アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

22段の生の側の道、死の側の道

2024-06-06 04:53:49 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-16

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-16

◎前半は顕教的、後半は密教的

 

ユダヤのセフィロト(生命の木)は10球から成り、それを結ぶ22の線はパス(小径)と呼ばれている。ただしこれは、一つの球から8本パスが出たり4本パスが出たりということがあり、22人図としての一本道の悟りへの道の説明にはならない。

 

おそらくタロットの大アルカナを最初に作った人物は、セフィロトの22パスは意識せず、人が悟りへの道をたどる場合のモデルとして一気通貫のイメージで並べたのだと思う。

 

前半の1魔術師から10運命の輪までは、単に迷いの世界ということでなく顕教的な求道の道、すなわち生の世界から道を究めるということがイメージされている。9隠者一人は例外的に密教的だが、現代社会でも辺縁部にそうした人物は存在するものではある。

 

生の側を窮めると死の側を窮めることにもなるというのは、狭義では、キリスト教での観想法主体の求道の究極であり、只管打坐メディテーションの窮極である。

 

淮南子の原道訓に『生を出て死に入るとは無より有にゆき、有より無にゆき、そして衰賤す。この故に清静は徳の至りにして、柔弱は道の要なり』とある。

 

この文では、生と死の区別は問題にせず、生の世界・死の世界共通に流れている基底なる一なるものは清静であり、その性質をいうならば、柔弱であるということか。

これが生の側から死の側をも極めるのイメージ。

 

一方11力から0愚者までは、クンダリーニ・ヨーガ型、つまりユダヤ教的、キリスト教秘教的、西洋錬金術的な求道径路が示される。

11力では、全体の流れとして聖音オームのパワーがあって、12吊るされた男で自分が死(13死神)に、神仏を見るという体験が起こる。

 

この体験を定着安定化させる時期が14節制だが、自分のオープン度がフルオープンになったところで15悪魔が出現。それをクリヤすると16塔で神人合一のステップとなる。

以下は神に対して不退転となったレベルであって、17星で星を望見。18月、19太陽で最終的な両性具有を達成。20審判では、神への最終ストレートである梯子を登り始め、21世界で神人合一を達成する。

 

しかしそれで終わりではなく、言葉では表現できない主、神、ニルヴァーナを0愚者に置いている。

 

タロット・カードは今では絵柄も相当に自由になってしまっているが、神を半ば忘れた中有的なこの500年において、見る目のある人は、神に至る一本道として大アルカナ22枚を見ることを期待して作成されたものと思う。

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まるで一輪の野の花のように

2024-06-06 03:51:50 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-13

◎ニルヴァーナ-13

◎人生、輪廻転生、運命とニルヴァーナ-3

◎何もかもが 時間でない今を楽しんでいる

 

さらにダンテス・ダイジの老子狂言から。

 

『まるで一輪の野の花のように・・・

      

何が何だと言うのだ     

これはこれなんだ  

いいや、これはこれだという必要もない    

 

何もかも、何もかもいいんだ     

こんなことを言うのも愚かしい 

それ位、これはこれなんだ

      

生命はジグザグに進む  

絶対の到達点などありもしないからだ    

この静けさをわかってくれるだろうか?    

 

しかも、生命は流れる  

ニルバーナといったところで 

それもまたひとときのふるさとにすぎない

      

何もかもがすてきだ     

何もかもが  

時間でない今を楽しんでいる 

極限の極楽と     

極限の地獄とを戯れている     

 

私は何と無駄な言葉を書いているのだろう!   

とことん無駄だと知りながら・・・    

まるで      

一輪の野の花のように・・・  』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

この詩では、ニルバーナという体験とはいえない体験以前に、

『ニルバーナといったところで    

それもまたひとときのふるさとにすぎない』とか、

『何もかもがすてきだ  

何もかもが  

時間でない今を楽しんでいる』

と言うのは間違いである。

 

禅語録によく出てくるが、悟った者が御簾を巻き上げるのは正しく、未悟の者が御簾を巻き上げるのは正しくない。同様に坐禅中に悟った者が居眠りするのはよいが、未悟の者が居眠りするのはまずい。

こうした韻文は、よくよく字面の奥を考えねばならない。

 

一輪の野の花は深い。

『とことん無駄だと知りながら・・・

まるで      

一輪の野の花のように・・・  』とは、無用の用の謂いである。

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