アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

19 太陽

2024-06-02 06:33:04 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-12

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-12

◎月と合体して、真夜中の太陽を見る

 

月の次は太陽。この太陽は中心太陽のことでなく、月とペアで機能する太陽のこと。なぜならカモワン・タロットの絵柄において男女が契りを結んでいるからである。

古事記で言えば、月とは素盞嗚(スサノオ)神の瑞霊で、太陽とは天照皇太神の厳霊。この世界を席巻する近代西欧文明は、アポロン型文明であって闇は駄目で光一辺倒の太陽偏重の文明であって、(母なき)父なる神を主と仰ぐキリスト教がバックボーンにあり、これまた太陽を偏重し、母なる月の扱いは低い。黒い聖母像などはまま子扱いである。

これに対し、古神道は古事記において天の安の川原で、太陽たる天照大神と月たる素盞嗚尊が誓約し合い、その太陽と月の合体により完全無欠にして両性具有の伊都能売(いづのめ)神が生まれた。この点で古神道は、バランスの良さを見せている。

 

次に真夜中の太陽を見る話。

ろばになったルキウスは、真夜中の太陽を見て人間に戻ることができた(黄金のろば/アプレイウス)という逸話の他に中国道教の太乙金華宗旨にもそのシーンがある。

『三更 (午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。』は、修行者にとっての第二のステップ。OSHOバグワンの説明は、第一ステップで中庸に居ることに集中していると、肉体と心を同時に見ることができるようになり、それを見ている自分に気づく。見ている自分とは魂のこと。見ている自分で見守ることに専念していると、突然真夜中に太陽が上がり光輝くように、内も外も光で満たされ、全存在が燃え上がる。

 

昨今ハタ・ヨーガをやる人の中には太陽礼拝をやる人が多いが、月輪礼拝もやらないと片手落ちかもね。

 

中国にも世界樹、生命の木、哲学の木がある。建木である。これにも太陽が登場する。淮南子・地形訓の崑崙山の段、『建木は都広に在り、衆帝の自(よ)って上下する所。日中無景(影)にして呼(さけ)べども響きなし。蓋し天地の中なり。』

(世界樹は、大地の中央にあって、神々はここを昇降する。太陽の南中する時刻のように影を造ることなく、音もない。これぞ天地の中心である。)

 

これは、キリスト教にも霊界物語でも見かける天の梯子のイメージ。アセンションで通って行くところ。しかし、更に意味深長なのは、日中無影にして、呼(さけ)べども響きなしのところ。目に見える風景が動かず、かつ音がない世界。

これは、時間が止まった世界のことである。時間を止めるというのは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスが好んで使った表現。時間を止めるとは想念が停止すること。そこではじめて世界の中央となる。今流行の『今ここ』とは、本来このレベルを指すものと思われる。

 

世界樹は根と枝に別れる。人間に当てれば根が頭であり、枝の方が足となり、日常意識の立ち姿とは転倒している。これはタロットの吊るされた男のスタイルでもある。また、この死の世界に頭を突っ込むイメージは、死の世界が生の世界より広いことも表している。

 

また山海経の海外東経にも建木の別名の扶桑についての記述がある。これは、扶桑には10個の太陽が沐浴するところであり、9個の太陽は下の枝にあり、一個の太陽が上の枝にいる。10個の太陽は10チャクラ。上の枝の太陽はサハスラーラ・チャクラにあたり、別格であることを示す。

 

パタンジャリのヨーガ・スートラ3.32『頭の王冠の下の光についてサンヤマを行うことによって、すべての完璧な実在にコンタクトすることができるようになる』

3.33『そうでなければ、照明(Pratibha)によってもすべてのことを知ることができる』

『すべての完璧な実在』とは、第六身体アートマン。『サハスラーラで、サンヤマすれば、アートマン』とは、暗号みたいな表現だ。

ここでもOSHOバグワンは、太陽と月との関連を指摘している。彼は、pratibhaについて、まず、

『太陽は知性で、月は直感。あなたが両方を超越するとき、pratibhaが来る』とし、

『プラティバとは、エネルギーが知性と直感の二重性を超えた時を意味し、それは両方を超えている。直感は知性を超えているが、プラティバはその両方を超えている。

今やそこに論理的つながりはなく、すべてが永遠に明らかになり、全知、全能、遍在となる。過去、現在、未来のすべてが同時に明らかとなる。』

(出典”Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 8”から)

 

