おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

ユビキタスな社会。

2004-10-10 23:37:44 | 我思う、故に書くなりよ。
なんだか良く判らないのだが、ネットワークにいつでもどこでも触れられる社会なんだそうだ。

PCやPDA、ケータイを介しても介さなくても、ネットワークにアクセス出来る環境が人間の周りに構築される社会だと言う話だ。うーん。まさに「21世紀の世界」なんだが、実はもう21世紀だったりする。

そうなった社会がどう良いのか? いまいち判らないのではあるが、士郎正宗が描く「攻殻機動隊」の世界が正にユビキタスなのではないか。デバイスらしいデバイスも持たず、電脳と言う臓器で全てやり取りできるし、場所も時間も問わないでアクセス出来るネットワークがそこいらにある。そんな社会が最終的なユビキタスな社会なのかもと、思う。

そうなったらそうなったで、便利かもしれないが、便利から取り残された人達はどうなるのか不安でもある。皆が一様にそうなれば社会としては成功だろうけれど、一部だけ進んで、取り残される人が出る様ならば、社会としては失敗だし、強要や強制の導入ならこれも失敗だと思う。

あれば便利…無くてもいいや…的なのが「現代のネットワーク」だと思う。PCすら無縁、ケータイも無縁と言う生き方もあるし、それで困らない社会が安定した社会だとも思う。是が非でも必須なモノだ…と、押し付ける方向の延長線上にユビキタスがあるならば、これは失敗するのでは無いだろうか。

PDAと言うデバイスが死語になりつつある。PCと同等かそれに順ずる機能を持ち、なおもノートPCよりも小さく、軽いデバイス。本来ならば、PCに取って代わるモノだったと思う。が、そこそこだが、似た様な機能を持つケータイに取って代わられた。PCの機能と比較すると、基本的に出来る事は変わらないものの、必要かつ充分な機能かと言うと、そうではなく劣る。だが、その程度で充分だから、ケータイとして成功していると考えるべきではなかろうか。

これがユビキタスを目指すあまりに、高機能、高性能化を求めると、PDAの様に消えてしまう運命を辿るかも知れないと思う。あくまでも、そこそこの機能だから成し得る価格、利便性がそこにある。人間が付いて来れないモノの社会は、要らないって事も考えた社会作りがあってもいいのではないでしょうか。どう?

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