8時半、起床。昨日と違って今日は曇天。寒さが戻る。バタートーストとホットミルクの朝食。
昼から大学へ。昼休みの時間、弁当持参で研究室に遊びに来た1年生のA君とおしゃべり。1年生にとって、研究室を訪問して教員とおしゃべりをするというのは、「やってみたいこと」の1つなのであろう。だが、とくに話したいテーマや話題、聞いてみたい質問、聞いてもらいたい悩みとかはないようだったので(おしゃべりそれ自体が目的のようであった)、彼の出身地の秩父の話などをした。大学院生の頃、秩父でフィールドワークをしたことがあるので、秩父については多少知っているのだ。私が秩父名物のソースカツ丼(わらじカツ丼)について語ると、彼は同じく秩父名物の味噌じゃがについて語った。
3限は選択基礎演習。グループ発表でテーマは「優先席」であった。車内観察と学生と社会人(公開講座を受講している人たち)へのアンケート調査の結果を報告してくれたが、実は、当初のテーマとは違うのだ。彼らがやろうとしたのは道でものを落としたときに他人がそれを拾ってくれるかどうかの実験であった。ところが、何度やっても誰も拾ってくれる人がいないので、心が折れてしまって、テーマを急遽変更したのである。私は彼らに深く同情しつつも、初志貫徹で実験をとことんやってみるべきだったのではないかと思った。拾ってくれる人がいないなら、どうにかして拾ってもらうための工夫をすればよい。たとえば、落とすのは書類とかではなく、TVのCMに出てきそうな、紙袋一杯の林檎とか、黙って誰かが拾ってくれるのを期待するのでなくて、映画『世界の中心で愛を叫ぶ』の主人公のように、道にへたり込んで、「誰か、助けてくださ~い!」と天を仰いで叫んでみるとか。どこまでやれば、どんなふうにやれば、都会の道行く人が、通り過ぎずに、足を止めて、道に散らばったものを拾い集めてくれるのか、それを見究めるのである。10年くらい前になるが、二文の一年生たちが同じような実験をやったことがあって、そのときは、けっこう道行く人が足を止めて回収を手伝ってくれたと記憶している。実験の仕方の違いがあるのかもしれないが、単純に、都会の人々の無関心のレベルが上がったのかもしれない。
4限は演習「ケーススタディの方法」。グループ発表で、女性シンガーの歌うラブソングの変遷を1980年代から2000年代までヒット曲の分析を通して見ていったもの。あみんの「待つわ」に象徴される「待ち」の姿勢からだんだんと積極的な姿勢になってきたのがわかる。相手を「あなた」ではなく「君」と呼ぶようになってきたのも関係性がフラットになってきたことの証左であろう。「運命の人と出会う」という恋愛における大きな物語は崩れてきているとの指摘だったが、これには私は疑問を呈した。多くの相手と付き合うことは、「運命の人と出会う」ための過程として説明することもできるのではないかと。「この人ではない」「この人でもない」と自分が「この人だ!」と思える人と出会うための恋愛遍歴もあるのではないかと。ちなみに私のこの問題提起を受けて、その場で緊急アンケートが行われたが、「運命の人」の存在を肯定する学生(多くは女子学生であったが)が多数派を占めた。ここから、ディスカッションはラブソングというポピュラーカルチャーの分析から外れて、急速にただの恋バナに傾斜していったように思う。
今日は夜間当番の日。夕食は「ごんべえ」の釜揚うどん(かやくご飯付き)。
10時半、帰宅。アマゾンに注文しておいた谷川俊太郎の詩集『夜のミッキーマウス』(新潮文庫)が届いていた。孤独とエロスを漂わせた作品が収められている。たとえば、「百三歳になったアトム」。
百三歳になったアトム
人里離れた湖の岸辺でアトムは夕日を見ている
百三歳になったが顔は生れたときのままだ
鴉の群れがねぐらへ帰って行く
もう何度自分に問いかけたことだろう
ぼくには魂ってものがあるんだろうか
人並み以上の知性があるとしても
寅さんにだって負けないくらいの情があるとしても
いつだったかピーターパンに会ったとき言われた
きみおちんちんないんだって?
それって魂みたいなもの?
と問い返したらピーターは大笑いしたっけ
どこからかあの懐かしい主題歌が響いてくる
夕日ってきれいだなあとアトムは思う
だが気持ちはそれ以上どこへも行かない
ちょっとしたプログラムのバグなんだ多分
そう考えてアトムは両足のロケットを噴射して
夕日のかなたへと飛び立って行く