8時15分、起床。
チーズトースト、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、珈琲の朝食。
朝食後、論文の再校ゲラを近所のポストに出しに行く。「12月23日」が締め切りだが、12月は忙しいから、サッサとすませてしまう。
「まいばすけっと」でアーモンドチョコレートを買って帰る。
昨日のブログを書く。
「ベイクマン」に電話をして食パンの取り置きをお願いする。
「本の庭」に電話をして、スープランチとタルトタタンの取り置きをお願いする(タルトタタンは最後の一個だったそうだ)。
1時半を過ぎた頃、昼食を食べに出る。今日も晴天。昨日は風が冷たかったが、今日は風はない。
大森に行き、ジャーマン通りを歩く。
教会にはクリスマスの飾りつけ。
「ベイクマン」に着く。今日は食パンを一斤だけ(まだ前回の分が残っているので)。
「本の庭」に顔を出す。
けっこうお客さんが入っている。座れるかな。
私のための席がリザーブされていた。電話ではスープランチとタルトタタンの取り置きをお願いして、席の予約はしなかったのだが(空いているだろうと楽観して)、お店の方が気を聞かせて席も確保しておいてくださったのだ。ありがとうございます。
クリスマスの飾りつけがされている。
注文を済ませて、カウンターに置かれていた本(新刊のようだ)を手に取る。
小林康夫『君自身のアートへ』(水声社)
私にとってアーティストであるということは、究極的には、たったひとりでこの世界の中にー「いる」ではなく―「ある」ということです。(中略)この孤独な「ある」から、その都度ごとに、それぞれ異なった一個の世界を汲みあげる―これこそが、わたしにとっては、アーティストであるということの本質です。
だから、わたしにとっては、それは職業名ではない。それによって生活が成り立つなどということでは必ずしもない。ましてや、それで社会的な承認が得られるなどという保証はない。にもかかわらず、それを引き受ける。孤独を引き受ける。そしてそこからひとつの世界を汲みあげ、花開かせ、つまりは表現する・・・誰かから依頼されたわけでもないこのミッションに応答する―そこにしかアーティストである意味はない。(110~111頁)
いま演習「現代人と孤独」では、任意の具体的な「作品」を取り上げてしてそこに描かれている孤独について考察するというのを課題の一つにしているが、その「作品」の作り手(アーティスト)の孤独ということについても思いを巡らす必要があることをこの文章は示唆している。
野菜とお豆のミネストローネ、キノコと牛肉のハヤシソース&マッシュポテトのパニーニ。だんだんパニーニの中身がボリューミーになっている。ランチとして申し分ない。
タルトタタンとフレンチブレンド。今季はこれで最後である。
店には1時間ほど滞在した。滞在中にある「悲劇」が起こった。
背中の方に荷物を置いて座っていて、食パンを押しつぶしてしまったのだ。「あまりにもお馬鹿さん」「あまにも悲しい」・・・そういう言葉がつい脳裏をよぎったが、これが新谷のり子という歌手の『フランシーヌの場合』(1969)という歌の一節であることがすぐにわかる人は60代も半ば以上の人だろう。
帰宅して、蘇生を試みる。「戻ってこい!」「帰ってこい!」・・・医療もののドラマでよく見かけるシーンである。しかし平行四辺形を長方形に戻すのが精一杯で、失われた厚み(ふっくら感)は戻らなかった。
「あまりにも悲しい」
博士学位申請論文の受理に必要な書類一式を準備する。
まもなく日没である。
夕食はシシャモのアヒージョ、茄子とベーコンの煮物、じゃこと胡桃の佃煮、味噌汁、ごはん。
食事をしながら『ライオンの隠れ家』第7話(録画)を観る。
食事を終えて、リビングのソファーへ移動。チャイももれなく付いてくる。
『村上RADIO』(月に一度、最終日曜日の夜に放送)を聞きながら、事務的な仕事を片づける。今日は「村上の世間話5」。要するに雑談であるが、興味深い話を聞けた。彼のことを早くから(群像新人賞の頃から)高く買っていた丸谷才一が亡くなって、外国から戻った彼が丸谷の家を弔問に訪れたとき、丸谷の息子さんが「実は父には世に出せない遺稿があるのです」という話をした。それは新聞社から依頼されて書いた「村上春樹ノーベル文学賞受賞」へのコメント(予定稿)だった。丸谷が87歳で亡くなったのは2012年10月13日。その2日前の11日、その年のノーベル文学賞は中国の作家・莫言に決まった。
以下に、村上春樹が群像新人賞を受賞したとき(1979年)の丸谷の選評の一部を紹介する。
村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に出来上がったものです。カート・ヴォネガットとか、ブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでゐる。その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持主でなければこれだけ学び取ることはできません。昔ふうのリアリズム小説から抜け出そうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとへ外国のお手本があるとはいへ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言っていいでしょう。・・・(中略)・・・とにかくなかなかの才筆で、殊に小説の流れがちつとも淀んでいないところがずばらしい。二十九歳の青年がこれだけのものを書くとすれば、今の日本の文学趣味は大きく変化しかけていると思われます。この新人の登場は一つの事件ですが、しかしそれが強い印象を与へるのは、彼の背後にある(と推定される)文学趣味の変革のせいでせう。(『丸谷才一全集』第12巻、362-3頁)
風呂から出て、今日の日記を付ける。
1時半、就寝。