アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

21 世界

2024-06-04 04:50:34 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-14

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-14

◎過去現在未来の万物のすべての実感を生きる

◎おれは神

 

既に12吊るされた男で見神、見仏を経て、15悪魔の誘惑も退け、16塔からは、善の側に不退転となった。生きる姿そのものが、善だけを行い悪を行わない姿(諸悪莫作衆善奉行)となった。

 

17星では、悟りの確証の体験として星を得て、18月、19太陽で、太陽と月の合体により完全無欠の両性具有を達成した。20審判では、個なる自分は、世界全体、宇宙全体、すなわち神に向かって最後の一歩を踏み出すが、まだそこには届かない。

 

21世界で届いたが、そこは七つの身体論で言えば第六身体アートマン。

神には、有の側と無の側があって、有の側がアートマン。アートマンは既に人間の側のものではない。現象全体をまとめたすべて一つながりの一なるもの。

アートマンとは本来の自分であり、本来の自己であり、本尊であり、聖杯であり、月であり、月輪であり、鏡である。そして、不死であり、永遠であり、腐敗しない、不壊であり、滅想定である。

アートマンは、物質と精神、時間や空間を含めた現象の側の全体としての呼称であり、シンボルとしては女性や太母や大地や牛や猪などが当てられる。

カモワン・タロットの図柄は、茅の輪くぐりのような宇宙卵。天上天下唯我独尊の彼女の腰布は両性具有を隠している。有の側だから四方守護の高級神霊が見えている。

 

人間は、悟りを求めて苦闘するのだが、神なしでは人間ドラマは起こらず。神だけでも人間ドラマは始まらない。

21世界とは、自分は個人間であって、かつ過去現在未来の宇宙の万人万物、生物無生物のすべてである実感に生きる。

 

その辺の感覚が現代語で端的にわかる詩がある。ダンテス・ダイジの詩2篇。

『【何と人間らしいことか】

 

人間を越えようとする

意味づけることのできぬ永劫の情熱

それがいつ人間性の極限をもつき破って

無時間の神秘を実在せしめたのかは

誰も知ることがない

 

死を初めから超えていた情熱が

すべてを忘れた炎となって燃える

一つぶの雨滴にもかじりついて号泣し

そしてまた泥沼の中に浸り切る

もう時間も現象も神秘さえもいらない

いのちが いのちの中に完結している完結をも忘れて

何と人間らしいことか

何と人間らしいことか 』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP13から引用)

 

さらに

『【おれは神】

 

おれは神

あらゆる人間達が片時も忘れず

おれを求め続け そして生きている

おれの眼の前の灰皿を

おれは

あらゆる政治や文化や思想よりも

何兆倍も魂をこめて

産み出した

おれの指の動きの一つ一つが

銀河系宇宙や

その他のあらゆる宇宙を

粉微塵にしては又こねあげる

でもそんなことより

おれはあの小学生の女の子の自殺を

もっともっと愛している

 

百姓のおおらかな生活に憧れた青年が

幾年もの作物づくりに疲れ果て

希望も生気も失なった中に

おれは限りない希望と生気となって実在する

 

おれは神だから

何ものにも頼ることがないなどと

変な意地をはって

パン屋からヌードスタジオへと

勤め変えをしながら

おれを愛し続けてくれた女房を

だいなしにして自殺させてしまった

そしておれは神だから

女房がどんなに神だったかを

死なれたあとに気がついて

おろおろするばかりだ

おれの胸には大きな風穴があいて

その風穴から

無限宇宙をいつでも眺めることができるのに

神なるおれは神が嫌いで

胸の風穴を

酒と薬とでうめようとする

 

おれは神

いまだかつて一度たりとも

面と向って正々堂々と

人間の顔を見たことがなく

すずめの鳴き声を聞いたことがなく

太陽も月も星も見たことがなく

アイスクリームを本当に食べたこともない

 

おれは神だから

冷汗をかきながらすべての人々と話し合い おれは神だから

終わりのない愛ですべての人々を包む

おれは神だから

 

