噛みつき評論 ブログ版

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二項対立の愚かしさ

2021-11-21 22:34:47 | マスメディア
 立憲民主党など左派野党は、これからは是々非々でいくと公言しているようである。是々非々とはよいことは認め、悪いことは否定する、と言った意味だがこれは当たり前のことである。それをわざわざ今後の姿勢として表明しなければならないのは、いままでその当たり前のことができていなかった事実を物語る。つまり「なんでも反対党」と揶揄されたように、よいことも悪いことも反対、つまり物事の可否を考える前にまず反対してきた長年の実績がある。これには思考能力つまり頭が要らないという利点もある。

 彼らの狙いのひとつは与党との対立を作ることであったと思われる。対立構造そのものが世間の注意を引き、党の存在感を高める効果があると考えたのだろう。小説や映画でもその中に対立構造を組み入れることはほぼ必須のことと言っていい。読者・鑑賞者はどちらが勝つか負けるかとハラハラしながら興味をかき立てられる。極端な例はスポーツで、勝敗が興味の中心であり、対立構造は不可欠となる。コンクールや様々なランキングも同様である。対立は娯楽でもある。

 スポーツや小説・映画の類での対立にたいした害はない。しかし政治の左右対立などは有害である。例えば経済政策において積極財政派と緊縮財政派は長年対立している。積極財政派は国債をどんどん発行し成長を促すというもので、財政規律には寛容である。逆に緊縮財政派は成長より財政の健全化を重視する。経済成長と財政の健全性はトレードオフの関係と言える部分があり、最適点を求めることこそが重要である。両者の主張する両極端の考え方は非現実的で、両者の主張の中間に最適点がある。国際の発行額で言えばこの程度の発行額までなら信用不安やインフレを起こさない、と示すことが有用で、それこそが経済学者に求められる。しかし現実の議論は両極端の論争ばかりで、あまり意味がない。議論の対立を楽しんでいるようにも見える。そして永遠に議論を続けていれば飯が食えるのである。優れた学説が出現して議論が収束することを誰も望まない。

 政治に於いては左右の対立が長年続いてきた。共産主義は一見、実に魅力的に見えることも事実で、多くの若者を魅了してきた。しかし社会システムとして現実的ではなく、情報統制などを含む強力な支配がなければ成立しないことが明らかになった。にもかかわらず、その影響を受けた左派勢力は現在も野党やメディアに広く存在する。彼らとの政治的な対立構造はかなりの害を生み出した。例えば無意味な政治的対立のために国会の機能の多くが浪費されてきた。しかし対立は彼らの糧でもある。いささか迷惑であるが。

 我々の心には平穏を望む気持ちと同時に対立を望む気持ちがあるようだ。どちらが優勢になるかは状況によるのだろう。また、平和主義の人がいる一方、すぐにカッカして喧嘩をしたがる人がいるように生来の性格にも関係するのかもしれない。

 対立は、当初は純粋な考えの相違であったかもしれないが、やがて感情的な対立に進むことが多い。そうなると議論の正しさの追求より、対立相手を屈服させようという動機が大きくなってくる。この段階になると両者の中間にあるはずの最適点を見つけるといった努力は忘れられ、対立だけに焦点があてられる。かくして学会や国会で効率の悪い議論が延々と続くことになる。時間の浪費であると同時に娯楽でもある。

説明不能?コロナ激減

2021-10-31 14:24:04 | マスメディア
 最近の新型コロナ感染者数の激減は予想を超えたものであった。週ごとに半数になるほどの急激な減少で、喜ぶべきことだが、数多(あまた)の学者先生方は誰も予想していなかったばかりか、もっともらしい「後講釈」すら聞こえてこない。大変お困りのようである。

