静聴雨読

歴史文化を読み解く

義援活動の難しさ(決算のとき・1)

2011-12-29 07:00:39 | Weblog

 

2011年は、世間では東日本大震災が起こり、身辺でも様々な変化が生じた年でした。これを振り返りたいと思います。

 

(1)義援活動の難しさ

 

東日本大震災をなすすべもなく傍観していましたが、何か義援活動ができないか、と日々考えていました。

 

まず、義援金の拠出を考えました。だが、義援金を日本赤十字社などに拠出しても、その先、どこにそれが回っていくのかがわからないと、義援金を拠出する意欲が今一つ湧きません。

それで躊躇しているところに、ある情報がもたらされました。私の参加している「スーパー源氏」の参加店で宮城県気仙沼市の古本屋が罹災したというのです。早速、その古本屋に義援金を送りました。

 

義援金の次は「義援本」の提供を思いつきました。津波で在庫本の一切を流されてしまった古本屋にとって、商品となる古本を集めることは古本屋を再開するために喫緊の課題です。

 

古本屋の避難先に段ボール箱を数個送りました。ここで予期せぬことが起こりました。その古本屋から「古本を受け取った」という連絡がないのです。英語に Acknowledgment (動詞は acknowledge)という言葉があります。「確認」または「確認通知」のことです。たとえば、「荷物を確かに受け取りました。」という時に使います。この言葉は中性で、価値評価を伴いません。単に「荷物を受け取ったことを確認する。」というだけで、感謝とは別物です。

 

送った「義援本」が相手の古本屋に役立つかどうかはわからないので、感謝の反応は期待していませんでした。しかし、「確かに段ボール箱は受け取りました。」という「確認」の反応は欲しかった。

どうも、日本人は、「確認」と「感謝」を切り分けて使うのが不得手のようです。

このようなことがあり、「義援本」を贈り続ける元気は失せてしまいました。

 

ここで得た教訓は、「義援」は、相手が見える方がやりやすいとは限らず、相手が不特定でわからない場合の方がやりやすい場合がある、ということでした。日本赤十字社の存在意義を見直した次第です。 (2011/12