フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月10日(月) 晴れ

2020-08-11 11:13:14 | Weblog

8時半、起床。

8月も中旬に入った。前半・後半よりも上旬・中旬・下旬の三区分の方が自分の生活感覚に合っている。

トースト、ハム&エッグ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

昨日のブログを書いてアップする・・・つもりだったが、終盤に来て、ちょっとした操作ミスで、書いた内容が消えてしまった。あらま。一から書き直しだ。

昼食はインスタントラーメン(サッポロ一番みそラーメン)。入れるものは朝食と同じハム&エッグだ。

高校以来の友人のKと電話で1時間ほどおしゃべり。「どうしてる?」という話になり、私は春学期がようやく終わって待望の夏休みに入ったが、すでに定年退職しているKにはそういう変化はなく、コロナ+猛暑でますます外出控え目の日々だそうである。Kとは正月に会って以来、ご無沙汰である。いつもであれば、5月あたりに彼の茅野の別荘「和楽亭」で会う(ついでに松本にも足を延ばす)のだが、コロナでできなかった。11月にも「和楽亭」を訪問するのが常だが今年はそれも無理だろう。コロナの時代の日常の特徴は「移動」の不自由と「対面」の忌避である。「朋有遠方より来る、また楽しからずや」という古来からの楽しみが奪われてしまった。

今日は夕焼けが美しかった。

少し近所を歩いてみた。コロナは必ずしも散歩の楽しみを奪わないが、猛暑は日中の散歩を困難にする。8月中旬はずっとこんな感じだろう。

夕食はカレーライス、サラダ。夏とカレーライスはよく合う。

猛暑の日々であるが食欲はある。春学期の間は客観的には空腹でも、空腹感をほとんど感じなかったのだが(食事の時間になったから食べるという感じだった)、オンラインの授業と会議の日々から解放されて、空腹感を覚えるようになったのである。

安藤宏「太宰治と現代」(「文藝別冊」『永遠の太宰治』河出書房新社、所収)にこんなことが書いてあった。

 太宰治の受け止め方は、時代と共に確実に変化してきている。一言で言い表すなら、かつての「無頼派」のイメージ――世の偽善や既成の権威に絶望的な反逆を試みる負の殉教者像――から、ネット社会のあらたな孤独の体現者へ、とでも言ったらよいのであろうか。(中略)
 たとえばSNSのコミュニケ―ションは匿名性を利用し、情報を小出しにし、厭になればいつでも一方的に手を切ることができるので、一見〝安全〟に見える。だが、実は相互の違いや距離を確認していくプロセスが手薄になるぶん、言葉は突如〔炎上」し、本来秘められている暴力的な牙を露わにすることになるだろう。
 かつての若者にとって、「孤独」とは「連帯」の対立語であった。共にかかわるべき状況がイメージされた上で、なおかつそこから疎外されるがゆえに「孤独」だったのである。だが現代においてすでにわれわれは、無条件には「連帯」を前提にできぬ状況を生きている。互いに傷付けあうのは厭だ。干渉されたくない。周りの人間と違う自分を絶えずどこかで確保しておきたい。けれどもそこにだけ閉じこもるのも不安だ。疎隔の度合いを絶えずチェックしておきたい。隔たっていると同時にどこかでつながっていたい。けれども気付いたときにはその努力に疲れ切ってしまい、索漠とした心理状態にある、というのが「孤独」の実態になってしまっているのではないだろうか。(80頁)

現代の若者の「孤独」を記述する部分には「けれども」が2つ含まれる。干渉されたくない(けれども)どこかでつながっていたい(けれども)そのことに疲れてしまう、と。屈折しているのだ。社会(他者)と「適度な距離をとる」ためには、社会(他者)と離れるというベクトルと社会(他者)に向き合うというベクトルの2つが必要だが、2つのベクトルの調整が上手にできる若者というのは少なく、多くの若者は2つのベクトルのどちらかに偏っている。偏って固定している場合もあれば、そのときどきで、あっちにいったりこっちにいったり、不安定な場合もある。そうした現代の「孤独」な若者の間で太宰治はあらたな支持を広げつつあると安藤は論じる。

自分一人だけが周囲と違っているということをこっそりささやきかけてくる『人間失格』は、今、あらたな意味を持ち始めているように思われる。あらかじめ自己と他者があって距離ができるのではない。他者との関係が、相互の距離を斟酌してやまぬ自意識によって立ち上げられるいくという事態・・・。現代の若い読者にとって、太宰治はもはや必ずしも「無頼派」ではない。周囲の人間との距離や隔たりを言葉でいかに創り出していくべきかという課題に、さまざまなヒントを与えてくれるのである。(81頁)

ただ、安藤の熱弁に水を注すようで気が引けるのだが、本当に若者の間で太宰が再評価されているのだろうか。昔から太宰が好きな若者はいたし、いまもいる。それがいまとくに増えているという実感は私にはない。若者はますます本を読まなくなってきているし、読む本の中で文学作品が占める割合はますます減って来ているというのが実感である。太宰治の再評価というのは、全体としての減少傾向の中での相対的な微増現象なのではないだろうか。もちろん安藤もそれは承知していて、そうした微増現象が全体としての若者の心理状況をシンボリックに表しているということなのかもしれないが、その場合、「太宰治を読む若者」は実体でなくメタファーとして見るべきだろう。

風呂から出て、「ジェットストリーム」をradhikoで聴きながら、今日の日記とブログ(構成)。 

就寝前に明日の スケジュールをメモ用紙に書いて机の上に置いておくのはリモートワークになってからの習慣である。

3時、就寝。