酔っぱらいが大声で叫び

おれは神だから

あるいは高笑いあるいは泣きくずれ

道のどまんなかでヘドとクソをたれ流す

おれは神

欲望にかられて女のすべてを欲しがるもの 神を求めて求めてやまないもの

ヒマラヤの洞くつなんぞ

一軒のマージャン屋にも

価しないにもかかわらず

坐禅冥想のあらゆる終りを

洞くつの中で楽しみ続けるもの

おれは神

 

おれの女房が中絶した胎児を

神なる看護婦が

アルコールづけにしたビンを持ってきた時

あほうづらをして眺めることしかできぬもの

冷たい雪山の中でストーブのぬくもりを求め

砂漠の只中ではションベンをさえ飲むもの

おれは神だから

 

求道生活を馬鹿にしてあざけり笑い

おれは神だから

湖に映った月の影のように

何よりも求道生活に精進する

聖者という俗人が

迷いと悟りを分けたばかりに

悟り好きの求道者は

悟りに到る様々な道を

もの狂おしくたどり続ける

そのあげくにおれが神であるばかりに

悟りという迷いを開いて喜ぶ

 

おれは売春婦という神だから

あの十七才の少女のように

一日として男がいなくちゃいられない

一切万物の幸福好きもこまったものだ

これもあれもみんな神なるおれの責任だ

おれは神

 

一ぱいのお茶をやさしく友人に出す

釈迦やキリストやクリシュナや老子などと いう

ニセ者が出たばかりに

世も末だ

おまえは神だからおまえを生きろ

おれは神だからおれを生きる

ヒマを持て余したおれは

やれ文明の没落だの

やれ宗教だ哲学だなぞと言い張り

ヒマを持て余したおれは

神だ神だと言い張る

ヒマを持て余したおれは

のどかな田園風景や

輝く陽光と銀色の海を愛し

 

よせばいいのにあそこのキャバレーで

女の子を口説き出す

そして神なるおれは

ヒマを持て余しているから

よせばいいのに神そのものであり続ける

 

おまえにはおまえの惚れているものがあり

おれには、 おれの惚れているものがある

おれは人間として必死に

今死にゆく癌患者の手を握り

処世の達人なぞ遠い妄想にすぎない

今までにおまえは

一瞬でも本気になったことがあるか

ありはしまい

なにしろおまえは神なんだから

おれはいつもいつも正真正銘の本気だ

なぜならおれは神なんだから

 

おれは四六時中ウソばかりついている

神だからだ

おまえは四六時中真実でいる

おまえが神だからだ

おれは神

おれの孤独を何とかしてくれと

叫び続けるもの

おれは神

 

さびしさなんぞどこ吹く風

絶対なる幸福なんぞにひっかかるなよ

おれ達は神なんだから

絶対なるこの幸福を戯れよう

おれ達は神なんだから

おれは神

蜜よりも甘い甘えで甘えるもの

おれは神

一沫の甘えも弱さも持たぬもの

おれは神

弱くて軟弱なめめしい生きもの』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP25-33から引用)

 

人が神を生きる場合、他人もあなたも神である。彼が人間を生きる場合、みじめで情けない人間の弱さも知っていて、一沫の甘えも弱さも持たないが、同時にすべてを許す愛も持っている。さらには恒星惑星の運行も支配し、天候の操作などお手のもの。またヒマを持て余して悪さをする人のことも知っているし、あらゆる不幸に見舞われつつも真摯に生きたヨブのことも知っている。

有の側を生きるということはそういうことなのだろうと思う。

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古神道の天の柱

2024-06-04 04:39:13 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-16

◎世界樹-14

◎地球の中心火球の黄金柱

 

さし絵は、キリスト教のヨアンネス・クリマコス(579年-649年)の最後の審判の梯子。いまや天上に昇らんとする多くの篤信者をこれでもかこれでもかといわんばかりに引きずり下ろす一群の黒い者がいる。

 

これと似た雰囲気の天の梯子、いや天の柱が出口王仁三郎の霊界物語にある。

これは、地球の中心火球(中心太陽、宇宙意識、ニルヴァーナ、神、仏、道のこと)の吹き上がる金気の威徳をパワーとして国の御柱がある。その天辺が二つに分かれて、左が男神の渡る橋、右が女神の渡る橋となっている。