 強力なデルタ株によって1日あたりの感染者数が40万人にもなったインドでは現在の感染者数はピーク時の4%となっている。アジア・中東の他の国々、トルコ、イラン、タイ、マレーシアでもピーク時の23%~44%となっていずれも減少傾向にある。反面、欧州では増加傾向が目立つ(REUTERS COVID-19 TRACKER)

 一方、7月20日の「ヒンドゥスタン・タイムズ」などの報道によると、「未接種者のうち、抗体を保有していた人は62.3%を占め、1次接種者は81%、2次接種者は89.8%が抗体を保有していた。全体では67.6%で、インド人の3人に2人が抗体を持っていた。これは1月の調査時の24.1%の3倍近い」とされている(7/23 hankyoreh)。

 また「インドの首都ニューデリーで、新型コロナウイルスの抗体保有率が97%にのぼったことが、地元政府の調査でわかった。今年4〜5月にはインド全土で1日に40万人以上の感染者を出したが、その後激減した。集団免疫に近い状態を獲得した可能性がある。
 調査は首都で9〜10月、2万8千人を対象に実施した。1月の前回の調査では約56%だったが、急激に増えた。ワクチン接種を終えていない人でも90%が抗体を保有していることがわかった」とされる(10/30朝日新聞デジタル)。

 インドの例から推測できるのは感染者の急激な減少は抗体保有者、つまり免疫保有者の急激な増加によるものであるということである。しかもその抗体はワクチンによるものよりも感染拡大により自然に獲得されたものが多いという事実に注目したい。

 欧州では増加傾向が続くなど、未解明な部分も多く、軽々には言えないが、少なくとも自然免疫が重要な役割を演じていると仮定すれば、日本でも抗体の保有率を大規模で調査する意味は大きい。現在第5波を心配してその対策が講じられようとしているが、すでに集団免疫が獲得されているならばその心配は杞憂となるかもしれないのである。

 過去、感染は第4波までピークと減少の谷間を繰り返してきた。減少の理由を政策的な感染機会の抑制という点と、第5波ではそれに加えてワクチンの普及だけに求めるのは何かしら無理があるように感じる。集団免疫がどの程度の役割を果たしているのか、今後の研究に待たなければならないが、場合によっては3回目のワクチンの必要性にも関わってくるだけに重要な問題であろう。現状の正確な認識が何より必要である。

朝三暮四、有権者は猿なみの扱い?

2021-10-18 20:49:36 | マスメディア
 昨年の11月、兵庫県丹波市の市長選挙で「全市民に5万円給付」を掲げた林時彦氏が当選した。しかし市の予算の半分ほども使うこの案は議会で否決され、結局支給対象を限定した上で2万円の商品券支給に決まった。

 バラマキ選挙の典型で、現市長は市の税金で票を買ったようなものである。かつては私財をバラまいて、票を買うようなことが行われてきたが、これは税金だけに余計に質が悪い。税金はいずれ納税という形で返さなくてはならない。まさに「朝三暮四」である。昔、宋の狙公が猿を飼っていたが、その猿たちにとちの実を朝三つ晩四つ与えると言ったら猿たちは怒ったが、朝四つ晩三つにすると言ったら喜んだという故事に由来する。先渡しの餌に釣られたのでる。

 つまり有権者は猿と同じレベルだと見られているのである。実際、この市長は当選したのだから、その見方は誤りだとは言えない。今回の衆院選でも各党のバラマキ戦略が盛んである。バラマキの原資は何かというとほぼ赤字国債である。赤字国債は将来税金によって返済されなければならない。どこにも「ただのメシはない」のである(no free lunch)。

 ここに怪しい学説が登場する。国債の購入者の多くは国内の投資家だから、破綻は起きないとか、国のバランスシートには負債とほぼ同額の資産があるから健全であるとか…。まあ、ひとつの側面だけみればそういう議論にもなるのだろうが、そういう主張をされる人でもさすがに赤字国債を無限に拡大してもよいとまでは言わない。つまりどこかに限界点がある筈であるが、それについては決して言及しない。予測できないからだろう。また国が破綻することはないにしても、いつかの時点で円の信用低下、金利の急上昇は起き得る。

