アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

出口王仁三郎の尸解論

2023-05-28 16:55:34 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎自然の法に従う尸解など

(2018-10-12)

 

出口王仁三郎が尸解を論じている。

『虎、狼、猪、熊、狐、狸など野山に住む獣類、さては鳩、鳶、烏、雀の鳥類に至るまで、死骸と云ふものを此土にのこさぬ。

 

人に殺された場合は別だが、自然に死んだこれ等の屍と云ふものを誰も見た事があるまい、此等の動物は一定の時が来ると、尸解の法によつて体をもつて霊界に入つて仕舞ふのである。

 

これ皆神様の御恵によるもので彼等が死して醜骸を此地上に残す時、誰も葬式をして埋めてやるものが無いからの事である。それに彼等には欲と云ふものがないし、執着心も何もないので、実際綺麗なものである。

虎狼の欲といふ諺があるけれど、彼等は腹が膨れてさへ居れば、決して他を犯さうとはしない。

 

人間の欲となると恐ろしいもので、其日の糧どころか、一年中食べても、一生涯食べても余りある程のものを貯へながら、まだ其上他のものを自分のものにしたいと云ふ欲望の絶ゆる時がないのだから、おそろしい執着だ。

 

家畜は死骸を此土に曝すが、それは人間が始末をしてやるから、尸解の法に依らないのである。人間も同様お互に始末を仕やう事が出来るから尸解の法によらないのである。』

(出口王仁三郎随筆集水鏡の尸解から引用)

 

さらにこれを前提に、

『加藤『尸解(しけ)の法についてお伺い致したいのですが』

 

出口氏『ガット虫が蝉になるのもみな尸解の法である。

 

ガット虫に羽が生えて変わるだろう。麦の中から虫が発生(わ)いて蝶になる。これもみな尸解の法だ。天狗になったとかいうのは人間のうち尸解の法によってなったのだ。

 

鳥などは自然に従っているから何でも出来る』

 

加藤『尸解の法によって霊界に入る以外に霊界に入ればそれらの血液はどうなるのですか』

 

出口氏『鶏なんかは大抵食うようになっているから、殺された時に霊が抜ける。それが霊身を作って、鶏なら鶏になっている。

 

人間の体は死ぬと血が黒うなってしまう。霊のある間は霊が流通させているけれども、霊が抜けてしまうと肉体の中に入ってしまう。

 

滓(かす)が残っているが血が血管の中を廻っているのは霊が動いているからで、人間の血は霊なのだ。

 

霊が入っているから赤い。霊がなくなってしまったら、水分が体内へ吸収されてわからんようになる。

 

静脈血は初めから黒いが、本当に良いやつは融和してしまう。水気が屍体と一緒になってしまうのだ。血液は元通りあるのだけれども、屍体の中に一緒になってしまうので分からなくなってしまうのだ。霊というものは形のないものだから、形のないものが血液の中を廻っているから赤いのだ』』

(『出口王仁三郎全集第二巻第四篇P370-371から引用(国会図書館デジタルアーカイブにあり))

 

以上は、動物も含めて普通に屍解があることを指摘している。血液は霊だとは言っているが、七つの身体論でいえば、血液といえども物質レベルだから、血液についてはOSHOバグワンはほとんど気にしていない。チベット死者の書でも血液については、体液の流出として描かれてはいるが、その程度の言及だったように思う。

出口王仁三郎も霊は形がないとして物質レベルではないことを前提にしている。

 

覚醒から尸解に至るロジックは、通常の社会通念の外側にある。そして尸解も輪廻転生の一シーンである。

 

動物は、自然において屍解しようとして屍解するわけでなく、自ずと屍解する。人間はさる境地にあるものだけが、屍解が可能となる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の猫、世界の猫

2023-05-28 10:26:54 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎冥界の王

(2008-08-08)

 