よく西洋の錬金術やチベット密教で太陽と月の並列シンボルを見たり、太陽男と月女の合体図を見たりするが、要するにプラティバのことなのだろう。

曼荼羅は両界そろってプラティバ(出口王仁三郎は、金剛界は男、胎蔵界は女と見る)。

 

二元性以外の太陽シンボルについては、いさかか霊がかり気味の話だが、以下のようなものもある。これはタロットとは無関係ではあるが・・・。

 

古い中国道教でも太陽南中時を多用するということがある。この時刻を「日中」と呼ぶ。

 

太陽南中時に服餌(薬草のたぐいを食す)したり、この時刻に神霊から経典を受け取ったり、高級神霊が降臨したり、薬物の採取も、呪符や、道具の製作も・・・・・。吉日の選定には丙午、庚午などの午日を選び、時刻には、太陽南中の直前か、太陽南中時を選ぶ。

 

この時刻には地上のものは、最も生き生きと活発に活動し、エネルギーが横溢しているだろうから。ことに大気中のプラーナは最も活性化している時間帯だろう。・・・・

 

さらに陶弘景の弟子の周子良のところに高級神霊である趙威伯が出現したのは、515年の夏至の日の、もう少しで太陽南中する刻限のことであった。このことがあってから、周子良は一人で部屋にひきこもり、毎日「日中(正午)」に一升の蜜餐をとるだけであったという。

 

また239年の正月一日の日中に、葛玄は、太上老君(老子)から千真科戒を伝授され、また244年8月15日の日中、仙人BGMが流れ、大勢の仙人たちのお迎えが壇に降下して待つ中、太上玉京太極左官仙公として、仙界に召された。

 

143年正月7日の日中に、五斗米道の開祖張道陵は、太上老君(老子)から二十四治(五斗米道の組織)を授けられた。

(参考:中国古道教史研究/京都大学人文科学研究所/吉川忠夫編)

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キリスト教の梯子

2024-06-02 06:24:22 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-14

◎世界樹-12

◎人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしご

 

キリスト教の世界では、梯子を昇って天上に至るビジョンがしばしば語られる。梯子は世界樹のデフォルメの一つである。まず天上へのビジョンを見てみよう。

 

1.ローマ時代の22歳の女性殉教者ペルペトゥアは、闘技場で牛の角で突かれた後に剣で命を落としたのだが、彼女の最初の幻視は、人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしごが天まで達しており、梯子の下には巨大な龍がいたというもの。

 

2.「アイオーン/CGユング/人文書院P327」の挿絵によれば、ローマのカタコンベの中のバルビナ墓所の壁画には、梯子を登る人(僧?)の絵があり、梯子の下には蛇がいる。

 

3.創世記第28章12節で、ヤコブが天の梯子を見た。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。 その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」

地上から梯子が伸びるのではなく、神の側から地に向かって梯子が伸びているというのが、いかにも自我未発達な時代の古代秘教的精神の特徴をうかがわせる。ヤコブは上から見ているのだ。

 

4.エドワード・メートランドの神の幻視『私は最初、一つの体系の周辺部から中心点に向かって長い梯子を昇っているような感じをもったが、その体系というのは、私自身の、太陽系の、そして同時に宇宙の体系でもあった。

この三つの体系は異なっていながらしかも同一であった。・・・・やがて私は最後の努力をふりしぼった。

・・・・・私は私の意識が放射する光線を、望みどおりの焦点に合わせることができた。その瞬間、突然点火によってすべての光が一つに融合したかのように、すばらしい、形容しがたい輝きを帯びた白い光が私の前に立った。』

(黄金の華の秘密/ユングとウィルヘルム/人文書院P61-62から引用)

 

メートランドは、この後で白い光の正体を見ようと試みた。

 

『その力は非常に強くて、私は突き倒されそうになった。・・・・・この光をこれ以上探求することは、無用であると感じはしたものの、私はもう一度たしかめてみることにした。

それはほとんど私を盲目にせんばかりだった輝きを貫き通して、その中に含まれているものを見たかったからである。

・・・大変な苦労の末、私はやっと成功した。私がそこにあるにちがいないと感じていたものが現れてきた。・・・・・それは御子[キリスト]の二重性であった。

・・・・隠れていたものが明らかになり、定義できないものが定義され、個別化できないものが、個別化されたのである。

主なる神はその二重性によって、神は実体であるとともに力[作用]であり、愛であるとともに意志であり、女性的であるとともに男性的であり、母とともに父であることを示していたのである。』

