アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

人間のどうしようもなさ

2024-06-14 03:40:23 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-7

◎冥想自在-7

◎冥想自在の構造-7

◎醒めていて同時にもの狂おしい

 

仲村八鬼の温泉宿という詩に、人間のどうしようもなさを見る。

 

『温泉宿

             仲村八鬼

 

真珠の粉をまき散らす

深夜の雨が

廂や木の葉をたたいて

秋の霊魂をひしひしと浄めはじめた

 

主観を客観におきかえて精緻に抽出した

明快な村野四郎の現代名詩鑑賞に

時を忘れていた

 

誰にも書けない煮えたぎる

ぼくだけの詩を書きに来たのだが、

書けないから寝られないのだ

 

食事の時からまつわりついていた

大きな蛾は.

襟首にまで飛び込んだので放置できない

 

妊婦のような動作なのだが

手におえない素早さもある

これはどうしても寝る前に殺さねばならぬ

 

手洗いに立つと

赤い絨毯を踏んで階段を下りてくる

男女に出会った

 

よろける肩を組んで浴場の方向に消えた

女の顔には見覚えがあった

夕刻、フロントで偶然会った芸者の一人だ

四人いた中で一番美しいひとだった

 

部屋に帰るとこんどは真剣に蛾を追いつめた

襖にとまったところを叩き落として殺した

蛾は仰むけになり、僅かに足を痙攣させ

繊毛のある白い腹をむきだして終息した

こぼれた鱗粉が死骸のまわりで鈍く光った

 

客をよそおって泊った芸者は

男とともに風呂からあがった時刻だ

 

芸者はいい匂いがするのをぼくは知っている

汚れて錆臭い処があることも知っている

そこを洗って、

素性の知れない団体客の一人に

またどう汚されるのであろうか

 

そしてさっきぼくが殺した蛾のように

しどけなく夜の泥土にねむるのであろう 』

(性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)

 

この詩に寄せて、ダンテス・ダイジは、人間のどうしようもなさが、ニルヴァーナに至る道程を一直線に見せている。

『私たちが人間の眼でこの宇宙のすべてを見る時、

夢幻虚仮でないものは一つもなく、

あらゆる生々転変する夢幻虚仮が.

無数の人間ドラマを織りなす。』

(上掲書から引用)

 

さらに、

『前出の詩人、仲村八鬼には、

人間である限り、味わわねばならぬ人間のどうしようも なさへの詩がある。

彼の『温泉宿』には人間の人生が歌われていて

一人の芸者の姿を通じて、男というものと女というものとの

醒めていて同時にもの狂おしい思いが漂っている

 

人間にはどのような確かなものも与えられていない。

人間はこの世の旅人にすぎない。

異性の肢体への欲情は常に虚無に裏打ちされている。

欲情が一場の夢にすぎぬことを、

人は誰でも知っている。

知っていながら欲情・執着は時にし烈に、時に密かに 人々の内部に頭をもたげる。

 

だが、人間のありのままの姿は、すいも甘いもかみわけた わけ知り顔の冷徹な人間理解のみにあるのではない。

人間には欲望が欲望を見切ってしまう瞬間がある。

確かに欲望が人間と世界のすべてを仮作した。

しかしその仮作・根本無明をそれ自体として あらしめている根源は、宇宙意識であり、人間は だから、絶対なる愛そのものでもある。

虚無は欲望の結論であり、人間を越えた

人間への出発点である』

(上掲書から引用)

※宇宙意識:ニルヴァーナのこと。

 

ここで、なぜニルヴァーナが絶対なる愛かということは、論理的にはわからない。

 

いくら願っても実現しないのがわかるのが不条理、それが虚無。そして虚無だとわかっていても欲情が吹き上がるのが人間のどうしようもなさ。

虚無は、この現実という世界認識や価値観が崩されかけたところに現れる。どうしようもない寄る辺ない自分を深刻に自覚せられた時に、そこに得体のしれぬ恐怖がわき起こる。

恐怖に堪え切れずあくまで崩れかけた世界に頼り続けるか、恐怖と向き合って新たな自由への突破口を求めるか。ニルヴァーナは後者の道である。

 

さて、ネットのエロ画像氾濫が当たり前になったこの時代。中学生以上ならややもすれば頭の中のかなりの部分が劣情で占められている、恐るべきマインド・コントロール社会。これは、端的な愛欲地獄、エロ地獄である。

想念は霊界(無意識)であり、人間が想念で思ったことはまず霊界において実現し、やがて現実として現れる。想念で事物を実現したりコントロールするということは、現実をもコントロールできるということである。

つまりこの世が地獄的であるというのは、地獄的な想念を持った人間が多数棲息しているということであり、一方地上天国が実現するということは、天国的な想念をもつ人間が多数活動しているということである。愛欲地獄やエロ地獄など地獄的想念人間が優勢であるかぎり、アセンション(空中携挙)もない。地獄的想念人間とは、社会常識をわきまえた自分のことではないと思っている人がほとんどだが、厳しい意味では悟っていない人すべてが地獄的想念をまき散らしていることに間違いはない。すなわち自分が悟らなければ地獄が終わらないという状況に変わりはない。

善行をしない引き寄せの法則とは、地獄の法則なのだろう。

 

さる信者が教派神道の教祖出口王仁三郎に地獄の様子を訊いた。

『F:地獄のほうは、そんな職業はないのでしょうか。

出口王仁三郎:それはない。生産的のことはない。争議団を興して他人のものを分配して食おうというようなことを考えてばかりいるのだ。』 

(出口王仁三郎全集二/あいぜん出版から引用)

 

でも思い出してほしい。ついこの間までの戦争と飢餓の時代には自我防衛の戦いと肉体維持が優先で、セックスはほとんど食欲と同列に扱われていたことを。

今、平和と安定した食料供給の下、皮肉にもセックスはいつの間にか脳内で最大最優先を占めるようになってしまった人が多い。そしてその劣情はほとんど実現を見ないので虚無に変貌する。いまや、成就しない性的欲望は、痴漢や盗撮の頻発にとどまらず、蓄積して巨大化した不満を他国侵略戦争にまで誘導するのは歴史上の常套手段である。

肥大化した性欲は、集合的無意識レベルで見れば、核兵器と同様に充分に地球人類全体を破滅させるに足る規模に達し得る。これが黙示録21-4の『悲しみも、叫びも、痛みも』である。

その破裂寸前のエネルギーをガス抜きするには、いまや日々の冥想しかなくなった。

 

虚無に正面から取り組んで、大悟覚醒後に醒めていて同時にもの狂おしいのも冥想自在である。

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