 基本に立ち返れば、国民が経済的に豊かになるためにはモノの生産・サービスの拡大が必須条件になる(海外から購入できるが一時的である)。それには生産性を向上することが必要になる。お金をバラまいても生産・サービスが増えなければ貨幣価値が下落するだけである。つまりインフレである。

 緩やかなインフレによって、例えば現在2%の物価上昇を目標にしているように、消費意欲をかきたて経済成長を促すという考えがある。日本はこの30年ほど財政支出を身の程以上に増やして来た。その結果、何が起きたかというと先進国中最悪の財政赤字と、同じく先進国中最低の経済成長率である。つまり(先進国中)世界一の積極財政をした国が世界最低の成長率を達成したということである。明らかな失敗であるが、何故か反省の機運はない。

 リフレ派(積極財政派)も緊縮財政派も両極端の議論が中心で、どこが最適点かという議論が見られない。さらに経済学者は無数にいるにもかかわらず、日本の財政悪化と成長の低さを解明し、政策に反映されているようには見えない。そうして30年が過ぎた。無為の弁解に30年は長すぎる。この責任は政府にも、そしてモリカケや桜を見る会などに注目してきたメディア、野党にもある。現に与野党ともバラマキに熱心だが、これを批判するメディアは見られない。財務省の矢野康治事務次官の「日本の政策はバラマキ合戦になっている」との発言には、何故かメディアには批判が目立つ。世論調査によれば肯定意見の方が多いのに、である。メディアは国民多数よりアホなのかもしれない。

 なぜ日本だけが30年もの間、巨額の財政赤字を出しながら低い経済成長に甘んじてきたのか、それを考えるいい機会である。メディアや有権者が「バラマキ合戦」を認めるようなら日本はさらに沈むであろう。

表現の自由の副作用

2021-09-19 23:04:39 | マスメディア
 新型コロナワクチンの接種者数は多くの国で国民の60%程度で頭打ちになるという現象がみられる。つまり新型コロナワクチンに反対の人が相当数いらっしゃるようだ。40%程度の人が反対、あるいは忌避している現状はどう説明できるのだろうか。アストラゼネカ製のワクチンが若年者に対して極まれに血栓を生じさせるということ以外、一般の新聞やテレビでワクチンが深刻な副反応を起こすことは伝えていない。恐らくネットで広まったものと思われる。

 体が磁石になる、ワクチンの中に情報を盗み出す微小な機器が入っているなどの荒唐無稽な話は中学生でも簡単に見破ることができるが、子供ができなくなるといった話は証明されてないだけに否定することは難しい。しかし将来、ガンや認知症になるのではなくなぜ子供ができなくなるのかという説明はされない。あてずっぽうだからであろう。

 流言は智者に止(とど)まる、という諺(ことわざ)がある。流言(デマ)は人から人へ、つまり愚者から愚者へと広がっていくが、智者に出会ってはじめて止まるという意味である。昔もデマや流言があったことをこの諺は示している。しかし昔は流言は口コミによっていたが、現代はネットであり、拡散能力とスピードは桁違いである。SNSなどで広がるわけだが、影響力のある有名人がその流言を肯定したりするとその影響は絶大となる。医学に無知な作家がワクチンに反対の姿勢を公にしたりすると接種率の低下に影響する。有名な歌手や作曲家が憲法改正に反対すると政党の支持率に影響を与えるのと同じである。

 問題は彼らがことの真偽を十分理解しないままに意思表示をすることにある。影響力が大きいので普通の人の流言(デマ)とは別に考えるべきである。社会に及ぼす害も大きい。そのことを考慮すれば流言(デマ)を流すことに慎重であっていただきたい。軽率であり、かつ無責任である。表現の自由は憲法で保障されているが、このような副作用のあることも事実である。

