だいぶ朝晩が冷え込むようになって来ました。
秋ですね。
こんにちはI権禰宜です。
さて本日も遠くに行きます。
本日ご紹介するのは鹿児島県大口市。
大口(おおくち)市。
大口です。
・・・伊・・・佐・・・市・・・?
そんな名前は知りません。
※金山で有名な町と合併して「伊佐市」になったらしいです。
懐かしいですね・・・若かりし私が青春の高校時代を過ごした町です。
大口は鹿児島県の最北端の町。盆地という事もあって冬はとても寒い土地柄です。
県外に行ってよく「鹿児島出身だったら雪とか初めて見るんじゃない?」とか言われますが・・・
雪は毎年のように積もりますから。
一度県外の人を冬の大口へご案内したら、ぶるぶると「南国なのに詐欺だ」と言っていたのを今でも印象的に覚えております。
そんな寒い大口市ですが、歴史も古く豊かな自然に恵まれた町です。
大口は古来、牛屎(うしくそ)・・・
・・・牛屎院と呼ばれていましたが、室町時代の末期に島津氏の重臣・新納忠元が牛屎の地頭になった辺りから「大口」と呼ばれるようになったようです。
新納武蔵守忠元(1526~1611)
この新納忠元は島津四天王の一人として知られる人物で、ついたあだ名が『親指武蔵(おやゆびむさし)』。
何故『親指』かというと・・・皆さんは指で数を数えるとき、まず最初にどの指を折りますか?
大抵親指を折りますよね?
つまり島津氏の家臣を挙げる時まず最初に名前が上がる人物(指を折る人物)がこの武蔵守というわけです。黒田家でいえば母里太兵衛や後藤又兵衛ポジションですね。
武蔵守は小柄だったようですが、10代の頃から戦場を駆け巡り、抜群の戦功を挙げ続けるなど猛将として広く名を知られていました。また単なる武辺者に止まらず、和歌や茶の湯などにも通じた文化人としても知られ、かの豊臣秀吉や、細川幽斎を唸らせたというエピソードが今に伝わります。
そんな典型的な薩摩武士・新納忠元は死後も藩内の藩士や領民から追慕され続け、神として祀られるようになりました。
それがこちら
旧村社・忠元神社
天保年間に創建され、明治6年には村社に列しました。
現在この忠元神社のある周辺は『忠元公園』として整備され、国内有数の桜の名所として市民の憩いの場になっています。
『鹿児島の北海道』の異名(個人的にこの異名は正直どうかと思いますが・・・)をとる大口市(伊佐市)。著名な焼酎・伊佐美(いさみ)の町でもありますので、歴史や自然や・・・焼酎が大好きな方はぜひ足を運んでみて下さいね。
I権禰宜