全米航空諮問委員会(NACA)の共同研究プロジェクトとなりました。

そして海軍は結局1945年6月22日、ダグラス社に対して、

翼と尾翼が直線的で薄く、ターボジェット推進を持つD-558型機6機

の製造に関する注文書を発注しています。

開発責任者は、エドワード・H・ハイネマン主席技師でした。

海軍はジェット機推しだったと先ほど書きましたが、
DC -558のダグラス社との契約の際、第1期が直翼ターボジェット機、
第2期がターボジェット推進とロケット推進による掃射翼機、
と2つのフェーズに分けることが決まりました。

ダグラスと海軍は、その後、戦時中のドイツの後退翼機の捕獲データ
(これってもしかしてコメート以下略)を分析し、
アメリカの科学者ロバート・T・ジョーンズの研究と合わせて、
D-558の契約を変更し、予定していた3機を削除して、
ターボジェットとロケット・エンジン、両方を搭載した後退翼機
3機に置き換えることに決定しました。

そこでさしもの保守的な海軍も、
旋回翼機がマッハ1越えの推進力を得るためには
ロケット推進が必要としてこれを付加することに合意したというわけです。

さらに、第2期機にの製作で、ターボジェットとロケットエンジン、
この両方を搭載するためには、新しい胴体が必要ということもわかりました。

そこで、主翼よりも薄く、可動する水平安定板を採用し、
主翼と水平尾翼が音速越えの際に受ける衝撃波の影響を受けないようにし、
衝撃波の際も、ピッチ(機首上げ下げ)制御ができるようにしました。

ダグラス社がD-558-IIを製造している間、NACAは以前ここでも紹介した
ラングレー風洞でのテストや、無人機による実験のデータを提供しました。



リアクションモーターズのLR8-RM-6 4室ロケットエンジン1基を搭載し、
旋回翼機で燃料はアルコールと液体酸素でした。

ただし、フェーズIIの3機には元々、ウェスティングハウス社の
J34-W-40ターボジェットエンジンも搭載されていました。



全長12.80メートル、翼幅27.62メートル、
主翼の前縁は35°、尾翼は40°に後退しています。

空虚重量は4,273キログラム、最大離陸重量は7,161キログラム。
1,431ℓの水/エチルアルコールと1,306ℓの液体酸素を搭載しました。

制作された1948年2月4日から6年半の間に、
3機のロケットプレーンは合計313回の飛行を行っています。



ターボエンジンは胴体前部のサイドインテークから供給されますが、
これが使われるのは離陸、着陸の時で、高速飛行用には、
4室構造のリアクションモーターズ製LR8-RM-6エンジンが使われます。

機体はコクピットからの視界が悪かったため、従来の角度のついた窓を持つ
盛り上がったコクピットに再設計されています。

D558-1型と同様、緊急時にはコックピットを含む前部胴体が分離され、
前部胴体が十分に減速した後、パイロットはパラシュートで
コックピットから脱出することができるようになっていました。


■運用の歴史

スカイロケット3機の飛行回数は、
1番機123回、2番機103回、3番機87回の合計313回でした。

スミソニアンに展示されているD-558-2 #2は、
アメリカ海軍が、遷音速および超音速での空力情報を得るために
ダグラス・エアクラフトに発注した6種類の研究機のうちの1つに過ぎません。



D-558-1とD-558-2は細部の設計が大きく異なりました。

D-558-1は、音速のマッハ1程度が限界でしたが、D-558-2は、
ロケットエンジンによりマッハ1を軽く超えることができたそうです。

高負荷のロケット推進機は地上から発射させることは
安全性にも問題があるため、ダグラス社はスーパーフォートレスを改造し、
爆弾倉から空中発射できるようにD-558-2#2、#3を改造しました。

同時にD-558-2#2を全機ロケット推進に変更しています。

そして、ターボジェットエンジンがあったスペースを燃料の増槽にするとか、
機体にワックスを塗って抵抗を減らすなどの工夫、
そして約72,000フィートまで飛行してわずかに急降下する飛行計画により、
クロスフィールドはスカイロケット唯一のこのフライトで、
マッハ2.005(時速1291マイル)に達し、
航空史にその名を刻む快挙を達成したというわけです。



スカイロケットのパイロットたちは、記録を打ち立てただけでなく、
遷音速および超音速飛行領域で旋回翼機を安定的に制御して飛行させるために
何が有効で何が有効でないかを理解し、重要なデータを収集しました。

また、風洞試験の結果と実際の飛行値との相関関係をより明確にすることで、
設計者の能力を高め、軍用機、特に掃射翼の航空機を
より高性能にすることにも貢献したのです。

その後、X-1やセンチュリーシリーズの戦闘機は、この初期の研究機から
安定性や操縦性などのデータを得て世に生まれることになりました。


続く。

X-15とニール・アームストロングと『ファースト・マン』〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-07 | 航空機

