2019年、札幌市で安倍晋三元首相が参院選の演説中、「安倍やめろ」などとヤジを飛ばした男女が、北海道警の警察官によって移動させられました。2人は「表現の自由」を侵害された…として、道を訴え、このほど札幌地裁は二人の訴えを認めて損害賠償の支払いを命じる判決を出しました。道側は、判決内容を精査し、対応を検討するとしています。民主主義社会において、政治への表現の自由は保証されるべきだとして、判決を歓迎する声が多いようです。多分、そうとしか結論は出せないのかも知れませんが、なんとなくどこか消化不良を起こしているような感触が否めません。
「ヤジ」というものが、正当な表現行為だとするところに、違和感があります。「ヤジは議場の華」と称せられると言います。国会討論や質問中に発せられるヤジは、国会の名物であって楽しむべきものだとする考え方がそこにはあるのだと思いますが、他人が話している最中に、その話の腰を折るような無遠慮な発言は、表現の自由だとか正当な権利だとかいう前に、礼を欠く行為であると、指摘する人は皆無なのでしょうか。
表現の自由は損なわれてはならないと思います。どんな考え方であれ、人がそのように考え、その考えを表現することは、何一つ悪い事では無いと思います。但しその表現は、相手に礼を欠かないようにして、堂々と論戦を張るべきではないでしょうか。話している途中に、粗野な言葉を投げ出すのではなく、礼をわきまえた表現であるべきだと、日頃から思っています。
ヤジを飛ばす人は、演者の考え方は根本的に間違っており、言っている事は論外、理は自分にある、自分の考えの方が正しいと思っているのでしょうけれど、世の中で「正しい」事ほど危険な事は無いと思ってしまいます。ウクライナに侵攻しているロシアは正義の戦いだと信じているはずです(前線に立つ兵士は知りませんが、プーチン氏はそう考えているはずです)。ロシアという国は強く大きくなければいけなくて、ウクライナはその傘下にあるべき土地で、これはウクライナを開放する正義の戦いだと思っているはずです。北朝鮮がミサイルを飛ばすのも、北朝鮮こそが大きく強くあるべき国で、自国こそが正しいのだという論理がそこにはあります。価値観が異なれば、正しい事も異なってくるのです。
正しい事だからと、相手の発言中に割って入り、間違っていると叫ぶことを、正しい表現行為だと認めることには抵抗があります。ただ、この北海道の男女こそが違法行為なのだと結論づければ、放置されている国会や全国の議会での怒号・ヤジ全てが違法行為となり、それらが取り締まられずに黙認されていることを思えば、札幌市での演説の最中だけ取り締まることはどうしてもできません。
世界全体が戦争になだれ込んでいきそうな危うさをヒシヒシと感じながら、人は本能だけに従って生きるべきではないし、それを権利だと主張すべきではないと、そんな風に感じています。自由や権利を振り回す以前に、人はそれぞれが、「人として自らはどうあれば良いのか」志を高く掲げるべきです。ゲームの世界では魔物が「悪」で、戦って徹底的にやっつけることに何の躊躇もありません。それは、戦って相手を屈服させ、自らを大きく強くしていくことが、人間の本能だからなのでしょう。人は、本能のままに生きてはいけないのだと、ひそかに思っています。
裁判云々ではなく、別の視点が必要です。正しいと信じる事であればこそ、どうすれば正しく伝えられるかが模索されるべきです。
「ヤジ」というものが、正当な表現行為だとするところに、違和感があります。「ヤジは議場の華」と称せられると言います。国会討論や質問中に発せられるヤジは、国会の名物であって楽しむべきものだとする考え方がそこにはあるのだと思いますが、他人が話している最中に、その話の腰を折るような無遠慮な発言は、表現の自由だとか正当な権利だとかいう前に、礼を欠く行為であると、指摘する人は皆無なのでしょうか。
表現の自由は損なわれてはならないと思います。どんな考え方であれ、人がそのように考え、その考えを表現することは、何一つ悪い事では無いと思います。但しその表現は、相手に礼を欠かないようにして、堂々と論戦を張るべきではないでしょうか。話している途中に、粗野な言葉を投げ出すのではなく、礼をわきまえた表現であるべきだと、日頃から思っています。
ヤジを飛ばす人は、演者の考え方は根本的に間違っており、言っている事は論外、理は自分にある、自分の考えの方が正しいと思っているのでしょうけれど、世の中で「正しい」事ほど危険な事は無いと思ってしまいます。ウクライナに侵攻しているロシアは正義の戦いだと信じているはずです(前線に立つ兵士は知りませんが、プーチン氏はそう考えているはずです)。ロシアという国は強く大きくなければいけなくて、ウクライナはその傘下にあるべき土地で、これはウクライナを開放する正義の戦いだと思っているはずです。北朝鮮がミサイルを飛ばすのも、北朝鮮こそが大きく強くあるべき国で、自国こそが正しいのだという論理がそこにはあります。価値観が異なれば、正しい事も異なってくるのです。
正しい事だからと、相手の発言中に割って入り、間違っていると叫ぶことを、正しい表現行為だと認めることには抵抗があります。ただ、この北海道の男女こそが違法行為なのだと結論づければ、放置されている国会や全国の議会での怒号・ヤジ全てが違法行為となり、それらが取り締まられずに黙認されていることを思えば、札幌市での演説の最中だけ取り締まることはどうしてもできません。
世界全体が戦争になだれ込んでいきそうな危うさをヒシヒシと感じながら、人は本能だけに従って生きるべきではないし、それを権利だと主張すべきではないと、そんな風に感じています。自由や権利を振り回す以前に、人はそれぞれが、「人として自らはどうあれば良いのか」志を高く掲げるべきです。ゲームの世界では魔物が「悪」で、戦って徹底的にやっつけることに何の躊躇もありません。それは、戦って相手を屈服させ、自らを大きく強くしていくことが、人間の本能だからなのでしょう。人は、本能のままに生きてはいけないのだと、ひそかに思っています。
裁判云々ではなく、別の視点が必要です。正しいと信じる事であればこそ、どうすれば正しく伝えられるかが模索されるべきです。
伝えるって、正しく(より良い方法で相手に伝わるように)伝えるって…本当に難しいと思うこの頃です。
自分が正しいと思って、必死に伝えようとして伝わらないもどかしさを強く感じることが、しばしばあります。伝わらなさに、めげそうになることも毎回です。
本能のままに生きてはいけませんよ!という声を大切に持っていたいものです。
>正しいと信じる事であればこそ、どうすれば正しく伝えられるか
自分自身で、問い続けなければならない課題です。
今回も、心にしみるテーマをありがとうございました!
最後は「伝えたい」と切に念じる気持ちが大切なのかしら。
「伝えよう」とすることを放棄し、力で組み伏していく世界がに戻りませんように。