1.仙台・田代島の猫神社

漁業の島で人口が120人位だが、猫の好物の魚が豊富だったのだろう。おまけに犬禁制だとか。

 

2.高知県 須崎市の猫神社

元々は、漁撈生活と縁の深いものだったのだろうが、招き猫を奉納してもねえ・・・・。

 

3.江戸・回向院の猫塚

二両を盗んだ濡れ衣を着せられて殺された猫の塚あり。

 

4.江戸・三光稲荷神社。

失せ猫が戻るという神社。人形町通り三光新道の途中にある小さな稲荷。江戸時代由来のものは人情の機微に触れるものが多いですね。

 

5.古代エジプトの猫女神

古代エジプトの猫女神バステト女神(喜びと愛の神)の神殿のあったブバステス(猫の家の意味)。猫はバステト女神の使いとされ、とても大切にされ、猫が死ぬとミイラにしてブバステスの墓に埋葬される慣習もあった。

エジプトのベニ・ハッサン遺跡からは、猫の遺体30万体が見つかったこともある。

 

6.北欧神話の愛と喜びの女神フレイア

フレイアは地母神だが、その乗る馬車を引くのが、超マッチョな2匹の猫。バステトのイメージとかぶります。

 

7.出口王仁三郎の玉鏡から引用

『猫は魔の王であるから、家に猫を飼うておくと悪魔が来ない、猫を抱いて寝て居れば魘(おそ)はれるやうな事はない。』

へーえ、本当ですかねえー。なぜですかねえ?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇宙人は猫をいやがること

2023-05-28 10:23:02 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎ホイットリー・ストリーバーの未知との遭遇

(2014-05-08)

 

アメリカのホイットリー・ストリーバーは、ビジターと呼ばれる宇宙人との遭遇体験を繰り返した内容を描いた「コミュニオン」がベストセラーとなったが、「宇宙からの啓示」はその続作。

 

「宇宙からの啓示」の中に、宇宙人が猫を嫌がって、猫を気絶させるシーンがある(1986年12月23日の章)。

 

彼女はニューヨークにいた。ベッドに入って3時半頃目を覚ますと、(身体から違和感を感じながら)人間みたいな1人の宇宙人が部屋に入ってきた。部屋には複数の飼い猫がいる。

 

彼女が足を止めると、彼女は宙に浮かんで滑るように動き始め、宇宙人(ビジター)に押されていることで、彼女の身体にわずかに電気的な刺激が感じられた。・・・ということで、彼女はエーテル体かアストラル体でもって宇宙人にボディを押されていることを感じているのがわかる。

 

その後、彼女は別の状態に入り、猫のサディーを抱えながら、前方の目も眩むような闇を見て、次に見知らぬ部屋に入った、そこには4人の宇宙人がいた。

この部屋では電気的刺激云々という表現がないので、彼女はアストラル体でいたのだろう。

 

そこで宇宙人から、「なぜ猫を連れてきた」となじられ、宇宙人は猫のサディーの腿に金属片を当てて、猫を気絶させた。

 

猫は宇宙人が去った後、蘇生するが、以前とは違って何時間も座って宙を見つめ不安そうにしていたりしたので、猫にはかわいそうな体験だったらしい。

 

この事件から、ホイットリー・ストリーバーは、猫には何かあることに気が付いている。

 

私の見方では、猫も楽々と人間とともにエーテル世界と、アストラル世界を出入りできる生き物のようであること(猫を抱いたまま、人が各世界を出入りする)、そして、猫の見ている前では、宇宙人も人間を好き勝手に操作できなくなるものであることが推察される。

 

出口王仁三郎は、猫は魔の王と評しているが、猫の全容は、ホイットリー・ストリーバー件で気が付いただけのポイントではなく、更にあるのだろうと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫的ライフ・スタイルの人

2023-05-28 10:19:00 | 時代のおわりneo

◎人と直接コミュニケーションせずに孤独にならない

(2016-07-20)

 

