静聴雨読

歴史文化を読み解く

奇人変人列伝

2012-07-01 07:19:43 | 社会斜め読み

 

(1)ビブリオマニア

世の中には、変わった趣味を持つ人や特別に細部にこだわる人が少なくありません。原宿を闊歩するお人形ファッションの女の子もそうでしょうし、JR(旧国鉄)の各駅乗りつぶし(正確には「降りつぶし」でしょう、と半畳を入れたくなりますが)に挑む男性もいます。これらの人たちは、「奇人変人」と総称されます。世の中の奇人変人を見てみましょう。

その第1回は、他ならぬ私自身を取り上げましょう。

私と書籍との付き合い方を客観的に見ると、私もまぎれもなく一人の「奇人変人」です。本を集め、それを棚に並べ、そのうちのいくらかは読み、などしているうちに、いつのまにか家中が本で埋まってしまいました。50歳代前半のことです。最盛期には、16本の本棚が本で一杯になっていました。それも、棚の後列に単行本などを入れ、前列に文庫本などを置く、という二重配置でした。

これらの本を読みつぶすためには、少なくとも150年の余命が必要だとわかりました。そこで、意を決して、蔵書を減らすことにしました。一部は廃棄し、一部は古本屋に処分し、また、一部はインターネットで売却しました。これで、蔵書はかなり減りました。ここまでは、「普通の人」の振舞いです。

ところが、ある時点で、インターネット古書店の面白さに惹かれてしまい、新たに「売るための本」を仕入れるようになりました。これでは、元の木阿弥、手元の本は減らなくなりました。「蔵書」は減りますが、「仕入れ本」が増える、というわけです。

遠く宇都宮まで本の仕入れに赴いたことがあります。仕入れた本は5000円。これに要した交通費は6000円。これでは、何のために、遠くまで出向いたのか、わかりません。

しかし、これには、私なりに理屈を用意しており、遠くまで物見遊山に出向いた経費として交通費の6000円を計上しているのです。物見遊山の「ついで」に古本を仕入れたのだ、というわけです。

「病膏肓に入る」ということばがありますが、ことほどさように、本と付き合う(この場合は、本を「売る」)ために奇策を弄することをいとわない。これこそ、「奇人変人」の典型ではないでしょうか? 

(2)偉大な将棋指し

私の好きな将棋の世界にも、奇人変人といわれる人がいます。加藤一二三九段がその筆頭でしょう。14歳でプロにデビューして、現在(72歳)まで58年現役を張り続けています。名人にもなりましたし、史上最多勝利の記録を持っています。将棋界の第一人者です。

この加藤さんがさまざまな奇癖を持っていることで知られています。

(1)駒の位置を整えるために駒の上をちょんちょんとさすります。あまりそれを続けるためにかえって駒が乱れてしますことがあります。「囲碁・将棋チャンネル」の「銀河戦」の対局で、加藤さんの「駒ちょんちょん」の癖が現われました。指し手が終わったあと、5秒ほど、延々と「駒ちょんちょん」を続け、あろうことか、指した駒を裏返してしまったのです。これは、「待った」をして指し手を変えた行為とみなされます。この行為のため、後日、日本将棋連盟から出場停止などの制裁を受けました。

(2)将棋の対局は夜にまで及びます。昼食と夕食を対局の休憩中にとります。書生が「てんや物」の注文を対局者から取ります。加藤さんは決まって「昼はうな重、夜もうな重」を注文します。「どうして、いつも同じ食事なのですか?」と聞かれて、わけのわからない受け答えをしているのを耳にしました。最近は、「昼はにぎり鮨、夜もにぎり鮨」に代わったそうです。

(3)対局以外にも加藤さんは奇人変人ぶりを発揮しています。自宅の庭に集まる野良猫に餌付けをして、それが近隣の生活環境を乱すとして、近隣の住民に訴訟を起こされ、加藤さんが敗訴しました。詳細は知りませんが、悪臭が発生したり、野良猫の鳴き声が大きかったりしたのでしょう。

