アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

0 愚者(無番号)

2024-06-05 04:55:31 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-15

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-15

◎神、仏、タオには2つの顔がある

 

21世界は第六身体であって、終着点の第七身体ニルヴァーナではない。そこで0 愚者がニルヴァーナとなる。

人間から見れば、21世界も0 愚者も神仏に相違ない。

 

いわゆる神、仏、タオには2つの顔があり、有の側と無の側である。どちらが奥かと言えば、無の側である。有の側はアートマンであるのに対し、無の側はニルヴァーナである。古代インドなら、アートマン、ニルヴァーナだが、古神道では、有の側が天照大御神と素盞嗚神の事であり、無の側が、天御中主神。出口王仁三郎はニルヴァーナである天御中主神の特性を無形、無声。無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊と評す。いわゆる大神とは、無の側の方である。

 

キリスト教の旧約聖書では、天地を創造する以前の神が無の側であり、最初の天地は有の側である。禅の十牛図では、有の側は我であり牛であり、無の側は一円相。このように伝統ある世界宗教には、大概神について、有の側の呼び名と無の側の呼び名があるものだ。

 

ニルヴァーナは、七つの身体でいえば、第七身体であるが、アートマン同様に個別性はなく、人間の側のものでもない。

 

何より言葉で表現できないものであるので、暗喩たるシンボルで指し示すことしかできない。それは禅の十牛図第八図の一円相だったり、大日如来だったりする。また仮に名をつけて、仏教では涅槃であり、禅では無、老子では道、古神道では天御中主神、キリスト教では神、インドではニルヴァーナなどとして、呼び名は異なる。

 

愚者は、トリック・スターである。あるいは、老いたる赤子。図柄では、会陰を犬に刺激されているので、会陰のムラダーラ・チャクラから上昇するクンダリーニを意識させる。

 

トリックスターの特徴は、人間にとって深刻な結果を招くいたずらをすること、世界全体を窮地に陥れる悪意のない嘘をつくことなど。

トリックスターと言われる者は、ギリシア神話のヘルメスであり、北欧神話のロキであり、日本の素戔嗚尊(スサノオノミコト)であり、イエスを裏切ったユダなど。

 

最初は浅智恵からくる悪行に見えるが、その結果は世界全体の悪弊、因習を根底から破壊して、結果として全く新たな新秩序をもたらしていく。

 

この地獄的世界が至福千年に変換していくプロセスを後になって順を追って見てみれば、何人かの悪意なき偉大なトリックスターの行動を検出することができるだろう。

 

あの絶対平和のみろくの世を標榜する出口王仁三郎が、昭和神聖会を組織し白馬に乗って軍事教練みたいなことをやったり、強弓を引いたり。ヘルメスは、人類の未来へのパイロット(水先案内人)にして、人類の帰趨を決めるいたずらを行うトリックスターであるが、クリシュナと現れ、ダンテス・ダイジと現れ、インドの大聖ババジのように人類が危険な時期に差し掛かると先行して登場する。

 

素戔嗚尊は、八岐大蛇に酒を飲ませてへべれけにして討ち取るという品のないやり方をしている。

 

ユダが銀貨30枚でイエスの居場所を教えたのは冗談では済まなかったが、それなくしてキリスト教の栄光の2千年はなかったし、北欧神話のロキが盲目のヘズにヤドリギの矢で、最高にハンサムなバルドルを殺させなければ、世の終りであるラグナロークはスタートしなかった。

 

その一手は小さいが、人類にとって偉大な一手であったことを知るのは、事が成就してからだろう。その毒は小さく見えるが癒しは大きい。

 

そして、なぜ愚者か。次の出口王仁三郎の歌の世界観を正気と見れば、この現代社会で通念とされている法規制、メリット・デメリットなどは、非常識どころか、狂気・妄想のようなものだからである。クンダリーニ・ヨーガ系の西洋錬金術、密教、道教、古神道などの世界観は、一定の深度に達すると非公開になっていたり、難易度の高い暗号文書みたいになっていたりする。

 

耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず

 

耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳

(出口王仁三郎)

 

愚者は、第七身体、ニルヴァーナに相当する。だから無番号である。

 

ニルヴァーナの「何もかもなし」の側面について、ここでは聖書と釈迦と一休を挙げる。

 

『今から後、主の中に死ぬ死人はさいわいである』(ヨハネの黙示録14:13)

主の中に死ねば何もかもなし。

 

『わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである』(ヨハネによる福音書16:28)

生まれる前も死んだ後もなにもかもなし。

 

釈迦は、感興の言葉(ウダーナヴァルガ)の第二十六章安らぎ(ニルヴァーナ)で何もかもなしを敷衍する。

『二三

それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

 

二四

そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたしはよく知っている。

 

二五

来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。―――それが苦しみの終滅であると説かれる。

 

二六

水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

 

二七

そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

 

二八

さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

 

二九

これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり没することなき解脱の境地である。』

(ブッダの真理のことば・感興のことば/岩波文庫P243-244から引用)

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