 似た話だが近藤誠医師がガンについての本を次々と出し、一部はベストセラーになった。簡単に言うとガンには本当のガンと偽のガン(彼はこれをガンもどきと呼ぶ)とがあり、本当のガンは治らない。治ったガンはガンもどきであっただけのことである、という。そしてガンとガンもどきは区別ができないのだという。このことからガンになっても治療の必要がない。本物なら治療しても必ず死ぬし、ガンもどきなら治療の必要がない、という極論を述べる。実例はひとりしか知らないが、彼の本を信じて、治療をせずに命を落とした人は少なくないと思う。成人版の有害図書があれば是非とも指定してもらいたい。

 たいていのことには副作用がある。表現の自由に守られるこの流言(デマ)は命まで奪う。影響力のない人が何を言っても支障はないが、影響力のある人が流言(デマ)を発すると、ワクチン接種を妨げ新型コロナの蔓延を助長したりして有害である。けれどこれは「自由」なのである。

 健康食品などに誇大と思われる表現があると、消費者庁はその根拠について質問するようである。それに的確に答えられなかったら、その表現を使えないようにされるらしい。これと同様に、流言(デマ)を流す有名人には公的な機関がその根拠について質問し、的確な答えがなければ、その回答などを発表するようにすれば、無責任な発言も少しは減るだろうと思う。信教の自由も重要なことだが、それがオウムの温床になり、イスラム過激派を育てたことも事実である。自由権は重要だが何にも優先するというほどではない。

帰国希望者を見殺し、アフガン自衛隊

2021-08-29 22:28:48 | マスメディア
 アフガニスタンがタリバンに占領され、カブールの空港では国外へ避難する人たちの大混乱が起きている。すべてを捨て身ひとつで避難を求める人々の気持ちはいかばかりか。まさにこの世の地獄である。そこに自爆テロが起き、100人以上が死亡した。自爆したテロリストは天国に行けると信じて一瞬で「玉砕」するとされる。捕まえて罰することもできない。イスラム教の恐ろしさである。

 米国は大規模な避難作戦を実施し、まだ継続中であるが、英、仏、独、加、伊、韓国など主要国は既に数千人規模の避難計画を終了したと伝えられている。これに対してわが日本は大型の自衛隊輸送機を3機派遣したものの、救出できたのは日本人1人とアフガン人十数人だけという。救出作戦が他国よりずっと遅れた結果であろう。ワクチン接種がOECD37ヵ国中37番目だったことと同じである。

 自衛隊は安全が確保されている場所にしか行けないとされ、行動は空港内に限られていたそうである。空港外の危険地域にいる避難希望者を尻目に戻ってきたのであろう。まさに見殺しである。どっから見ても実体は軍隊である自衛隊が危険地域に行かずに誰が行くのか。危険地域で行動する装備や能力を他の誰が持っているというのだろうか。

 避難希望者約500人の生死がかかっている大問題である。タリバンに命を狙われ恐怖におびえている人々もいることだろう。アフガン人の多くは日本の事業の協力者であるという。多くの他国が避難を成功させたのに対し、日本だけがこの有様では日本の国際的な信義が問われる。恥ずかしいことである。さらに避難を指揮すべき大使館員は全員が早々と逃げ出したらしいが、これもまた無責任であり、恥ずべきことである。

 さらに気になることは、避難民の救出に失敗した問題に対するメディアの冷淡さである。今夕のNHKではパラリンピックや高校野球、各地の高温、アフガニスタン 米軍撤退の動きを伝えていたが、日本の救出作戦には全く触れていなかった。日本人などの生命に危険が及んでいるときにどうしてこうも無関心でいられるのか、とても疑問である。

 今後、タリバンと話ができて解決の道が開かれるかもしれない。しかしタリバンは北朝鮮のように話ができない相手である可能性が高い。だからこそ各国は急いで救出を行っているのであろう。まともな政権なら慌てて救出する必要はない。

