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 イタリアを国として「イタリア(Italia)」と呼べるようになったのは、長いイタリアの歴史から見るとごく最近のことです。1861年に「トリノ(Torino、1865年にフィレンツェに遷る)」を首都として、現在の「イタリア共和国(Repubblica Italiana)」のほぼ全土(ヴェネト州は1866年に、教皇領は1870年に併合)を領域とした「イタリア王国(Regno d'Italia)」が成立したのです。

 150年前の3月17日、イタリア議会において、「サルデーニャ王国(Regno di Sardegna)」の王、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II)」がイタリア王国の成立を宣言したことから、今年(2011年)はイタリアの各地で、式典や関連イベントが開催されています。

 イタリア王国が「ローマ(Roma)」を占領し首都と定め、教皇領が完全に消滅した1870年(普仏戦争に敗北したフランスが、守護していたローマ教皇領から撤退)から遡ること700年以上前の1182年(異説あり。1181年とするものがある)、「アッシジ(Assisi)」の町に、後にフランシスコ会を創設したカトリック修道士「フランチェスコ(Francesco d'Assisi)」となる「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)」が誕生します。

 織物商人を家業としていた裕福なベルナルドーネ家に男の子が生まれます。母親ピカ(Pica)は「ジョヴァンニ(Giovanni、ヨハネ)」という名でこの男の子に洗礼を受けますが、取引のために、特にフランスによく赴いていた父親ピエトロ(Pietro)は誕生した男の子を「フランチェスコ(Francesco、フランソワ)」と呼びました。父親がそう呼んだため、周辺もそれに倣ったといいます(異説あり)。

 1152年に神聖ローマ皇帝となった「フリードリヒ1世(Friedrich I. Barbarossa、赤髭王)」は、「コムネ(comune)」と呼ばれる都市国家に分裂しているイタリアにしばしば進駐し影響力を行使しようとします。コムネは神聖ローマ皇帝やローマ教皇からある程度の独立を得ており、多くは防衛のために町を城壁で囲んでいました。支配を強化しようとする神聖ローマ皇帝やローマ教皇との間で対立・抗争を繰り広げた時代にフランチェスコは生まれたのです。

 神聖ローマ帝国(Sacro Romano Impero、962年~1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部などを領土としていた国家です。800年12月25日のミサで、ローマ教皇レオ3世(Papa Leone III)は、現在のフランス・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・イタリア北部などを領土としていた「フランク王国(Regno dei Franchi)」の国王「カール大帝(Carlo Magno)」に、「ローマ皇帝」として帝冠を授けます。

 このフランク王国は843年、西フランク王国(→フランス)、中フランク王国(855年再分割)、東フランク王国(→ドイツ)の3つに分割されます。962年2月2日、ローマ教皇ヨハネス12世(Johannes XII)は、東フランク王国の国王「オットー1世(Otto I)」に、「ローマ皇帝」として帝冠を授けます。世界史の一般的な学説は、この時をもって神聖ローマ帝国の誕生としています。

 フランチェスコが青年期を迎える頃、アッシジの町の貴族層(Boni homines)は神聖ローマ帝国と結びつき、勃興する商人層を中心とする市民層(homines populi)はローマ教皇側につき、両者のあいだで抗争が続いていました。フリードリヒ1世によってアッシジの統治者に任命されたスポレート公「ウルスリンゲンのコッラード(Corrado di Urslingen、Conrad of Urslingen)」と貴族層は、抗争に破れ、アッシジから追い出されます。アッシジは市民層が権力を掌握し、コムネを宣言することになります。

 

 時代を行ったり来たりしたので、話に収拾がつかなくなりました。アッシジの町の一番高いところの丘の上に立つ「ロッカ・マッジョーレ」の映像をお見せして、ロッカ・マッジョーレの話題は仕切りなおしにさせて下さい。

               (この項 健人のパパ)

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