加藤さんは判決を受け、「(餌付けという行為は)悪いことだと思っていないが、判決には従う」というものでした。

奇人変人ぶりが度を越せば、非難の対象となります。「駒ちょんちょん」はルール違反になって制裁の対象となりましたし、「野良猫の餌付け」は社会規範に触れるとして社会から非難されたのでした。

(3)変わった文体

サラリーマンは変わったところが少ないのが特徴です。というよりも、サラリーマンは、表面上、変わったところを押し殺して生活しているのが実情でしょう。

私の知人でサラリーマンをしていた男がいます。Aとしましょう。Aは知能が極めて高く、記憶力抜群で、仕事の処理能力も優秀でした。

さて、以下はAの文章です。

「昨日は腕前のほど、しかと拝見。肉体作業といい、魚のおろし方といいスマートその物。垢抜けでした。腰痛を理由に、楽チンコースに回り後のフルコースを堪能するばかり。これに懲りずに次回も声を掛けて。どうも有難うでした。」

何となく、奇妙な違和感を覚えます。体言止めが多いのです。「拝見。」「その物。」「ばかり。」など。「垢抜けでした。」「有難うでした。」も体言に形式的に「でした。」を付けたもの。「声を掛けて。」は「ください。」を省略したものか?いずれも、語尾の収束法に苦労しているようなのです。

言葉の専門家の文章クリニックにかければ、次のような文章に変えます。

「昨日は腕前のほどをしかと拝見しました。貴君の肉体作業といい、魚のおろし方といいスマートその物でした。垢抜けているといってもいいかもしれません。腰痛を理由に、私は何も手伝わず、楽チンコースに回り、後のフルコースを堪能するばかりでした。これに懲りずに次回も声を掛けて。どうも有難うございました。」

ここで気がかりなのは、Aは、サラリーマン時代にも、このような文章作法を続けていたのだろうか、という点です。ビジネス文書で体言止めの多い文章を綴れば、胡散臭い眼で見られ、「奇人変人」扱いされたのではないか? ご本人に確認したことはないのですが、「優秀だが、変わっているサラリーマン」とみなされていた気がします。 

(4)定年後の語学学習

サラリーマンを退役したAの文章を見ても誰も「奇人変人」扱いしません。そう、現役を退いた人は何をやろうとも自由なのです。もはや、サラリーマン社会の規範に縛られないのです。

さて、Aが最近、語学にのめりこんでいると聞きました。

もともとAは外国語の学習が好きで、英語に加えて、ドイツ語・ロシア語・フランス語もマスターしてしまいました。「何でロシア語を習うのか?」とAに聞いたところ、「ドストエフスキーを原語で読みたいから。」と返ってきたことを覚えています。なるほど。Aには外国語をマスターする独特の手法があるらしいのです。

そして、退役後のAが選んだ新しい外国語が中国語でした。なぜ中国語を選んだのか、気になるところです。「中国の取引先とスムーズに話を進めるには中国語を知っていたほうが便利だから。」とか「魯迅を原語で読みたいから。」とかいう答えを予想しましたが、Aの答えはあいまいで要領を得ません。

ここではたと膝を打ちました。Aは、商売とか研究とかの道具として語学学習を見ているのではなく、語学学習そのものが目的なのではないだろうか?

