アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

20 審判(永劫)

2024-06-03 04:40:34 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-13

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-13

◎過去も未来も現在も、現界も霊界も

 

20審判は、次の21世界なる神との一体化直前のステイタス。21世界は、七つの身体で言えば、第六身体であるアートマン。

 

最後の審判は、現界で起こるわけではなく、霊界で起こる。世の中のあらゆる物事は、まず先に霊界で発生して、その後現界で起こる。

※世の終わりの大筋は、何十年も前に霊界で起きており、ディテールの一部が決まっていないだけという見方はある。

 

さて個なる自分と世界全体が合一することを想像すると、世界の側にはあらゆる他人が居て、生きている人は勿論死んだ人もいる。そこで、最後の審判ではあらゆる死んだ者も生き返り、チャンスを与えられるという話になる。

カモワン・タロットの20審判の図柄の十字の旗は、過去も未来も現在も、現界も霊界も含む世界全体を示す。ダンテス・ダイジも冥想十字マップで十字を用い、出口王仁三郎も十曜の神紋という十字を使う。

最後の審判の実際の雰囲気は、霊界裁判所で閻魔大王を前に被告人として裁判が行われるというようなものではなく、各人が自ら進んで天国行きか地獄行きかを判断していくものであると、出口王仁三郎が以下のように説明している。

『キリストは、最後の審判を為す為めに再臨すると云つたが、彼の最後の審判と云ふのは、火洗礼を施す事の謂ひである。彼は火洗礼を施さんとして、其偉業が中途にして挫折したため、再び来つて火の洗礼を、完成せんと欲したのである。

 火洗礼とは、人間を霊的に救済する事であると云ふ事は、既に我弟子達の周知の事である。最後の審判は、閻魔大王が罪人を審くと同様なる形式に於て行はるると、考へて居る人が多いやうだが、それは違ふ。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものとの標準を示される事である。此標準を示されて後、各自はその自由意志によつて、自ら選んで天国に入り、或は自ら進んで地獄におつる、そは各自の意志想念の如何によるのである。』

(出口王仁三郎随筆集「水鏡」【霊界物語は最後の審判書なり】から引用)

 

出口王仁三郎は、この標準とは、大正時代に公開された霊界物語だから、最後の審判は、とっくにスタートしているのだと述べる。同様にバイブルに「又天国の、此福音を万民に、證せん為めに、普く天下に宣べ伝へられん。然る後末期いたるべし」とあることを示し、既に世に標準が示されたから最後の審判が来ることも聖書に出ているとする。

 

ノストラダムスのアンリ2世への手紙に『大惨害の時代の直前に、多くの見慣れぬ鳥が空中をさえずり、「今だ、今だ」と叫び、しばらくしていなくなる。』とある。

 

さてキリスト者にとって、最後の審判についてわかりやすいイメージと言えば、天国に至る梯子のイメージ。

1.ローマ時代の22歳の女性殉教者ペルペトゥアは、闘技場で牛の角で突かれた後に剣で命を落としたのだが、彼女の最初の幻視は、人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしごが天まで達しており、梯子の下には巨大な龍がいたというもの。

 

また、「アイオーン/CGユング/人文書院」の挿絵によれば、ローマのカタコンベの中のカルビナ墓所の壁画には、梯子を登る人(僧?)の絵があり、梯子の下には蛇がいる。

 

この2つの例をみると、龍ないし、蛇はムラダーラ・チャクラに鎮座するクンダリーニであって、梯子はその上昇ルートであるエネルギー・コードであることが容易に見て取れよう。

 

2.創世記第28章12節で、ヤコブが天の梯子を見た。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。 その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」

地上から梯子が伸びるのではなく、神の側から地に向かって梯子が伸びているというのが、いかにも自我未発達な時代の古代秘教的精神の特徴をうかがわせる。ヤコブは上から見ている。

 

3.エドワード・メートランドの神の幻視『私は最初、一つの体系の周辺部から中心点に向かって長い梯子を昇っているような感じをもったが、その体系というのは、私自身の、太陽系の、そして同時に宇宙の体系でもあった。

この三つの体系は異なっていながらしかも同一であった。・・・・やがて私は最後の努力をふりしぼった。

・・・・・私は私の意識が放射する光線を、望みどおりの焦点に合わせることができた。その瞬間、突然点火によってすべての光が一つに融合したかのように、すばらしい、形容しがたい輝きを帯びた白い光が私の前に立った。』

(黄金の華の秘密/ユングとウィルヘルム/人文書院から引用)

メートランドは、この後で白い光の正体を見ようと試みた。

 

世界全体を天国あるいは天と表現するのは、教義体系に添わせるためにはあり得ることである。また中国にも天に至る柱として、建木や扶桑がある。

 

この20審判は、まだ21世界には届いていないのだ。

 

ここで、自分が死ぬことはかまびすしく言われるが、自分のいた宇宙や世界も同時に死ぬということを忘れてはならない。一方で、世界と合一するということは、生きているあらゆる人々の実感およびこれまで死んだあらゆる人々の実感を体験するということなので、地獄の釜の蓋が開いて彼らにも最後のチャンスがあるのだということが言われる。

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