 何の苦労もなく育ったボンボンは現実を認識するのが不得手であることが多く、危機になると的確な判断ができない傾向がある。イスラエルのような周囲との緊張状態が常である国は危機に対応する能力が優れている。日本は世界のボンボンなのだろうか。

 NHKなどのメディアがアフガニスタンの自国民救出問題の失敗を報道しないのは、失敗が自衛隊のあり方、自衛隊を縛っている様々な法律への批判を招くことを恐れているのかもしれない。自衛隊の種々の行動制限が危機対応能力を削いでいる事実を知らせないために。ワクチンにしろ、救出作戦にしろ、日本の統治能力が問われる問題である。

感染リスクの認識がおかしい

2021-08-22 22:23:30 | マスメディア
 デルタ株の感染力は英国由来のアルファ株の2倍と言われている。さらに1人が何人に感染させるかという数値では最大9人という話もある。どちらが正しいかわからないが、ここではアルファ株の2倍としよう。現在の1日あたりの感染者数は全国で約2万5千人であり、これは現在までの1日あたりの平均感染者数は概算で約2300人(総感染者数を560日で除した数値)の10.8倍に達する。

 感染する確率はウィルスをまき散らす感染者数と感染力を掛け合わせたもので表されると考えてよい。とすると現在の感染確率は10.8×2で21.6倍にもなる。我々はこの現在の高い感染確率を理解し、それにふさわしい行動をしているだろうか。いままでとは状況は大きく異なって、ウィルスをまき散らす感染源がウヨウヨしているのである。人流の計測値が発表されているが、それを見ても大きく行動が変化したとは見えない。格段に強い対策をとらなければ感染の拡大は抑えられない。

 繰り返される非常事態宣言やまん延防止等重点措置に国民は「慣れ親しんで」その効果は低下傾向が顕著である。当然「オオカミ少年」効果もあろうが、政府の発表やメディアの報道にもその原因はあるように思われる。メディアは新型コロナニュースを連日トップで報道しているし、十分な時間・紙面を使っている。しかし人流の変化に表れているようにその効果は十分ではない。報道の方針に問題があると思わざるを得ない。感染確率が過去の平均の20倍余であることが理解されれば恐らく人は慎重にならざるを得ないだろう。

 デルタ株の感染力は予測されたよりかなり強いようである。というより予測自体が誤っていたと言ってよい。甘い予測で対応できると判断した政府・関係者の責任は大きいが、その判断にはメディアの報道も関係している。極論すればメディアの的外れな報道が政府・国民の甘い認識を生み出したという面が否定できない。感染の行方を左右するのは人々の認識である。その認識はメディアの見識にかかっている。

予測通りの展開に慌てる政府

2021-08-01 22:04:41 | マスメディア
 新型コロナウイルスのデルタ株の活躍が目覚ましい。拡散の速さは出身地のインドや欧米諸国で確認済である。さらにその感染力は英国のアルファ株の1.5倍とされている。アルファ株は中国製の従来株に対して感染力が1.5倍とされていたのでデルタ株は元祖中国株に対して2.25倍の感染力を持つことになる。この事実は既に5月21日に田村厚労相の発言として報道されている。

 2.25倍の感染力があるということは感染の主な原因となる人と人の接触を中国株に対する規制をもっと強力に行う必要があることを意味する。大雑把な計算であるが過去の非常事態宣言のとき、人流が50%減ったとすれば、今回は同じ効果を出すためには約78%減らす必要ということになる。同じ非常事態宣言でこんな効果は期待できないばかりか、その効果は低下しているので尚更である。

