アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

我と神の真の合体

2024-06-01 07:02:59 | 真剣から無駄へ-世界の戯れneo

◎OSHOバグワンの逍遥訣解説-8

(2022-07-16)

 

逍遥訣の呂洞賓の解説の続き。

『この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて離れなくなり、尽きることのない生命が発現する。それはおのずと根元の気 (エネルギー) の宮のなかを去来し、浮き沈みをくり返す。人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。

 

それはあちこちを軽やかに去来し、覚知しえぬほど静かに浮沈する。脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。これが真の創造的な交合の瞬間であり、「月が無数の水面を吸引する」と呼ばれる状態である。

 

この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。これが一陽来復であり、新しい生命が 兆すときである。』

(黄金の華の秘密/和尚/メルクマールP413から引用)

 

この二つの実体とは、上昇していく純陽(自分)ともともと上にあった乾陽。OSHOバグワンのコメントでは、あなたがひとつになっていると神があなたに引き寄せられていくとする。これぞ第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性。二つが接近遭遇する。やがてそれらが合体すると尽きることのない生命、光輝く無限なるものを見る。これを呂洞賓は、「雲が千山に満ちる」と表現する。

 

続く段階で、いよいよ呼吸が停止し心拍が停止する。するとこれが真の合体であり、「月が無数の水面を吸引する」(月満水を涵(ひた)すなり)と描写される。

 

呼吸停止、脈拍停止していると、ここに突然天心が動き出す。これが一陽来復であり、復活であり、再誕・再生である。この部分は、呂洞賓の方が“ニルヴァーナのプロセスとテクニック”より詳説している。このポイントの後、人は天からのエネルギーのシャワーを受け復活する。

 

それ以後の彼は、内に常に神が居て、彼はそこになく、中空の竹に過ぎず、神だけがいる。

 

太乙金華宗旨原文では、この後に6節ほどの更なる解説がついているが、OSHOバグワンは訳出していない。注目点としては上昇のタイミングであって、天心が動いていないのに自分が上昇するのは、若くてダメ。天心が動いた後に自分が上昇するのでは、タイミングを失している。天心が動いたら真意をもって乾宮(サハスラーラ)に上昇するのがよい、と。

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18 月

2024-06-01 04:43:47 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-11

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-11

◎水底の世界にも月の光の救済は行われる

カモワン・タロットの18 月の図柄では、天の露が降っているので、既に不退転の善の側に居て、大吉祥。

 

月と言えば、自らの号を瑞月と称していた出口王仁三郎の説明が詳しい。出口王仁三郎は、教団本部内に破壊されることのないように石で” 月宮殿” を建立したが、二度にわたって官憲により徹底的に破壊された。月宮殿とは、弥勒さまを祭る宮だが、みろくの世(地上天国)にならなければ、月宮殿もさびれる一方で、今はむじなやイタチが住み家にするほど寂しく荒れ放題。

『人間の運命にも栄枯盛衰がある。潮にも満干がある。此宮さまは今は干潮時ぢや。それだからかう見窄らしく荒廃して居るのだ。之でも五六七の世に成れば、此お宮は金光燦然として闇を照し、高天原の霊国にある月宮殿の様になるのだが、何程結構な弥勒さまのお宮でも時を得ざればこんなものだ。信真の徳の失せたる世の中の姿が遺憾なく此お宮に写されてあるのだ。嗚呼如何にせんやだ』(霊界物語第21巻第3章月休殿から引用)

 

そして出口王仁三郎の太陽と月の位置づけは、

厳霊とは至厳至貴至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対無始無終に坐ます神であって、霊界では“太陽”。

瑞霊とは現界、幽界、神界の三方面に出没して一切万有に永遠の生命を与へ歓喜悦楽を下し給う神であって、霊界では“月”。

『高天原の総統神即ち大主宰神は大国常立尊である。又の御名は天之御中主大神と称へ奉り、其霊徳の完全に発揮し給ふ御状態を称して天照皇大神と称へ奉るのである。そして此大神様は厳霊と申し奉る。厳と云ふ意義は至厳至貴至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対無始無終に坐ます神の意義である。さうして愛と信との源泉と現れます至聖至高の御神格である。さうして或時には瑞霊と現はれ現界、幽界、神界の三方面に出没して一切万有に永遠の生命を与へ歓喜悦楽を下し給ふ神様である。瑞と云ふ意義は水々しと云ふ事であつて至善至美至愛至真に坐まし且円満具足の大光明と云ふ事になる。