スミソニアン博物館にはグラマンが提供した
「マイルストーン」(歴史的)機の展示コーナーがあり、
そこに並ぶ古今の航空系展示物を見ているだけで圧倒されます。

ソユーズやアポロ11号の月面着陸機などに目を奪われますが、
とにかく歴史的に「初めて」と冠のつく機体ばかりなので、
気がつけばノースアメリカンのX-15のような、
「航空機の究極の完成形」とまで言われる機体も、
どちらかといえばひっそりとそこにあったりします。

X-15。

それは将来のハイパーソニック航空機を可能にする、
重要な飛行データを収集した歴史的な機体であり、
大気圏内有人飛行と大気圏外宇宙有人飛行との間の
ギャップを埋め、橋渡しをしたといわれています。
これらのロケットパワーの研究用航空機は、マッハ5、
つまり音速の5倍である「極超音速領域」を調査しました。

驚くべきことに、X-15は、今現在でも、依然として
世界史上最も速く、そして高く飛んだ航空機です。

1959年に行われた最初のテスト飛行以来、X−15は
マッハ4、マッハ5、そして6に達し、飛行中に
高度100,000フィート(30,500m)を遥かに超えて
190回以上の飛行を行った最初の航空機となりました。

スミソニアンのX-15、機体番号66670
製造された3機のうち一番最初のものです。
現存するのはこの機体とあともう一機です。

この66670は記録を樹立した機体ではありませんが、
82回のミッションの過程でマッハ6に達しました。


■X-15の機体


わたしがこのホールに立ってこの写真を撮りながら思ったのは、
なんて翼の小さな飛行機なんだろう、ということです。
翼というものがほとんど意味を持たないような・・・、それは
ロケットに申し訳程度に翼をつけてみただけ、というように見えました。



スピードが目的で建造された飛行機に、飛行を安定させるための
大きな翼は全く必要がないのです。


なぜなら、X-15は自分で離陸せず、ボーイングB -52で
高度12,000メートルまで運ばれ、翼の下からドロップ発射されるシステムでした。


一階のフロアからは下腹しか見えません。


2階からはほぼ真横から見ることができます。
この時は、10代の少年が食い入るように説明を読んでいました。

ここに訪れる青少年の中から将来のパイロットが生まれる確率は高いでしょう。

彼が見ているX-15機体図


スペースの関係で90度傾けました

胴体は長く円筒形で、後部フェアリングにより外観が平らな感じ。
背中と腹部の厚いウェッジフィン・スタビライザーが付けられました。

引き込み式着陸装置は、機首車輪の台車と2つの後部スキッドなので、
着陸の動画を見ると、只事でない感じの土煙が上がっています。

パイロットは着陸直前に下部フィンを切り離してパラシュートで落とします。
なぜなら下部フィンがスキッドの邪魔になるからです。

また、時速4,480km、高度37kmで作動する射出座席がありましたが、
計画中には一度も使用されたことはありません。
パイロットが着用したのは、窒素ガスで加圧できる与圧服でしたが、
高度11km以上では、コックピットも窒素ガスで0.24気圧に加圧され、
呼吸用の酸素はパイロットに別途供給される仕組みでした。

■ X -15のテスト飛行

「大気圏内有人飛行と大気圏外宇宙有人飛行との間の橋渡しをした」

と先ほど書きましたが、X-15プログラムの199回に渡るフライトで得られた
貴重なデータは、全てマーキュリー、ジェミニ、アポロ、そして
スペースシャトルプログラムに生かされました。

特に、新しい耐熱素材、そして空中と宇宙の間を移動するための
飛行制御システムの開拓はこれがなければ生まれていなかったでしょう。


カリフォルニアのエドワーズ航空基地のランウェイ上にあるX-15.
上空に飛んできているのは牽引をするB-52です。





X -15のノーズには
BEWARE OF BLAST「爆風注意」とラベルされています。
同じ注意書きがエンジン部分にもあります。


X-15のテールは厚いくさび形で、極超音速でも安定するためのデザインです。
また、推力はリアクションモーターXLR11液体推進ロケットエンジン2基。

X-15の特徴である黒い塗装が施された機体の素材は「インコネルX」
ALLOYXともいうニッケル—クロム—鉄合金で、
チタン、ニオブ、アルミニウムを含有し、高温および低温下で耐腐食性を持ちます。

その特徴は、高温下で強度、耐酸化性が高く、極低温でも耐性を持ち、
耐腐食性が良好ということです。

前方を示す黄色い矢印のペイントの上には、

U.S AIR FORCE X-15
A.F. SERIAL NO. 56-6670

その後ろの黄色いRESCUEの下には、

EMERGENCY ENTRANCE
 CONTROL ON OTHER SIDE


とあります。

■X -15のパイロット

実は、その上の部分には、歴代パイロットの名前が記されています。

スコット・クロスフィールド NAR
ジョー・ウォーカー NASA
ピーターセン大佐 USN
J.B. マッケイ NASA
ラッシュウォース少佐 USAF
ニール・アームストロング NASA
エングル大尉 USAF
ミルトン・トンプソン NASA
ナイト少佐 USAF
ビル・ダナ NASA
アダムス少佐 USAF

