噛みつき評論 ブログ版

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民主主義信仰

2008-11-20 07:36:12 | Weblog
 前回、社会科学の不完全性という観点から市場原理主義に触れました。今回は同じ観点から民主主義について考えたいと思います。

 但木敬一前検事総長は裁判員制度について次のように発言しています。 「(裁判官と裁判員の協働)作業の結果、得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決であると・・・」(論座07/10月号)

 「至当な判決」と断じる裏には、国民が参加して決定することはすべて正しいという考えがあると思われます。その国民とはくじ引きで偶然選ばれる6名です。6名の素人が参加する判決がどうして至当と言えるのか私には理解できません。

 司法制度改革の目的は司法に民主主義を実現することとされました。しかし、なぜ司法に民主主義が必要なのかという点には十分な説得力のある説明はなかったようです。民主主義は疑問の余地のない理想であって、司法にも導入することが当然とされていたように思います。

 民主主義の理念は優れたものに見えますが、現実に適用される民主主義制度は数多くの欠点を抱え、他の制度に対する比較優位があるに過ぎません。「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」というチャーチルの言葉は消去法によるやむを得ない選択を意味します。

 民主主義では、多くの決定は多数決によるので、少数の意見は否定されます。そして多数意見が正しいという根拠は明確ではありません。またヒットラーは民主的なワイマール体制から生まれ、わが国でも横山ノック知事のような前代未聞の人物も民主的な選挙によって選ばれました。少々レベルが違いますが。

 民主主義の理想を謳った名文には魅力的なものがありますが、「信仰」の対象ではありません。民主主義は欠陥を多く含むものであり、その有効性と適用範囲を理解することが必要です。民主主義を水戸黄門の印籠にすべきではないと思います。

 前検事総長の見識は司法制度改革審議会の意見書の趣旨と一致しており、審議会では民主主義が印籠の役割を果たした観があります(少なくとも建前としては)。民主主義を至高のものと考え、実現の努力をする方々はそれを正義と心得てのことでしょう。しかし 山本夏彦氏は述べています。「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす」と。

 司法にまで国民主権を実現する必要があるというのなら、第四の権力であるマスメディアの編集部にも国民を参加させる、あるいは編集部員を公選制にすべきであるという考えも成立するのではないでしょうか。

 市場原理主義も民主主義も理念を表すのに便利な言葉ですが、詳細が理解されないままスローガンとして社会に蔓延すると、限界や適用範囲が考慮されず、社会に悪影響を与えることに注意したいと思います。 民主主義や人権主義などは反対を封じる効果的な印籠であり、建設的な議論を抑えるのにしばしば用いられます。