この橋は黄金の丸木橋であるとされるが、そのものずばりで、葦の茎の如き黄金のクンダリーニの表象である。日本では古来、人のことを神柱と美称するが、この黄金柱こそ国の柱であり、神柱であった。

よって、霊界物語のこの段は、出口王仁三郎版の「クンダリーニ上昇の秘儀」たるパートであるが、やはり世界樹の全体像がクンダリーニの世界展開であるという基本イメージに沿っている。

 

さて霊界物語第五巻の24章天の浮橋の段から引用。

『眼を開けば今度は最高点の黄金橋の上に引き揚げられてゐたのである。まづ安心とあたりを見れば、国姫神は莞爾として四五の従神とともに吾前に現れ、

 

『この橋は黄金の大橋といひ、また天の浮橋ともいひ、地球の中心火球より金気昇騰して顕国の玉となり、この玉の威徳によりて国の御柱は中空に高く延長し、その頂上は左右に分れ、左は男神の渡るべき橋にして、右は女神の渡る橋なり、この黄金橋は滑にして、少しの油断あらば滑りて再び地に顛落し、滅亡を招くの危険あり。

汝は抜身の中に立つごとく心を戒め、一足たりとも油断なく、眼を配り、耳を澄ませ、息を詰め、あらゆる心を配りてこの橋を東方に向つて渡れ。また此橋は東南西北に空中を旋回す、その旋回の度ごとに橋体震動し、橋上の神人は動もすれば跳飛ばさるる恐れあり、また時には暴風吹ききたつて橋上の神人を吹き落すことあり。

欄干もなく、足溜りもなく、橋とはいへど黄金の丸木橋、渡るに難し、渡らねば神の柱となることを得ず、実に難きは神柱たるものの勤めなり』

と言葉嚴かに云ひ渡された。

王仁は唯々諾々として其教訓を拝し、東方に向つて覚束なき足下にて、一歩々々跣足のまま歩を進めた。』

いつの間にかこの橋を渡りきった出口王仁三郎の身は、天教山(富士山)の山頂に、神々とともに停立していたのだが、天教山は頭頂(泥丸)サハスラーラ・チャクラのシンボルである。

男女に分かれた橋が統合されるのは、エドワード・メートランドの見たキリストの二重性、男女の統合と同義である。

ヨアンネス・クリマコス(579年-649年)の最後の審判の梯子と、この古神道の黄金橋では、バックグラウンドの描写こそ違うものの、シチュエイションは似たようなものである。アセンションの梯子または黄金橋にとりついたものの、不心得のある者は次々に滑落していく。

 

さて我々はふつつかなれど、神の柱となれるのだろうか。

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名状しがたい光明の体験

2024-06-04 03:20:49 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-11

◎ニルヴァーナ-11

◎人生、輪廻転生、運命とニルヴァーナ-1

◎リアリティーとは、永遠の対立であり久遠の統合である

 

『生きとし生けるものはすべて数えきれない回数、死しては生まれ変わってきている。彼らはこの名状しがたい光明を幾度となく体験しているにもかかわらず、無知の闇に妨げられて、無限の輪廻を果てしなく彷徨っている。』

(パドマサンバヴァ(仏教をチベットに伝えた人)(チベットの生と死の書/ソギャル・リンポチェ/講談社P427から引用))

※名状しがたい光明:ニルヴァーナあるいは母の光明、原初の光。

 

『霊界の中心太陽とは、 

創造の光の発出源にすぎない。 

個生命達は、 

顕界と霊界とに交互に転生しながら、 

果しない旅の途上のどこかで、 

中心太陽へ飲み込まれていく。 

リアリティーとは、対立の統合ではない。 

この考え方は、人間的知性の限界の表明にすぎない。 

リアリティーとは、 

永遠の対立であり 

久遠の統合である。 』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP98-99から引用)

 

人間は、もともと全知全能にしてあらゆる空間と時間と物質を統べる神なのだが、それに気がついていないだけ。

それに気がつくためには、神にして人間であるそれぞれの人間、意識の限界的状況を通過しなければならない。

意識の限界的状況とは、悟りあるいはニルヴァーナという、もはや体験とはいえない体験のことである。

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