機体にはスペースに限りがあるので、軍人はタイトルだけで、
一般人(NASA)はファーストネームあるいはイニシャルが付けられています。

アルバート・スコット・クロスフィールド(ライトスタッフに出てましたね)
のNARは、彼がノースアメリカン所属のテストパイロットだったことを表します。

クロスフィールドはアカデミックなメソッドで訓練された
「エンジニア/テストパイロット」第一世代の一人で、
1959年、最初にX -15を操縦しました。


X-15実験前のクロスフィールド

クロスフィールドが操縦するX-15 機体番号は66671


2番目に名前があるジョー(Josepf)・ウォーカー
X-15を初めて高度108キロメートルまで飛ばしました。


ウィリアム・J・ナイト(Knight)少佐は、1967年に
実験機のX-15A-2で有翼機の速度記録、7,274 km/hを樹立しました。

有翼機で宇宙空間に達した5人のパイロットのうちの1人でもあります。

■X-15フライト3-65-97事故

テスト飛行は一度悲惨なクラッシュ事故を起こしており、
X-15フライト3-65-97、あるいはX-15フライト191とも呼ばれています。

享年37

1967年11月15日、マイケル・J・アダムスが操縦したX-15は、
発射後数分で機体がバラバラになり、パイロットが死亡、
機体が破壊されるという悲劇に終わりました。

この日、X-15の上昇に伴い、アダムスは、搭載されたカメラが
地平線をスキャンできるように、計画された回転マヌーバを開始。
高度7万m23万フィートで、急速に密度を増す大気圏に降下中のX-15は、
マッハ5(5,300km/h)のスピンに突入します。
機体そのものにスピン回復技術が備わっていなかったにもかかわらず、
アダムスは技術を駆使してX-15のコントロールを維持することに成功しました。

しかし、その後機体は急速なピッチング運動が激しくなり、
ほぼ垂直に急降下して機体は分離、地面に墜落したのです。




X-15という歴史的機体の実験に関わったテストパイロットは12名。
8名のパイロットが地球から80キロ上空の飛行を体験し、
このうち2名がのちに宇宙飛行士になりました。

一人はアポロ11号で人類初めて月に降り立ったニール・アームストロング
もう一人はスペースシャトルに乗り組んだジョー・イーグルです。

ちなみにチャック・イェーガーが優秀なテストパイロットでありながら
宇宙飛行士のテストも受けられなかったのは、学位を持っていなかったからです。

宇宙でのアクシデントに対処するのに、科学技術のアカデミックな下地が必要、
とされたのですが、国家的規模の事業のフロントに立つ宇宙飛行士に
NASAは結構「イメージ」を重視していたんだろうとは思います。

時代的に当然ですが、選ばれた宇宙飛行士は後のアポロ計画に至るまで
全員が見事に白人男性ですし、選考の際には、夫婦仲がうまく行っているか、
などということも一つのポイントになったといいますから。

ニール・アームストロングと映画「ファースト・マン」



ライアン・ゴズリングがアームストロングを演じたこの映画の最初は、
X-15、66672の機体でテスト飛行を行うアームストロングが、
機首を下げるタイミングを遅らせて、予定された着陸地点を通り過ぎ、
エドワーズ空軍基地から72kmも離れた場所まで行ってしまって、
教官のチャック・イェーガーにダメ出しされるシーンから始まります。

イェーガーはニールを「注意散漫だ」と決めつけるのですが、
映画を最後まで見た人は、彼がなぜ上空で機首を下げなかったのかを、
彼の娘の死と重ね合わせて納得するという仕掛けです。

ここスミソニアンの解説には、ただ、

「ニール・アームストロングは、X -15のリサーチパイロットという任務に
大変誇りを持っていました」

とだけ書いてあります。

アームストロングのX -15での飛行は通算7回、総飛行時間は2,450時間、
高度63.2kmに到達し、マッハ5.74を出すという成績でした。

映画「ファースト・マン」では、彼がX-15の臨界点で見た世界も、
そしてジェミニ8号で見た宇宙も、そして月面もが、ニールにとっては
幼くして死んだ愛娘のいるところに繋がっているとして描かれます。


シー宇宙飛行士(享年38)

そして、宇宙飛行士の訓練の一環として行われるT-38の操縦訓練中、
事故死する宇宙飛行士エリオット・シー(See)の葬儀や、
アポロ1号のメンバーが全員死亡した火災事故なども描かれ、
(カプセルのハッチがその瞬間ガコン!と歪むのが怖かった・・)
宇宙と「死」の近さが映画を通じて強調されます。

ただ、アームストロングが宇宙飛行士に転職したのは、
娘の後を追うことを望んでいたからというのは、少し穿ち過ぎの気がします。

なぜなら、彼が宇宙飛行士応募に願書を出したのは、
ジョン・グレンの地球軌道周回が成功したことを受けてのことであり、
これは、彼が、宇宙飛行士の任務における安全性(つまり生存の可能性)
が高まったと判断したからと考えられないでしょうか。

彼は「死」に魅入られていたというより、ただ、死を恐れなかった。
なぜならそこに愛する娘が待っていると信じていたから。
という方が納得がいくのですが。



続く。