アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

離魂

2023-05-10 06:32:31 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎死期と分身 

(2014-05-26)

 

その肉体を離れて魂が漂泊することを離魂という。

 

北勇治という人が外出から帰ってきて、居間の戸を開けると机におしかかっている人がいた。誰だろうと思ってみると、ヘア・スタイルから衣類まで自分がいつもセットしたり着ているものと同じである。顔を見ようと歩いていくとその人は向こうを向いたまま障子の細く開いたところから縁先に出てしまって、後を追ったが、姿はみえなくなっていた。

 

それから勇治は病気になり、その年のうちに亡くなった。母やその家の家来は、勇治の父もその祖父もそのような病気で亡くなったことを知っていたが、敢えて勇治本人には教えないままにしていた。(参考:栗原清一/日本古文献の精神病理学的考察)

 

このように自分自身の姿を見ると死ぬという言い伝えは日本とドイツにあるという。

                

さて似たような話で、唐代伝奇の猜娘(せんじょう)離魂のエピソードは禅の公案にもなっている。

 

猜娘は王宙と相思相愛の恋仲になるが、猜娘の両親はそれとは気がつかず、猜娘はやがて、両親の言いつけのままに他の男性と婚約させられる。王宙はこのことを不本意として、都に上る旅に出る。

 

その日の暮れつ時、思いもかけず猜娘が裸足のまま後を追ってきて、二人はその足で、蜀に逃避行を敢行する。蜀で5年暮らすうちに、子供も二人生まれたが、猜娘が父母を恋しがるので、故郷へ帰ることにした。

 

猜娘の実家の近くで猜娘を待たせ、王宙が猜娘の実家に挨拶をすると、母親は、「娘は病気で5~6年寝たきりなのに、でたらめなことをいう」と言って怒る。

 

両親がそれを確かめに猜娘に使いを出すと、間違いないことがわかった。寝たきりだったもう一人の猜娘はこれを知ると起きて着替えて迎えに出て行った。すると不思議や二人の猜娘は一つに合体し、着物までぴたりと一致した。

 

 

北勇治の話と猜娘の話は、全く別のスキームの話であると思う。

 

死期が近づき、人生の最終ステージになると、次のステージののぞき窓がへその下にちょっと開く。これでもって、何かの拍子にちょこっとアストラル・トリップしてわが肉体を見た。これが北勇治の話ではないだろうか。

 

猜娘の話は、フィリス・アトウォーターの8分身のことを知っていれば、練達のクンダリーニ・ヨーギであればできることだとわかるだろう。猜娘の思いの純粋さがこうした人間離れした出来事を起こしたのだと思う。

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水牛の尻尾

2023-05-10 06:25:59 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎無門関の第三十八則 牛過窓櫺

(2017-10-18)

 

禅問答集の無門関の第三十八則 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)

 

『禅の五祖法演禅師が曰く、

たとえば、水牛が窓の格子越しに通っていくのを見ていて、頭、角、四本の蹄がすべて行き過ぎ終わったのに尻尾だけが残って行き過ぎない。』

 

これを無門が歌うに

『窓を過ぎ去れば、堀や溝に落ちてしまう

引き返すようでは押しつぶされる

この尻尾は、甚だ奇怪である。』

 

窓から見ている自分は、本当にすべてを捨てきることができたのか。

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断碑横古路

2023-05-10 06:22:38 | 人と神の「実際のところ」

◎言葉によって表現できないものでも歴史上に現れ続ける

 

宋代の禅僧五祖法演は、潙仰宗のことを評して「断碑横古路」(壊れた石碑が、今は誰も通らない表参道にごろんと横倒しになっている)と評した。

禅は一切の分別や解釈を断つのだとして、取り付く島もないのだが、その点ばかり強調すると、最後はクリシュナムルティのように境地だけを説き、そこに至る冥想法は説かないということにもなることがある。禅僧普化の暴れぶりもそう。

 

するとそんなマスターの説は、崇高で格調高いのであるが、誰もその後を継承できなくなるということがまま起こるものである。

 

禅問答は、木で鼻をくくったようなものが多いのだが、五祖法演の公案は、一見とりつきやすいが深い味わいのあるものがある。倩女離魂(無門関第35則)牛過窓櫺(無門関第38則)がそれ。

 

神、仏、道(タオ)、涅槃(ニルヴァーナ)、空、禅の無というような言葉で表現できないものは、言葉で伝承できないのだが、なぜか歴史上には現れ続けるものだ。以心伝心といえばわかりやすいが、心そのものがわかっていない者がそれを言っても詮無い。

 

禅問答は、取り付く島もない、鉄面皮なものが多いが、そうした「石ころの心」から何かが流れ出すということは、ヒントをもらわないと気がつきにくいものだが、なぜか気がつく人は絶えないから、言葉によって表現できないものでも歴史上に現れ続ける。

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