絶海の孤島や山奥に行かなくとも、孤独な生活はある。ただ全く人を見ない生活は不便だし、ちょっと不安である。

 

気が向けばtwitterしたりlineしたりして、またたまにはリアルの人と喋ったりするけれど、ずっと喋ったりコミュニケーションし続けるのはしんどい。

 

他人とのコンタクトに気が向かなければ、一人でネットをしたりマンガを読んだり、テレビを見たりして自分の部屋にこもる。

 

最近の小学生だって、群れているのに各人が別々にゲーム機で興じるのが主流で、カードゲームを他人と一緒にやっているのは少ない。

 

一人だけど、毎日一人きりなのも寂しいから適当に他人がいるのが見えていて、それを眺めるのが丁度よい対人距離。

 

この距離感は実は猫同士の距離感でもある。猫も大体寝ていることが多いのだが、起きていても遊んだり、ごろごろしたり。群れていても適当に距離を置いて群れる。

 

なるほど最近はテレビによく猫が出るが、世の中に猫的ライフ・スタイルの人が増えたせいだとは、気が付かなかった。

 

冥想できる余裕はあるが、冥想のないルーティーン。死んでから、閻魔大王に一生の食事代を請求されないとよいが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫の生贄

2023-05-28 10:10:56 | 時代のおわりneo

◎アポロン信仰の対極

(2010-07-24)

 

生贄は、何かの見返りを期待して行うものである。

 

イングランドでは、ごく最近まで告解の三が日に猫を打って殺すという慣習があったそうな。

 

『特に西部のシュロッブシャーのアルブライトンという村では、非常にポピュラーな行事だったようで旅館の看板にはこんな詩が掲げられていた。

 

太陽の下の最高の娯楽

それはアルブライトンで猫を鞭打つこと

 

この野蛮な儀式は、明らかにギリシャ・ローマの太陽神アポロン信仰の名残である。場所によっては、猫の代わりに太陽神のシンボルである雄鳥(または雌鳥)を使っていた。

 

 

この場にいるわれわれは

アポロンの告解の日を厳粛に祝い

われわれの言葉とペンで貴方を迎え

われわれの告解に雌鳥を捧げる

(W.ホーキンズ)

 

鶏は猫と同じようにたたき殺されたあと、人々の胃袋に収まった。』

(猫と魔術と神話辞典/M・オールドフィールド・ハウイ/柏書房から引用)

 

これはアポロン信仰自体の持つ闇・死に対する対処の不足・欠落を、死の世界のシンボルである猫(鶏)をたたき殺すことによって、その心理的、集合的無意識的な弱点あるいはアポロン型社会の持つ歪みを克服しようとするセレモニーであるといえよう。

 

つまりアポロン信仰の社会を継続していくには、こうした大きな意味でのガス抜き機構、社会・大衆心理のバランサーとして祭礼が必ず必要なものであり、たまたまイングランドでは、猫を生贄としてずっとやってきたということなのだと思う。

 

そしてまた日本も含めた近代西欧文明自体がアポロン型なので、それが発生させる澱を浄化する手段を社会は定期的に必要とするもの。70年代の学生運動以降は、明示的にそうしたものを解消するものがなくなったので、その矛盾は集団活動の形ではなく、個人の内部に沈潜し、うつや家庭内不和、人間関係の不調などに噴出しているように思う。

 

猫は単なるペットに留まるものではない。そして、猫ほどその正体がわかりにくいものはない。その正体を見ぬくには相当の高みに行かなければならないようで、猫の全体像についての叙述はまず断片的なものにとどまっている。

 

出口王仁三郎は「猫は魔の王」と喝破したが、その傍証は極めて少ない。ズバリと断定できる体系的網羅的な材料が少ないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫の技

2023-05-28 10:04:07 | 時代のおわりneo

◎鬱陵島の猫

(2008-08-25)

 

