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奥井みさき、旅の記録と徒然日記

仕事の合間に旅行、旅行の合間に仕事。
フリーライター・奥井みさきの旅日記と、日々思うこと。
札幌からです。

“ダーツの旅”、今日は滝上町

2019-10-16 05:30:05 | 滝上町
「1億人の大質問!? 笑ってコラえて!」(日テレ系列・北海道ではSTV)、
メインMCは所ジョージでサブが佐藤栞里、賑やかで面白い番組ですね。

番組HPはこちら。
    → http://www.ntv.co.jp/warakora/

レギュラー放送は毎週水曜日19:46~20:54ですが今日はスペシャル、
放送時間が19:00からの3時間スペシャルになります。

その中での人気企画『ダーツの旅』はナント滝上町、
それも所ジョージが滝上町まで取材に行ったらしい。

私は事前に予告編は見ていた。
その中でハッカの葉っぱを鼻の中に入れているところがチラと見えた。

葉っぱがハッカだとわかるところが凄いでしょ(笑)
それで、あぁ…滝上だとわかった。

どんな内容かはわかりません、所ジョージが現地で何をやらかしたのかもわからん。
ですが絶対に面白い仕上がりになっているだろうことはわかります。

狭い町だ、知り合いも何人か出てくるだろう。
今日は心してテレビを観るとしましょう。
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セイコーマート、滝上産ハッカを使ったアイスを発売中

2019-07-30 06:02:15 | 滝上町



セイコーマートでは北見産と滝上産ハッカを使ったチョコミントアイスを発売中です。
    → https://www.seicomart.co.jp/images/release/release20190708.pdf

北見産ハッカはチョコミントソフトに、滝上産ハッカはチョコミントアイスバーに、
それぞれソフトは16万個とアイスバーは13万個限定で本州を含む全店で展開しています。

売り切れご免、ですね。

私はもちろん、滝上産ハッカを使ったチョコミントアイスバーをいただきました。
ハッカの香りが口の中に広がりますね。

この爽やかな感じは夏にぴったりだ。

滝上のハッカは“和ハッカ”ですが、これを食品に加工するとなるとかなり苦労します。
“和ハッカ”は主成分であるメントールが濃すぎるんだよなぁ…。

普通だとこのような商品は材料を『贅沢に使う』が定番だと思うのですが、
和ハッカはちょっとでも使いすぎるとアナーキーな食感になる。

それを上手に使って商品に仕上げたな、というのが素直な感想。
商品化に1年かかったそうですが、さもありなん。

発売開始は7月6日、数量限定なのでいつまで店頭に並んでいるかわからない。

北海道のセイコーマートだけではなく茨城と埼玉のセイコーマートの店舗、
それにハセスト、タイエー、ハマナスクラブでも発売中です。

ご興味のある方は上記の各店舗へどうぞ。
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北海道滝上高校(滝高)、昨日最後の卒業式

2019-03-04 05:35:23 | 滝上町



我が母校、滝上高校(滝高)は昨日、最後の卒業式を行いました。
これで1948年に紋別高校滝上分校として開校した同校の歴史が終わりました。

最初は定時制として開校、1952年に滝上高校として独立、
1962年(私の生まれた年)に全日制が設置されています。

私が入学したのは1978年、定時制はこの年の入学をもって募集停止になっています。
私の同級生が最後の定時制在籍生徒となった。

卒業は1981年、そして今年の閉校となりました。

私が在籍していた当時は2クラス90名、受験倍率は0.9倍で初の定員割れとなりました。
紋別北高(現・紋別高校)も0.9倍だったと記憶しています。

当時は木造校舎で教室の暖房は石炭、吹雪になれば廊下には隙間から入った雪が積もった。
3学期の体育はスキーのみで高校専用のスキー場も備えていた。
そういう便利なところと不便なところがともに懐かしい。

と、この頃から生徒数が激減していきます。

今の定員は1クラス40名ですが、今年の生徒数は14名でした。
で、教職員数は13名なのでほとんどマンツーマンの教育環境だ。
これはこれで、いい教育を受けられたに違いない。

私の感想は、仕方ない…です。
地元の事情は漏れうかがっていますが、どうしようもなかろう。

滝高、70年間ご苦労さまでした。
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滝上南特別教授場跡

2019-01-15 05:32:48 | 滝上町



滝上市街地に区画設定されたのは1913年です。
以後、本格的に市街地が形成され人口も増加、学校設置の必要がでてきました。

すぐ翌1914年5月、校舎142㎡と校長住宅69㎡が落成し、
第四渚滑尋常小学校(後の滝下小学校)所属滝上南特別教授場として開校しました。

碑の場所は役場正面の「岡本政道翁像」横、この学校が今の滝上小学校になります。



※滝上町役場

1915年には白鳥尋常小学校の所属になり更に滝美尋常小学校として独立します。
この短期間に独立を果たす、市街地の急激な成長が窺われます。

児童数は開校時は70名あまりでしたが4年後には206名になっています。

1919年に高等科を併置し滝美尋常高等小学校となります。
その後も児童数が増加、校舎が手狭になり移転改築が議論されました。

そこで現校地の土地の寄付を受け1926年に1846㎡の校舎が落成し移転しました。
1937年には2階建ての教室を増設しています。

戦後、滝上町の中心市街地に所在する学校なので自治体名と同一にするとし、
1950年、滝上小学校に改称されました。

そして1960年に改築された校舎が私の卒業した学び舎となりました。
そして更に1982年に現校舎が完成しています。

以下、年表です。


1914年 第四渚滑尋常小学校(後の滝下小学校)所属「滝上南特別教授場」として開校
1915年 白鳥尋常小学校所属に変更後、「滝美尋常小学校」として独立
1919年 高等科を併置、「滝美尋常高等小学校」となる
1926年 手狭になり現在地に新校舎を建て移転
1941年 「滝美国民学校」となる
1947年 「滝美小学校」となる
1950年 「滝上小学校」と改称
1960年 改築、この校舎に私が通った
1982年 現校舎、落成
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アイヌ人 柳田初太郎住居跡

2019-01-14 05:31:05 | 滝上町
  


滝上市街地、渚滑川とサクルー川の合流点の元町側には「プラザの湯」があります。
そこの川べり、まさに川の合流点にあるのがこの記念碑です。
「プラザの湯」の休憩室からも見ることができます。





ここは明治33(1900)年に留萌のアイヌ・柳田初太郎氏が渚滑川をさかのぼり、
滝上町で最初に住んだ者の住居として記録されている場所です。

どこにそんな記録があるのかと思うのですが、
正確な居宅場所としてはともかく柳田初太郎氏が往来していたのは間違いなさそう。
場所も2つの川の合流点ということで食料の採集場所としては最適だったのかと思われる。

渚滑川もサクルー川も私が住んでいた頃でも市街地であるにも関わらず、
釣りをすればいろいろな魚が獲れ沢に入れば山菜が豊富に採取できたのですから。

ただ柳田初太郎氏の来町はただ漁労を目的としたもので、
開拓をしたわけではありませんでした。

それはそうであろう、それがアイヌの方々の生き方だ。
コタンは渚滑にあり、そこから往来したのかと想像しますが。

ただ、開拓民は入植するにあたり柳田初太郎氏より多大な便益を与えられた、
それは間違いないようです。

この地を知っている先駆者として、その役割は多大だったと思われます。
だからこそ、その住居跡に記念碑が建っているのですね。
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滝ノ上市街 芝居小屋・消防番屋 跡

2019-01-13 05:50:45 | 滝上町
  


開拓民の娯楽の場として中川伝作がこの地に「滝上座」という劇場を開きました。
場所は元町、プラザの湯の入り口あたりになります。

ときに大正5(1916)年です。
ここで滝上町初めての“活動写真(映画)”が上映されました。

ちなみに滝西の亜麻倉庫で活動写真が上映されたのは大正9(1920)年、
大人10銭、子ども5銭で奥地から12㎞歩いて観に来たという記録があります。

開拓の苦労の中、日々娯楽に飢えていた人々の気持ちがわかります。
その芝居小屋も大正9(1920)年に火災で焼失します。

料亭からの失火とのことですが、消防番屋は類焼を免れたとの記録があります。

その滝上町の消防は大正3(1914)年に私設の火防組合を結成し大正5(1916)年に公認され、
組合を5組に分け各組に足踏軽便ポンプを配置しました。

この足踏ポンプは18リットルしか入らなかったという。

そして翌年、私設の消防組が設立され更にその翌年公認され滝上消防組と改称された…。
以上、町史からですが私設と公認が入り乱れよくわからない。

町史の年表から抜粋します。

大正3(1914)年  私設滝上市街火災予防組合設立
大正5(1916)年  同組合、公認となる
大正6(1917)年  私設滝上消防組が組織される
大正7(1918)年  同組合、公認される

以後、滝上市街だけではなく町内各地区に消防組織が設立されていきました。
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大正尋常小学校跡

2019-01-12 05:10:35 | 滝上町
  


滝下地区から渚滑川を渡った国道と反対側にあるのが大正地区。
ここは1912年で徳島県から4戸の入植がありました。

その後開拓が進み人口が増えて行きましたが何しろ川向うの不便な地、
渡船が唯一の交通機関ということもあり子供は学校に通えませんでした。

そこで1915年、地区住民が設置費用を負担するという条件で開校したのが、
第四渚滑尋常小学校(後の滝下小学校)所属の川端特別教授場です。

1923年に大正尋常小学校となっています。
1954年に滝下小学校と統合され廃校になりました。

碑のある場所は大正48線、大正会館の敷地内です。

以下、年表です。


1915年 第四渚滑尋常小学校(後の滝下小学校)所属「川端特別教授場」として開校
1923年 特別規定による尋常小学校として認可され「大正尋常小学校」となる
1928年 正式な尋常小学校に昇格
1941年 「大正国民学校」となる
1947年 「大正小学校」となる
1954年 滝下小学校と統合、閉校
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滝下・メナシ間渡船場跡

2019-01-11 05:31:36 | 滝上町
  


今日から5日間、滝上町に建っている記念碑をご紹介していきます。

滝上町の記念碑をご紹介するのは1年半ぶり、
ご興味のある方は“滝上町”のカテゴリーをご覧ください。

さて、最初は渡船場のお話し。

北海道は開拓時代には河川を渡る橋は少なく、多くは渡船に頼っていました。
全国でもまだ渡船はいくつかありますが、一番有名なのは歌にもなった「矢切の渡し」。

北海道では最後まで残っていたのは「美浦渡船」(美唄市ー浦臼町)ですが、
これは2011年9月25日をもって廃止され北海道から渡船はなくなりました。
    → https://blog.goo.ne.jp/okui-m/e/d686d7ef8b1772cb969dd72ae7291125/?st=1

滝上町にも渡船はあったようで、記念碑が残っています。
場所は滝下の51線、国道沿いにあります。

ここは渚滑川から離れた場所なので実際の渡船は南800mの川沿いにありました。
そこから対岸のメナシ(大正地区)までの渡船、当時は対岸まで唯一の交通機関だった模様。

詳しいことは昭和51年刊の町史にも記されていません。
「村史」まで調べればなにか見いだせるかもしれない。

町史にもネットを調べても詳細が存在しない滝上町の渡船、
この記念碑だけがその歴史を伝えています。
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浮島トンネル(国道273号線)でラジオの聴取が可能に

2019-01-07 05:19:10 | 滝上町
年末年始の帰省で気づいたことがあります。

『浮島トンネルでラジオの聴取が可能になっていた』

主要なトンネルでラジオが聴けるのはよくあることですが、
浮島トンネルでまさかそういう事態になるとは…。

で、いつから聴けるようになったのだ?

浮島トンネルは11月にも通ったことがあります。
そのときはもう聴取可能になっていたのだろうか…?

覚えていない…。

ところで滝上町はラジオの電波が届きにくいところ。
唯一クリアに聞けるのはNHK-FMだけです。

また国道273号線の浮島トンネルから市街地までは携帯の電波も届きにくい。
そのことで過去には問題になったこともあります。

ラジオはともかく、携帯の電波問題は解消された。
そしてトンネルの中にも電波が入ってきた。

国道の安全対策、進んできたねぇ。
問題はトンネルを出てからのラジオ聴取が難しいところ。

さて、何とかならんもんか。
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北海道滝上高校 創立七十周年・閉校記念誌

2018-11-29 11:57:42 | 滝上町



我が母校、北海道滝上高等学校(滝高・たきこう)は今年度で閉校になります。
それに先立ち、10月7日に閉校記念式典が同校で行われました。

私も案内はもらっていましたが、仕事の都合で出席できるかどうか不明だったので欠席した。
記念誌だけいただくということもできたのですが、その申し込みもしなかった。

何かあれば誰かに借りることができるのだろうと。

先日、札幌でプチ同窓会がありました。
その中に滝高卒ではないが来賓として出席したというヤツがいて、記念誌をくれるという。

これ幸い、断る理由もないので有り難く記念誌を頂戴いたしました。
ノブちん、ありがとう!

さて滝高の沿革を見てみると創立は1948年、紋別高校滝上分校定時制として開校しています。

全日制の設置は1962年、これは私が生まれた年なので私の人生と歴史を刻んでいる。
卒業名簿を見てみると私は17回生、閉校になる来年の卒業生は55回生だ。

滝高の歴史の中では私はかなり古い年代の卒業生なのだな。

その他記念誌を見ているといろいろな想いがこみ上げてきます。
滝上が栄えていた頃から閉校になる今までの歴史が詰まっているのだな。

高校の閉校は、札幌などの都市部でも珍しいことではありません。
地方ならなおさら、母校がなくなったという方も多いと思います。

時代の流れとはいえ、これから地方では“通学できない!”という方も増えるだろうな。
いろいろと難しい時代になっていくのだな、と思います。
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