アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

風雪の群像

2007-01-06 17:45:24 | インポート
お正月もアイヌ奨学金事務(募金領収証発送)をしながら過しましたが、
更新できる内容がなく、おひさしぶりです。
新年もよろしくお願いいたします。
以前に情報誌“ノヤ”に掲載した文ですが、UPします。
旭川アイヌ民族フィールドワークの際に、最初に訪れる場所の紹介です。

旭川の常盤公園の一角に「風雪の群像」があります。
この群像は、北海道「開拓」記念碑として建てられました。
制作者は著名な彫刻家・本郷新(札幌大通公園の「泉の像」、稚内市の「氷雪の門」、戦没学生記念像「わだつみのこえ」、など作品多数)。
像には“波涛”“大地”“沃野”“朔風”そして“コタン”をあらわす5人の裸像が配されています。


風雪の群像(写真左に座っているのが“コタン”

この“コタン”のアイヌ老人像をめぐって、創作当初に旭川在住の作家・三好文夫の間で激しい論争が展開されました。
本郷の試作過程のデッサンは、アイヌ老人が和人の役人の足元にひざまずき、
身をかがめて案内している屈辱的なポーズで発表され、それを三好は「杞憂を感じ」「それは過去の和人の不遜な感覚であり、適切でないと思った」(1970・5・27北海道新聞)と指摘(しかし、像はアイヌの老人像を木の切り株に腰を下ろす姿勢にかえただけで続けられました)。

本郷は三好の批判に対し、「アイヌは開拓前から北海道に定着していた民族であり、和人は後からこの地に来て開拓の仕事をはじめたという歴史を知っている人なら、アイヌの古老だけを切り株に腰かけさせていることの象徴性と寓意性を感じてくれると思う」と反論(?)しました。が、はたして観る側はどう感じたらいいのでしょう。本郷には、「開拓」行為がアイヌ民族にとって「侵略」行為なのだという歴史認識が欠落していたのでしょう。

除幕式には川村カネトエカシ(翁)も参列しました。その日のプログラムにはカネトエカシの名が載せられているにもかかわらず、その場で突然のスピーチ依頼だったそうです。エカシは型どおりのことばの後にこう語りました。―若いころ、測量の仕事を40年間もやったのですが、賃金はシャモの半分ぐらい、寝とまりする小屋もシャモとは別でした。―(旭川人権擁護委員会連合会『コタンの痕跡』)
「開拓」時代からアイヌは苦しめられ、カネトエカシご自身の過去も差別された苦しみであり、こうした群像が出来たこと自体がその延長の何ものでもない、反省も謝罪もなく、あいも変わらず無視と差別を繰り返しているおまえ達よ、なぜ気付かないのか、とエカシは言いたかったのではないでしょうか。そのような思いが込められている重く痛い言葉に感じます。

そもそも「開拓」記念なる催しや像を立てることがアイヌ民族の苦難の歴史を無視する行為です。「風雪の群像は原始の大地に名もなく消えた一世紀北海道開拓者の涙と呻きと歓喜の像である」と、この像の「建立の趣旨」にも「開拓」側の苦労を述べるのみに留まっています。

著名な彫刻家である砂沢ビッキはこの日、旭川の街にて抗議のビラを配りました。
―・・・朔風・波涛・沃野・大地というテーマはなんと洋々とし蕩々とした空間の中でのびのびしているかにくらべ、何故アイヌはコタン()という偏狭な地点に座しなければならないのか! この大自然と大地はわれわれアイヌのものではなかったか! ― (新谷 行著『増補アイヌ民族抵抗史』)

 この像は北海道大学文学部のアイヌ関連資料を収めた北方文化研究施設のケースと共に’72年10月23日、「東アジア反日武装戦線“狼”」によって爆破されます。北大のそれは「アイヌの遺産を略奪して見世物にしている許し難い施設であったし、ブロンズ像は侵略行為の誇示そのものと見える」(「狼煙を見よ」)との理由でした。北大は被害が少なかったですが、群像は四体が破壊されました。現在ある群像は’77年に再建されたものです。


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