猫の人への技として、人の言葉をしゃべる、眠っている人の胸に乗って悪夢を見せるなどが代表的なものと考えられる。

人の言葉をしゃべるとは文字通り日本語を発声するわけではないが、一人で在宅している徒然で、猫の気持ちが言葉として解せられるほど意識レベルが落ちているような時に、猫の気持ちがわかることがあって、それを猫がしゃべるとしたのではなかろうか。

また胸の上に5キロはあろうかという猫が乗れば、流石に乗られた人は目を覚ますだろう。ここは肉体猫がそのまま胸に乗るのではなくて、アストラル体猫が胸に乗って悪夢を見せることを、胸の上に乗って悪夢を見せると見たのだろうと思う。

また猫が人語を解するなどは、わりとあることなのではないかと思うことがある。

函館五稜郭で有名な榎本武揚が、竹島の猫を持ち帰ったそうだが、その竹島とは、今注目の竹島ではなく、鬱陵島のことである由。

というのは、1667年の出雲藩士斎藤豊仙の『隠州視聴合記』によれば、『戌亥(西北)の間を行くこと二日一夜、松島あり、また一日の程、竹島あり、俗に磯竹島と言う、竹島海産多し』
(猫の歴史と奇話/平岩米吉/築地書館から引用)とあり、

この松島というのが今で言う竹島であり、この竹島というのが鬱陵島のことだそうだ。猫が住めるかどうかということで言えば、今でいう竹島は、いくつかの岩礁に過ぎず、猫が住めるものではない。他方鬱陵島は、巨木が繁茂し、鳥獣が多いそうなので、猫が住めるのは鬱陵島ということになる。

この島の猫は、尾が短く曲がっていたが、鎌倉時代に中国から持ち込まれた猫は短尾だったので、大陸由来の猫だったのだろう。また野生猫に三毛やぶちはいないということから、おそらく鬱陵島の山猫は、きじ猫だったと思われるのである。

きじ猫は猫の本流なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫には魂がある

2023-05-28 06:16:37 | 吉凶禍福、占い、癒し

◎猫との意思のやりとりから屍解

 

キリスト教では、動物に魂はないとするが、猫には魂はある。

 

クンダリーニ・ヨーギ本山博が自宅の近所まで来て、猫のチャムに「門のところまで迎えに来て」と念じると、猫のチャムの「はい」という反応を感じ、いつもそのとおり迎えに来る。ある日、「はい」という反応をしたが、突然通信が消えて変だなと思ったらよその黒猫と喧嘩の最中だったという。(出所:本山博の人間の研究/本山博/東洋経済新報社P33)

 

一般に猫は音とにおいに敏感だが、行動半径200メートルと言われる中の一部である自分の縄張りの中については、他の猫などが侵入した場合、音とにおいだけではなく、別のレーダーみたいな感覚でわかるようだ。

 

人と猫の遠隔の意志交換はある。飼い主が帰ってきた時の足音や自転車の音は、猫は敏感に察知しているものだ。猫が人間に要求するニーズはせいぜいがえさと水と居場所だが、狐やたぬき並みに人を化かしたり操ったりすることはたまに伝えられている。

 

猫も宇宙人も幽霊も彼らは彼らなりの世界観で生きているのであって、人間と同様の感情や道徳律を期待してはいけない。

 

猫は健康なら20年も生きるが死ぬ時はあっという間。出口王仁三郎の「猫は屍解する、死体を残さない」という説を読んで長年見たり聞いたりしたが、交通事故などでは死体は残すが、死体を残さない屍解のケースもあるのだろうと思っている。いつのまにかいなくなったというケース。

 

キリスト者自身は輪廻転生せず、猫は物だというが、彼らはそういう世界観に生きている。

 

猫は人間の気持ちもわかって挨拶もするし、同情もしてくれるが、屍解もある生き物であると思う。また屍解するくらいであれば、天国とかは問題にしないのではないかと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする