映画の感想をざっくばらんに、パラパラ読めるよう綴っています。最近は映画だけでなく音楽などなど、心に印象に残ったことも。
パラパラ映画手帖
No1211『郊遊〈ピクニック〉』~あまりに長い長回し…ただ立っている…ということ。~

14分だそうだ。驚くべき長回し。しかもその間、キャメラは全く動かないし、どうしてそこに彼らがいるかも謎のまま。
私は『愛情萬歳』(1994年)を、公開当時に観て、
ヤン・クイメイが延々と歩いていくシーンに
わけもなく、すごく涙が流れ、
以来、ツァイ・ミンリャン監督は大好きで、
追いかけてきた。
今回、この作品で引退するとのことで、
なんとか観ておきたいと
祝日のレイトショーに駆け付けた。
空中庭園ビルのシネリーブルは、
私のような、ツァイ・ミンリャン監督好きの
映画好きな人が集まり、20人強いただろうか。
それでも、あの最後の長回しは、
あまりに長く、
途中、後ろの方で、吐息が一つ、二つ聞こえた。
さすがに帰る人はいなかったけれど。
男(リー・カンション)と女(チェン・シャンチー)が、
前後して立っている。
女は、何かを見ているかのように、目を見はったまま。
男は、女の少しうしろに立ち、
バストより上めのショットで、
キャメラは、延々と写し続ける。
ミンリャン監督は、たいがい長回しが多いが、
これは、長かった。
「根くらべ」のように思えた。
客席で、疲れから、すやすやと寝ていた方が
むしろ幸せなんじゃないかと思うほど。
苦痛ではない。
けど、苦痛に近い。
女の頬を涙がつたったような気がしたり、
涙も渇き、少しだけ、伏せ目加減になったり、
また、じっと見ている顔になり、
まばたきしたり…。でも、ほとんど動かない。
男は、すぐ後ろで、小瓶のウィスキーを飲んだりしながら
ただ、立っている。
二人とも、じっと立っているだけ。
2回ほど、特急列車かが、窓の外を走っていくのが見えるくらいで、
窓の外も、何も動かない。
ただ、車が走る騒音が、遠くから聞こえている。
彼らがどうしてそこにいて、そこがどこなのか全くわからない。
男が、やっと女に近づき、肩に頭を寄せる。
キャメラは、今度は、二人の背後に移り、
ロングショットになり、
がらんとした部屋を俯瞰気味にとらえる。
キャメラは、やっぱり今度も長回し。
でも、この長回しの方が、私はおもしろかった。
女は、やがて、男を振り払うようにして、
奥の、扉らしきところから、コツコツ歩いて去って行き、
男は一人、取り残されて、立ち尽くしたまま。
男の吐息が聞こえる。
ウィスキーを飲みほし、ビンを放って、
男も同じ方へ去ってゆく。
がらんとした部屋。
車の音が聞こえる。
床には、窓から入る光が白い影をつくっている。
少し神秘的で、宇宙のようにもみえるなあと思いながら、
誰もいない画面をじっと観ていると、
車の音が、だんだんと絞られて、小さくなって
静寂が訪れる。
この無音になる瞬間は、
つま先まで力が入るような緊張感があって、
どきどきした。
延々たる長回しに耐えたおかげかなと思った。
ある意味、この部屋の空間は、
死のような、お墓のようにも思えた。
監督は、「物語から離れる」こと、
「映画とは『映像』と『時間』です」と
語っている。
あの長回しでは、「無為な時間」を考えたと。
そういえば、冒頭も、子どもたちの寝息で始まった。
音楽は全くなし。
やたら雨が多く、最後に雨は止む。
観客は、どんな空間に連れていかれるのやら、
思い返せば、スリリングではあった気がする。
「現代の台北。父と、幼い息子と娘。
水道も電気もない空き家にマットレスを敷いて三人で眠る。
父は、不動産広告の看板を掲げて路上に立ち続ける「人間立て看板」で、
わずかな金を稼ぐ。
子供たちは試食を目当てにスーパーマーケットの食品売り場をうろつく。
父には耐えきれぬ貧しい暮らしも、
子供たちには、まるで郊外に遊ぶピクニックのようだ。
だが、どしゃ降りの雨の夜、父はある決意をする……。」
と一応、ストーリー解説があるが、
後半になるにつれ、場面は、解体され、意味がなくなり、
イメージだけが残る。
崩れかけ、ただれた家の壁。
「家も病気になる」「涙を流したあと」と、
母らしき女が娘に言う。
女も3人現れるから、誰が本当の母親なのか。
女性的イメージと、とらえればいいのだろうけれど。
そういう意味で、
こうして思い返してみれば、
イメージが、いろいろと、広がってくる。
終わってみれば、おもしろくも思えてくるけれど、
でも、正直に告白すれば、
私には、ちょっとあの長回しは長かったです。
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