(上掲書P61から引用)

 

メートランドは、梯子の先にイエス・キリストを見た。キリスト教でいう空中携挙、つまり最近話題のアセンションの梯子の先には御子イエスがお待ちになっているわけである。二重性には言及できているが、私は神であったことに気がついたとまでは言えていないので、見ている自分を残しているのだろう。

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古神道のクンダリーニとニルヴァーナ

2024-06-02 03:54:07 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-9

◎ニルヴァーナ-9

◎宗派別のクンダリーニとニルヴァーナ-2

◎世界の構造は四段構え

 

ストレートに言えば、クンダリーニは霊線、玉の緒であって、ニルヴァーナは、天御中主神。神直日とは、アートマン。大直日は、コーザル体と思われる。

10チャクラは十種神宝と見る。(10チャクラ説を採用。ニルヴァーナのプロセスとテクニックP13)

 

※十種神宝

嬴都鏡(おきつかがみ)・・・《サハスラーラ・チャクラ》

辺都鏡(へつかがみ) ・・・《アジナー・チャクラ》

八握の剣(やつかのつるぎ)・・・《ヴィシュダ・チャクラ》

生玉(いくたま)・・・《アナハタ・チャクラ 》

死返玉(よみかへしのたま)・・・《マニピュラ・チャクラ》

足玉(たるたま) ・・・《スワジスターナ・チャクラ》

道返の玉(みちかへしのたま)・・・《 ムラダーラ・チャクラ》

蛇の比礼(おろちのひれ)・・・《太股のチャクラ》

蜂の比礼(はちのひれ)・・・《ふくら脛のチャクラ》

品物の比礼(くさぐさのもののひれ)・・・《足裏のチャクラ》

 

令集解で、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天より降ります時、天津神、瑞の宝十種、息津鏡一、辺津鏡一、八握剣一、生玉一、足玉一、死反玉一、道反玉一、蛇比礼一、蜂比礼一、品々物の比礼一を授けて教え導き、若し痛い所が有る者は此の十種の神宝を合せて一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と云って布留部由良由良と布留部。如此なしては死れる人も生き返りなむ矣とある。

すなわち人間は誕生に際して10チャクラが霊体に配されて誕生するわけだが、それを天下りと見て、饒速日命が降臨された際の十種神宝と示したというのはありそうなことである。

 

さて古神道の世界の構造は四段構えで、幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕。      この特徴は、どこまでが個人でどこまでが全体なのかわかりにくいということと、個と全体の逆転のインプレッションがとりにくいこと。

 

幽の幽は、天御中主神であり、ニルヴァーナであり、無のサイド。天御中主神と高皇産霊、神皇産霊の二霊を合一し、三神即一神を幽の幽と言う場合もある。

 

かたや幽の顕、顕の幽、顕の顕は有のサイドにして、第六身体と思われる。

幽の顕とは、イザナギ、イザナミの二神や天照大御神、素盞鳴神など、天上の霊界を主宰する神。真の神が変現し給いし神を幽の顕。

これは、個人が登場しないので、第六身体の永遠不壊のイデア界のイメージなのだろうと思う。

 

顕の幽とは、国祖国常立尊、豊雲野尊など、一度現世にその肉体を表現された神であって、地上の幽界を主宰する神。一旦人の肉体を保って霊界に入り給いし神。

 

顕の顕とは、人間のこと。

顕界に肉体を保ち、神の大道を伝え、また現界諸種の事業を司宰する人間。

(参照:霊界物語 第63巻第4章 山上訓)

さらに、顕の顕について。

『顕の顕       上は天皇より下巡査に至る迄、是は百八十一の階級の神様である。それで日本人は之を御上と言ふ。役人さんを御上と言ふ、是は所謂神の分類です。』

(大本史料集成 3 地裁公判速記録(出口王仁三郎)から引用)

 

以上を俯瞰してみると、何の力もない人間が全知全能の神になるなどという事は展望しにくいが、万人が玉の緒なる霊線が主神天御中主神に直結していることで、ぼんやりとわかる。

 

また古事記に最初に登場してくる次の七柱の神は、独神と言われる。独神は独存(カイヴァリヤ)のことだろう。

 第一に 天之御中主神 

 第二に 高皇産霊神     

 第三に 神皇産霊神     

 第四に 宇麻志阿斯訶備比古遅神    

 第五に 天之常立神     

 第六に 国之常立神     

 第七に 豊雲野神 

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