 5月に感染力が政府レベルで明らかになっていたわけだから、今急激な感染拡大は容易に予測出来た筈である。むろん100%の信頼のある予測は無理であるが、このような緊急時はある程度の確度があればよい。もし根拠に基づく科学的な実証を求めていたら流行が終わってしまうだろう。感染力の強さからも、また外国の例からも感染急拡大は予想できた。そして従来通りの緊急事態宣言やまん延防止等重点措置では歯が立たなくなることもかなりの確度で予測できたと思われる。

 従来通りの手法で感染の抑止が可能である可能性もあるかもしれないが、そうでない可能性も否定できないのなら、ロックダウンなど、より強力な強制力を伴う措置などを用意しておくのが政府の役割であろう。新型コロナが拡散し始めてからもう1年半も経っており、立法の時間はあった筈だ。これを千載一遇の機会として非常事態法を作り、ようやく世界の諸国の仲間入りをしてもよかった。今からでもないよりはマシである。

 一部では報道されているが現在の感染拡大状況に危機感が伴っていないことが問題視されている。その通りだと思うが、一方で、菅総理の会見で目立つのは非常事態宣言によって人流は減ってきている、ワクチン接種は着実に進んでいると、いまさらの自慢話である。国民に危機を伝えるという意思は感じられない。つまり問題の認識が十分ではないと感じる。

 新型コロナの重大性を読み誤り、ワクチン接種の実施においてOECD37ヵ国中の最下位に甘んじて、遅れによる経済的損失は何兆円か何十兆円が知らないが莫大なものになる。ワクチン遅れによる損失額を計算してほしいと思う。前々回も書いたが、新型コロナを通じて我が国政府の統治能力に疑問が生じた。とはいっても野党となるとさらにレベルが低い。民主主義、それを支える選挙民、それに影響するメディア、いったいどれが悪いのだろうか。

ワクチン政策の恥ずかしい無能さ

2021-07-10 20:11:47 | マスメディア
 モデルナ社のワクチンが使われている職域接種がワクチン不足のために各地で中断されて、大きな混乱が起きている。さんざん接種を急がせておきながら恥ずかしい話である。6月末までに4000万回分が入ってくる予定であったのが1370万回分しか入ってこなかったためだという。加藤官房長官は『同社のワクチンが日本での薬事承認を受けたのが今年5月21日であることなどを踏まえ、6月末までに「1370万回の供給を受けることになったと聞いている」と述べた』つまりその理由はモデルナ製のワクチンの薬事承認が5月21日と遅れたためらしい。さらに河野太郎行政改革相は1370万回分と示されたのはいつかと訊かれて「かなり当初に4千万回分という数字を変更した。ちょっと正確には覚えていないが、ひょっとすると大型連休前ぐらいではないか」と答えている。

 まとめると、モデルナの薬事承認はファイザーより3ヵ月以上も遅れ5月21日になったため、モデルナの6月末までに4000万回分という契約が1370万回分に減らされた。それを河野大臣は連休前に知りながら、黙っていたため、職域接種は4000万回分を前提に進められ、途中で足りなくなったというわけらしい。足りなくなった理由を政府は職域接種の要求量が過大であったと説明しているが、それは一部の理由に過ぎず、実に見苦しい説明に見える。政府が全力を入れた事業にしてはお粗末過ぎる。

 一方、自治体に供給しているファイザー製ワクチンも不足が表面化してきて、医療機関が受け付けた予約をキャンセルせざるを得ないことになっている。ある医療機関では罵声を浴びながら数百人の予約者にキャンセルの電話をかけているとも聞く。ワクチン不足の理由を政府は自治体によってワクチン接種のスピードが異なって全体としては4000万回分が自治体の在庫となっていると説明している。この説明も納得できない。4000万回分は在庫量としては十分大きい数である。1日100万回しても40日間もある。たとえスピード差があるとしても融通しあえば不足は解消できると思う。

