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新五輪考

2022年02月21日 | 社会派らぼ
何かと物議をかもすことの多かった北京五輪が閉幕しました。各国のトップアスリート達が全身全霊で(←このフレーズはこういう時に使うものだと改めて思います)勝負に挑み、結果僅かな勇者にメダルが授与されました。かと言って、メダルに届かなかった選手たちが下を向く必要は何一つなく、全ての人の勇気と努力と頑張りに、心からの敬意を表したい気持ちです。

が、その一方で問題の多かった大会であった事も間違いではありません。開催国である中国の人権侵害に対する各国の抗議は結局はうやむやに終わりましたし、ドーピングに国を挙げて加担していると見なされ、参加資格のないはずのロシアがROC(ロシア・オリンピック委員会)と名乗り、選手は個人資格で出場しているものの、プーチン大統領が開会式に招待され出席しました。挙句に女子フィギュアスケート金メダル候補であったワリエワは、禁止薬物が検出され、出場を許可されたものの4位に沈みました。スキージャンプの混合団体でビッグジャンプを披露した高梨沙羅選手は抜き打ちで行われた検査でスーツの規定違反が指摘され失格となりました。同時にドイツやオーストリアなど4か国から失格者が出た状況は異常というより他ない状況です。

高梨選手は真っ黒画像をInstagramに投稿し「申し訳ありませんでした」と謝罪文をあげました。真っ黒のInstagramでいうなら2010年バンクーバー五輪のフィギュア金メダリストキム・ヨナさんも「ドーピングに違反した競技者は、参加できない。すべての選手の努力と夢は、等しく尊い」と暗黒画像に添えています。ロシアのウクライナ侵攻への懸念は今も続いており、世界平和の象徴ともされるオリンピックが決して歯止めとして大きな力を持たない事をまざまざと象徴しているようにも見えます。膨大な費用が使われ、国の威信のためには1個人の思いなど踏みにじられることをまざまざと見せられるこのショーは一体何なのだろうと思わざるを得なくなります。とおの昔に、オリンピックの精神はただの隠れ蓑になり果てているかに見えてしまいます。コロナ禍で無理をしてまで開催する必要があるのか…疑問がかすめます。

一方で「止める」事は一瞬でできるかもしれないけれど、再び「始める」事が簡単ではないのも事実で、「続ける」事に唯一の意義があるとも考えられます。それなら現行のやり方を一新できないものでしょうか。富める国が開催するという今の考え方を180度変えて、開催する力のない国で開催する…。道路の整備費用、施設の建設費用、運営費用などは、富める国が負担する。つまりスポンサー国と開催国とを分ける考え方で、重要なことはスポンサー国には何の見返りもないという事。唯一、世界の賞賛と感謝を得て、国家の品位を保つということ。

何も国旗が自動でするする上がらなくてもいい。小学校の運動会のように誰かが手で引っ張って優勝国の国旗を掲揚すればいい。コンマ何秒まで測らなくてもいい。一番にゴールテープに身体が触れた者が優勝という原点に戻ればいい。それでも4年に1度世界中が集うことに意義がある…と考え直すことができないものでしょうか。いわゆる発展途上国は、オリンピックを開催することで、巨大なスポーツ施設を建設してもらえる、道路やホテルなどの環境も整えてもらえるとなれば、手を上げる国も多くあるのではないでしょうか。

快適な環境で練習をしている国の選手は、整備の行き届かない会場で、実力が発揮できないかもしれません。そうした逆境も含めて。世界で「一番早い者」「一番高く跳べる者」「一番強い者」を競うような原点回帰はただのおとぎ話でしょうか。

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