 

又霊力体の三大元に関聯して守護し給ふ故に三の御魂と称へ奉り、或は現界、幽界(地獄界)、神界の三界を守り給ふが故に三の御魂とも称へ奉るのである。要するに神は宇宙に只一柱坐ますのみなれども、其御神格の情動によつて万神と化現し給ふものである。さうして厳霊は経の御霊と申し上げ神格の本体とならせ給ひ、瑞霊は実地の活動力に在しまして御神格の目的即ち用を為し給ふべく現はれ給うたのである。故に言霊学上之を豊国主尊と申し奉り又神素盞嗚尊とも称へ奉るのである。さうして厳霊は高天原の太陽と現はれ給ひ、瑞霊は高天原の月と現はれ給ふ。故にミロクの大神を月の大神と申上ぐるのである。ミロクと云ふ意味は至仁至愛の意である。』(霊界物語 第48巻12章 西王母から引用)

※高天原は天国の下にある霊国の一部。

 

西洋錬金術の逃げるアタランタでは、太陽と月の関係は、エンブレムXXXで『太陽は月を必要とする。雄鶏が雌鶏を必要とするように』と謳われ、続く寸鉄詩では、『太陽よ、わたしの援けなしにあなたは何もなし得ない。

雌鶏なしには雄鶏も無用なように。

わたし、月もあなたの援けを乞う。

雌鶏が大きな鳴声で雄鶏を呼ぶように。

自然本性が結びつけようとするものを、どうして 引き離すことができるなどと考え得るだろう。』

(逃げるアタランタ/M・マイアー/八坂書房P271から引用)

これでは、漠然としすぎている。

 

道教の呂洞賓は、いよいよ呼吸が停止し心拍が停止する。するとこれが真の合体であり、「月が無数の水面を吸引する」(月満水を涵(ひた)すなり)と描写する。これも水面上の月の大秘儀。

 

カモワン・タロットの18 月の図柄では、二本の塔が立ち、奥に更に至聖所があることが想定される。霊界物語でも月宮殿のある月照山とは別に至聖所が存在している。

 

また二匹の犬が月に向かって吠えている。これは、出口王仁三郎が、月=ミロクに関して以下のように述べているが、犬(のような人)がいくら月に向かって吠えてもミロクをわかるまいと言っているように思う。

『ミロクと云ふ意味は至仁至愛の意である。さうして其仁愛と信真によつて、宇宙の改造に直接当らせ給ふ故に、弥勒と漢字に書いて弥々革(あらた)むる力とあるのを見ても、此神の御神業の如何なるかを知る事を得らるるのである。善悪不二、正邪一如と云ふ如きも、自然界の法則を基礎としては到底其真相は分るものでない。善悪不二、正邪一如の言葉は自然界の人間が云ふべき資格はない、只神の大慈大悲の御目より見給ひて仰せられる言葉であつて、神は善悪正邪の区別に依つて其大愛に厚き薄きの区別なき意味を善悪不二、正邪一如と仰せらるるのである。』(霊界物語第48巻12章 西王母から引用)

 

図柄の最後の謎は、水中の甲殻類。これはかねて出口王仁三郎が竜宮について繰り返し述べている理由と同じだと思う。つまり竜宮に住む竜神は動物であって、元々は人間より下であったが、時代が進んで人間の方がどんどん落ちていき、人間によっては竜神より下になるような人間が出てきたこと指す。水底の世界にも月の光の救済は行われるのだ。

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中国の天への階段

2024-06-01 04:31:37 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-13

◎世界樹-11

◎崑崙山

 

エスカレーターといえば、アセンションを幻視した人たちの天の梯子が有名だが、ここは、まず中国の天への階段。

中国の天への階段=天梯は、2種あり、ひとつは世界樹である建木、もうひとつは崑崙山である。建木は既に紹介したので、崑崙山。

 