 ファイザーのワクチンの薬事承認が欧米諸国に比べ大きく遅れたことは前に述べた。モデルナのワクチンにもほぼ通常の認可手続きをとったのではないだろうか。その遅れがワクチン不足を招いたようである。厚労省の見識・能力が疑われる。さらにワクチンの分配にも不手際が目立つ。必要量のワクチンを各自治体に配分する作業は簡単とは思わないが、困難とも思えない。人口のおよそ7割はワクチンを望んでいるという需要予測は立てられるから、人口比に応じて配分するだけである。流行を予想するなどの不確定要素はあまりない。足し算と掛け算ができれはいいわけで、中学生でもできる。

 石弘之著「感染症の世界史」は博識の著者による面白い本である。そこには日本のワクチン行政についてつぎのように書かれている。『風疹に限らず「ワクチンで防げる感染症」の予防については、日本の国際的評価は先進地域のなかで最低レベルである。他の先進地域とワクチン行政の差は「ワクチンギャップ」と呼ばれてきた(P291)』

 新型コロナワクチンについてもその早い実施が望まれているにもかかわらず、先進国中最大の遅れをとった。これを前に政府の統治能力の問題と述べたが、とりわけ厚労省がその主役であることが今回のコロナ禍で実証された形である。つまり厚労省の無能さは伝統なのであろう。また政府の統治能力の点でも、感染症だけでなく、防衛や食料、エネルギーに対する安全保障が大丈夫なのか。これらの危機に対しても先進国中最低の対応しかできないのではないかと、とても心配になる。

スポーツという虚像

2021-06-27 18:06:20 | マスメディア
 オリンピックはじめスポーツは明確に様式化された勝負の世界である。最低限のルールしかない戦争との違いであるが、他はよく似ている。とくに勝負には勝者と敗者がつきものである点はその基本部分であり、両者に共通している。人間の闘争本能が関係していることも同様であろう。

 オリンピックは最大のスポーツの祭典と言われる。世界中の人々を惹きつける輝かしい舞台である。メディアの報道では、オリンピックの舞台には輝かしい勝者ばかりで、悲嘆にくれる敗者はほとんど登場しない。長年の努力が実って見事勝利を得た話といった、似たような成功談が繰り返される。反面、悲嘆にくれる敗者の話はほとんどない。スポーツでメシが食える人間はごく少数である。勝負に敗れ、スポーツの世界を去らざるを得ない若者は勝者の何倍もいるだろう。さらに生計を立てることさえできなくなる者もいるだろう。しかしメディアは多数の敗者に関心を示さない。

 メディアでオリンピックを観るものはオリンピックの輝かしい方の半面しか見ないことになる。オリンピックのイメージはこうして作られたものである。しかしオリンピックの輝かしさの裏側には勝者の何百倍、何千倍の敗者の悲嘆・絶望が存在するのである。

 戦争にも勝者と敗者がある。もしメディアが輝かしい勝者や勝利だけを取り上げて報道したらどうなるだろう。かつての、戦時中の大本営発表や朝日などの新聞報道はまさにそれであった。この半面報道は国の進路を誤らせるという実害をもたらすことになった。

 それではオリンピック報道はどうか。戦争報道ほどの実害はないので目くじらを立てることもないが、輝かしいスポーツ選手という夢を与えられた多くの若者が絶望への道を歩む手助けをしているという側面は否定できないと思う。高額の賞金を掲げる宝くじに射幸心を煽られて、合理的に考えれば損することが明らかな宝くじを買ってしまうのに似ている。勝手に夢を持った方が悪いのだというだろうが、毎回確実に収益を出す構造は無知につけ込んだ詐欺に近い。それが分かっているから国は民間には許可しない。

 それでもオリンピックは視聴率が増し、規模が大きくなるほど産業として成り立つようになる。放送業界は潤うし、IOC貴族の成立も可能となる。このような構造が出来上がっている以上、国民の半数が反対したくらいでは止まらない。彼らには利権を失う問題なのである。

