かつてのひまな野球人の記

野球が好きだった医者が書きたいことを書き散らすブログ。今は保健センター教員をしつつ神経内科医と研究者もやっています。

くい止めきれなかった流れ~東医体一回戦

2006年08月02日 23時59分16秒 | 野球
いよいよ東医体本番を迎えた。キャプテンとして臨む最初で最後の東医体である。昨夏の東医体終了後にキャプテンになってから、最終的な目標は全てこの日に勝つことであったと言ってもいいくらいである。
今年は第3試合で開始が14時30分と遅かったため、比較的余裕を持って行動することができた。相手は秋田大学で、2年前にもぶつかりそのときは敗北を喫している。そういうわけで、2年前の雪辱も期したのだが、結果は7-13で敗戦。またしても初戦敗退となってしまった。
すべては2回の守備にあった。この回に失った9点は最後まで響いてしまったからである。いいわけになってしまうが、2回に登板することになるというのは想定していないことであった。もちろん、これはまずそうだと思ったときから作るペースを速めていたから、準備が足りなかったとはいわない。第一、そんなことを言っているようでは信頼にこたえることなどできはしない。ただ、やはりコントロールを気にするあまりに全身が使えていなかったことは確かだと思う。2回の失点をもっと少なくくい止めていれば、そのあとの追い上げによるプレッシャーも全く違ったことだろう。
それ以降、常にコールドゲームすれすれの戦いを強いられてしまった。しかし、ずるずるといったのではなく、7回に3点取らなければゲームセットという状況にまで追い込まれても3点をあげることができた。これは大きな成長であろう。このときの追い上げムードは素晴らしかった。全員で1つの目標に向かうことができた。その集中の具合はこの1年の中でも最高だったと思う。そして、そんな中で野球ができるのがうれしかった。
さて、私はしばらくマウンドにいて3回と4回はなんとか抑えて反撃ムードを高めるのに貢献することができた。しかし、味方が2点を取ってさあ反撃開始という5回にその得点を帳消しにしてしまった。打たれた瞬間に「しまった」と思ったが、もうどうしようもない。なんとか失速してくれと思う私の目にはいるのはレフトスタンドに飛び込む白球であった。ツーランホームラン。しばらく私はダイヤモンドの中央、マウンドの周囲をうろうろ動くしかできなかった。なんとか動揺を抑えてそれ以上の点を与えないようにしなければならなかったからである。もう1点入れば即試合終了である。とにかく、思い切り投げようと心に決めた。しかし、残念ながらストライクになってはくれなかった。フォアボールを出したところでマウンドを降りた。
あとはベンチを引っ張り、盛り上げることでなんとかチームの士気を高揚させようとした。3点をとって、残る攻撃は8回と9回だけだったが、追いつける気がした。6点という差がそこまで大きいものとは思えなかった。
9回の最後の攻撃。ランナーがたまり、勝負の局面を迎えた。バッターに全てを託した。結局点をとることはできなかったが、最後、ボールがショートのグラブに収まるまでは不思議と万事休すとは思わなかった。
試合は終わった。整列して一礼して、円陣で最後のエールをかけた。グラウンド整備中に少し泣きそうになったが、そこはこらえた。ふと天を仰いだら、一年前にも同じことをしたことを思い出した。同じ気持ちだったかどうかはわからないが、何とも言いようのない、言葉に言い表せないものが渦巻いていた。
最後のミーティングでは、感情を出すまいと歯を食いしばった。なんとなく、泣きたくなかった。こみ上げてくるものがなかったとは言わない。何も感じなかったわけではない。最後に自分が発言する番になったとき、思いの丈を全部ぶちまけるには至らなかった。言葉にできない想いがあったのである。ミーティングの最後に「ありがとうございました」と言うことができた。いろいろ言おうと思ったが、最後にはそれしか出てこなかった。でもそれで十分。心の底からの一言だったのだから。
胴上げをしてもらった。これで本当に終わりなんだと思った。そう思うと何となく寂しくなった。だが、同時にホッとした。1年前は最後まで務めきれるか不安でたまらなかった。この1年間、投げ出したくなることもあったが歯を食いしばり、ひたすら不満も押し殺して、とにかく責任を全うしようとしてきた。結果の点は不満が残るが、何とか務めあげることができた。
こうして、私のキャプテン生活は幕を閉じたのである。