昨年、Aは中国語を学習するために、短期間の「語学留学」を上海で行ってきました。そして、今年になって、本格的に、数ヶ月の「語学留学」を上海で敢行するために現地に飛び立ちました。これほどまでに語学自体が打ち込む対象になりうるとは。驚きです。一般に世間では、Aの行動を「奇人変人」のそれとみなすかもしれませんが、ご本人がそれに意義を見出しているのであれば、それに対してあれこれいうのは、「余計なお世話」かもしれません。 

(5)「軍事オタク」の政治家

北朝鮮がミサイルを打ち上げることになり、その軌道が沖縄の先島諸島をまたぐかもしれないことが明らかになって、国が緊張しています。近辺にイージス艦を配置して地対空迎撃ミサイルの発射準備をしたりと大変です。

さて、このような国の防衛問題に特に詳しい政治家がいます。自由民主党の石破茂氏です。自民党政権時代に防衛大臣・農林水産大臣を歴任し、自民党政務調査会長も勤め、自民党の総裁選挙に立候補したこともある大物です。

決して正面を見ず、斜め右を見ながら話す話しぶりが妖しい雰囲気を醸しますが、話す内容は理詰めで説得力があり、自民党の論客という定評があります。

自民党が野党に回り、石破氏は政府の防衛政策を問う側に回りました。相手は、防衛大臣・田中直紀氏です。石破氏にとって、これほど相手にしやすい、つまり、いじめやすい相手はいません。15年か20年国会議員を勤めた割りには、防衛問題を勉強した跡が見られない防衛大臣が相手だからです。

早速、衆議院の予算委員会で質疑が始まりました。石破氏は田中氏に向かって、防衛問題の基本概念を細かく聞きます。当然、田中氏はしどろもどろになります。

テレビ映像が映し出す委員会風景は、まるで、入社試験の口頭試問のようでした。石破氏が、ここで、「それ見たことか。何もわかってないじゃないか。」と思ったかどうかはわかりませんが、「なるほど、石破氏は『軍事オタク』なのだ」ということを実感しました。

現下の緊迫した朝鮮半島情勢では、国会で審議すべきは、北朝鮮の軍事挑発への対峙の仕方、中国を後押しして北朝鮮の暴走を制止する外交手段、などでしょう。自らと防衛大臣との防衛知識の優劣を争っている場合ではありません。このことを、石破氏は理解していません。彼もまた、政治家としては、「奇人変人」に類するのではないでしょうか?   

(6)「昭和レトロ」の語り部 

映画『三丁目の夕陽』がヒットするなどして、昭和30年代への懐古の情が顕著になっています。特に、経済の高度成長を記憶している世代にとって、高度成長前ののんびりとした時代はかけがえのないものに映ります。

さて、「旅チャンネル」に時々登場する人に、町田 忍がいます。「昭和風俗研究家」を名乗っています。彼は、現在の街中を徘徊しながら、「古き良き昭和」の名残りを探し求めます。

彼の収集物を列挙します;

「偽木(ぎぼく)」:コンクリートで木材を模したもの。公園の境界標識や掲示板などに使われている。

「不二家のペコちゃん人形」:不二家の店頭に置いてあるあれです。

「狛犬」:神社の門前に左右一対に配してある石製の狛犬です。

これらの収集物は自分のものとすることはできないので、町田氏は写真に撮って残します。彼のカメラは銀鉛フィルムのカメラです。決して、ディジタルカメラには手を出しません。

「征露丸のパッケージ」:整腸剤。今は「正露丸」。歴代のパッケージを変わるごとに集めている。

「街頭配りティシュー」:今は、中身のティシュー・ペーパーを捨て、広告主のラベルのみを集めているとのこと。

これらの収集物にどういう意味があるかはにわかにわからない。

「古き良き昭和」を懐かしむ点では同じ気持を持ちますが、だからといって、「征露丸のパッケージ」や「街頭配りティシュー」を集めてどうなるのでしょう。まさに、町田氏は昭和レトロの残り香に魅了された「奇人変人」の一人といえましょう。 

(7)サンタクロースがやってきた 

大学のクラスメート(「B」と呼ぶ)にほぼ40年ぶりに再会しました。サラリーマンを退役したはずですが、最近Bがどのように生活しているかはわかっていませんでした。待ち合わせ場所に行くと、サンタクロースのような男がいました。白髪に加えて、whiskers(ほおひげ), beard(あごひげ), mustache(口ひげ)がもじゃもじゃと生えていて、総白髪でした。まさに、サンタクロースそのものでした。