 戦争報道とオリンピック報道、どちらもメディアの全力を傾けた報道であるが、事実の反面しか報道しない。メディアとは本来事実を伝えるものの筈である。すべてを伝えることは無理としてもここまでの恣意的な編集はやはりおかしい。

ホテル殺人、実名報道と匿名報道が逆

2021-06-05 11:45:13 | マスメディア
 東京都立川市曙町のホテルで男女2人が刺されて死傷した事件で、加害者の少年は実名が報道されなかった。一方、被害者の派遣型風俗店に勤務する31歳の女性は一部で実名報道された。他の報道機関は女性の実名を避ける配慮を見せたが、NHKなど数社は実名報道した。一部でも報道されるとネット上ではすぐに広まってしまう。

 派遣型風俗店に勤務する女性と言えばどういう仕事をしているか、誰もがわかる。一般に言って、決して名誉あるものではない。きっと本人が自ら望んだ仕事ではないだろう。恐らく、その仕事を選ばざるを得ない事情があったのではないか。そんな背景に配慮することなく、仕事と実名を世に公表するメディアの軽率さと無思慮に憤りを覚える。さらに被害者のご遺族にとっては家族を失った衝撃に加え、報道がむごい仕打ちとなる。なんともやりきれない。日頃の正義面は偽善にしか見えない。

 一方、匿名報道された加害者は被害者の体を約70回も刺したと言われる。動機について「ネットで人を殺す動画を見て殺人に興味を持った」という。想像だが、被害者はすぐに絶命したのではなく、意識のある中で何度も刺され、激しい恐怖と苦痛を味わったものと考えられる。意識がなくなるまで、まさに地獄の苦しみであったろう。加害者の残忍さ、冷酷さに胸が悪くなる。人の形をした悪魔の仕業である。

 このような加害者は我々が通常考えている人間という概念からは想像しにくい。姿は人間でも精神構造が通常の人間とは認められないほどの乖離がある。多様性を尊重する人がいるが、これほどまでの多様性は困る。一定の枠内にあるべきであろう。

 一世紀以上も前の話だが、イタリアの精神科医で犯罪学の父とも呼ばれるチェーザレ・ロンブローゾはこのような問題に興味を持った一人である。彼は生来的犯罪人説を唱え、犯罪者の35~40%は先天的に犯罪者となるよう宿命づけられた人間であると考えた。さらに彼は一部の犯罪者を人類の亜種とした。現代ではこのような説は概ね否定されている。しかしこのような事件が起きるたびにロンブローゾを思い出す。ごく少数の特別の犯罪者に対してはロンブローゾ説は一定の有効性があるのではないか、とも思う。

 実名報道を避ける報道に見られるように、この悪魔のような人間に対して人権を認めるべきかということが問題になる。自分の快楽のために、罪のない弱い女性を残酷な方法で殺す人間に人権もクソもないと思うが、そう考えない人間もいるようである。光市で起きた残酷な母子殺人事件では死刑判決を避けるための大弁護団が結成された。各弁護士会は次々と死刑制度反対の決議をしている。死刑廃止の北欧のある国では50人を殺害した犯人が終身刑となり、生涯、社会が彼の面倒を見ることになった。美しいことだが、バカらしいことでもある。

 人権は当然守られるべきである。しかしその場合、人権は一般の、通常の人間を対象にしていると思う。人間という枠を外れたもの、規格外のものに対して適用することはないと思う。人間という定義はどういうものか知らないが、法の世界では人間の女の体から生まれたものはすべて人間として扱うようだ。意識のない、植物状態の人間も、悪魔のような人間も、天使のような人間も、等しく人として扱われる。いささか粗雑で乱暴と思う。あらゆるものを定義することは法体系に必要なことであるが、定義は複雑な事象が単純化されるため完全とは限らない。しかし法に携わる人間が法と同様に単純思考では困るのである。報道に携わる者もルールさえ守ったらよいという単純思考が多いのも困ったことである。