崑崙山に宮居があり、崑崙山は黄帝の地上の帝都である。崑崙山の山頂は天に達し、山麓は弱水の深淵があり、外縁は火山に囲まれ常に噴火が発生している。

このように崑崙山には登るどころか、近づくのも難しい。

古籍には、天梯を自由に昇降できるのは、神人、仙人、巫女の三種に限るとされる。

また天梯とされる山には、他に華山、青水の東の肇山があり、仙人柏高はこの山から昇天し、また西方の荒野に登葆山があり、巫師たちがそこから上下往来したという。

 

さて、黄帝が天帝になる前に、兄弟である炎帝(人身牛首)と阪泉の野で戦い、炎帝を破り南方に追いやった。炎帝の末裔の蚩尤(しゆう)は、炎帝の仇討ちの戦いを黄帝に挑んだ。これが涿鹿(たくろく)の戦いである。黄帝は、蚩尤をとりこにして殺し、天帝となった。

この一件を教訓として、黄帝の曾孫の顓頊(せんぎょく)は、上帝になると、天地を結ぶ天梯を塞いで行き来が出来ないようにした。

 

こうしてみると、天梯を登ることはアセンションであって、それは古代からあったもので、決してブランニューな新顔のイベントではない。

顓頊が天梯を塞いだのは、超能力バトルの時代の終焉であり、アトランティスの最期のことか。

 

炎帝の人身牛首はミノタウロスだが、馬身人首のケンタウロスの逆バージョン。そういうバイオな操作を盛んにやっていた時代があるのだろう。旧事本紀みたいに。

 

そして昭和十年の第二次大本事件前夜、出口王仁三郎は、ご神体を道者笹目秀和に託し、中国崑崙山への返還を依頼した。笹目秀和は鶴仙に乗り、見事それを成し遂げた。崑崙山の地政学的重要性は、古代中国人に理解されていただけでなく、現代日本人にもきちんと理解されていたわけだ。

 

世界樹というシンボルは、グローバルというよりもトランス・コスモスであるが、その表現様式を世界に採るか宇宙に採るかというだけの差であるように思う。

また崑崙山を天への階段というが、天とはすなわちニルヴァーナ・神・仏・禅でいうところの無・道教の道を指すと見るのが自然であろう。

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キリスト教のクンダリーニとニルヴァーナ

2024-06-01 04:05:25 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-8

◎ニルヴァーナ-8

◎宗派別のクンダリーニとニルヴァーナ-1

◎七つの中枢を通って人の子は神に向かって上昇

 

平たく言えば、聖霊がクンダリーニであって、父なる神がニルヴァーナ。

まず黙示録の著者のヨハネは、十二使徒の漁師のヨハネで、イエスが十字架に架けられた際に、使徒の中でただひとり十字架の傍らにいた人物。

 

ババジの弟子であるユクテスワは、聖書のヨハネの黙示録の第1~2章で次のように説く。

 

”七つの金の燭台または七つの教会”は七チャクラ。

”右手に七つの星を持ち”については、七つの星は、聖霊の御使い、”右手”は神に至る正しい道筋ということなので、クンダリーニのエネルギー・コード上のチャクラ。

”七つの金の燭台の真ん中を歩く者”とは、クンダリーニのエネルギー・コード。

『これら七つの中枢を通って人の子(自我意識)は神に向かって上昇してゆくのである。』

(聖なる科学―真理の科学的解説/ユクテスワP84から引用 )

”人の子(自我意識)”がクンダリーニのエネルギー・コードである。

 

ユクテスワは、神との合一、カイヴァリヤすなわちニルヴァーナは、ヨハネの黙示録3-22『勝利を得る者には、わたしとともにわたしの座につかせよう-ちょうど、わたしが勝利を得て、わたしの父とともにそのみ座についたのと同様に』に示されているとする。

 

旧約聖書創世記冒頭は、

『 はじめに、神は天と地を造られた。 地はむなしく何もなかった。やみは深淵の上にあり、神の霊は水の上をおおい動いていた。神が、「光あれ」と言われると、光があった。』

という具合であって、『有』が天地創造に始まることから、ニルヴァーナに当たるものは『神』である。

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