話してみると、昔の人懐っこさがそのまま残り、知的好奇心も相変わらず活発なことも確認できました。すると、サンタクロース風の風貌は何を意味しているのか? 考えさせられます。

しばらく考えて得た結論は、Bはサラリーマン退役後の生活をそれまでの生活とはっきり区別するために、サンタクロース風を装っているのではないか、というものでした。 

(8)PC卒業

サラリーマンを退役したBは、それまで使っていたPCを使うのを止めた、という。これには驚きました。「PCは持っているが、使っていない。メール・アドレスは忘れた。」

そのため、Bとの連絡はすべて郵便です。

私は主宰する将棋愛好会の連絡で、PCを持たない先輩への連絡で郵便を使うことがあります。80円切手が見る見る減っていきます。したがって、郵便での連絡には違和感を覚えません。しかし、それは「先輩」への連絡に限られていて、「同輩」や「後輩」にはPCを持たない人はいませんでした。今や状況は変わったようです。

さて、Bとの会話の中で、Bから、「昔の懐かしい外国映画をみるにはどうしたらよいか?」と聞かれました。私は、得たりや応と、「それなら、インターネットで検索すればすぐわかるよ。」と答えたのですが、Bは「もう、そういうのはいいよ。」というばかりでした。

ああ、PCやインターネットは「そういうの」に成り下がってしまったわけです。

振り返ってみると、個人がPCを持てるようになったのが、20年前から15年前のこと。それまでは、外国映画のプログラムを調べるために、新聞や「ぴあ」などで情報を集めていたわけです。PCとインターネットのおかげで、新聞や「ぴあ」に頼る必要がなくなったわけですが、PCがなければ情報が集められないわけではありません。PCを拒否するBを「奇人変人」と見ることは必ずしもフェアではありません。

PCを捨て、サンタクロースに変装していても、読書量は多く、知的好奇心も旺盛です。そして、現在、Bは銅板画の制作に没頭しているそうです。 

(9)趣味と収集癖

何をもって人を「奇人変人」と評するのでしょうか?

趣味と収集癖との関係を考えてみたいと思います。

例えば、「いけばな」を趣味としている人、ゴルフを趣味としている人、読書を趣味としている人は、「すてきな趣味ですね。」とか、「健康にいいでしょう。」とか、「博学多才になりますね。」とか評されます。趣味とは人間の生に潤いを与える潤滑油だとして認められているわけです。

ところが、「いけばな」の趣味が高じて高価な花器を集め始めたら周りの人の目が急に厳しくなりますし、ゴルフのクラブを毎年更新すれば奥様からクレームが出ますし、本を読まないで棚に積んでおくだけだと「家が狭くなる。」と周りの猛非難を浴びます。これらは、本来の趣味の範疇を超えた「収集」だとみなされるからです。どうやら、このあたりが「奇人変人」と呼ばれるか呼ばれないかの境界線のようです。

「収集癖」が人の病であることは疑いありません。

「軍事オタク」の政治家が収集しているのは「防衛大臣の失言」でしょうし、「昭和レトロの語り部」が収集しているのは「昭和の残り香のある『偽木』の写真集」です。

また、退役後に中国語の習得に熱中するのも、外国語の一種の「収集」です。

かくいう私も本の収集に明け暮れてきました。いまではそれを逆手にとって、「インターネットで本を売る」ことを趣味にするようになりましたが。

さて、以上のような「収集家」に比べて、PCを捨ててサンタクロースに変装したBの場合は、取り立てて何かを収集しているわけではありません。早くに、「悠々自適」の境遇を獲得したに過ぎません。その意味で、Bは純粋な老人なのかもしれません。「何かを収集する」という俗物の思いつきをはや卒業しているのですから。  (2012/3-4)



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