ずっと傍にいると、あらためて思う機会も少ないが・・・母は、日々、少しずつ少しずつ、出来ることが減っている。非情な言い方になるが、介護する側にとって、それは決して悪いことではない。出来ないことをフォローする作業は、さして苦にならないが、して欲しくないことをし、聞きたくないことを言う、それに付き合い、後始末することに、心が疲れ果ててしまう・・・だから、面倒を起こすことすらできなくなりつつあることを、残酷なわたしは歓迎してしまうのだ。
本人にとってはどうだろう・・・たぶん、本人も、どんどん楽になっていっていると、わたしは勝手に自分の都合の良いように考えている。本人も、そして周りの家族も、一番辛かったのは、身体的にも精神的にも変化が始まり、それがどうしても受け入れがたくて苦悩していた時期だと思う。なんとかしたい、なんとかできるはずだ、どうしてこんなことに、いったい私に何が起こっているのだろう。そして、自分など役立たずだ、家族の迷惑にしかなっていない、死んだ方がましだ、死にたい。どうしてあげようもない要求や、答えようのない質問が、エンドレスの堂々巡りで投げつけられる。その時期が終わると、手はかかるし、ある程度の奇行は続くが、お互いの心を傷つけあうようなことは、格段に減っていく・・・これを有難いと、わたしは感じてしまっている。
けど・・・そんな母に、人としての尊厳があるといえるのだろうか。少なくても、わたしは、今の母のようになりたいとは思えない。だから、三十年後、いや二十年後、もしかしたらもっと近い未来に、自分が今の母のようになってしまったら・・・母の介護が始まって以来、わたしはずっとそのことを考えていた・・・
ただ・・・最近・・・ほんの少しだけ、わたしの心に変化が起きているような気がする・・・
母が、この数年、そしてこの先の年月で、わたしに見せてくれるものは・・・生き物としての朽ち方の一つの形ではないのか・・・
わたしたちは、ついつい、存在の意義を有益性で測ってしまう。それでいくと、生殖能力も失い、働き手として役に立たなくなれば、その存在意味はなくなってしまう。乱暴な言い方をするなら、"用済みだからさっさと消えろ"という存在になってしまう。これは、なんというか・・・動物的考えだと思うのだけど、どうだろう・・・
それに対して、今、母がわたしに見せてくれているのは、なんというか・・・植物的な命の全うの仕方のように見えてくれるのだ・・・
芽を出し、若葉が育ち、ぐんぐん成長して葉を茂らせ、蕾をつけて花を咲かせる、花が終われば種を飛ばし・・・あとは、少しずつ少しずつ朽ちていく・・・少しずつ少しずつ・・・
ガーデニングをしている人なら、この少しずつ少しずつの時間を待たずに、さっさと処理してしまうのだろうけど、自然界だと、見た目には美しくないかもしれないが、少しずつ少しずつ、萎れて枯れて、やがて土にかえっていくのに、それ相応の時間を費やす・・・
母は、動物的な最後ではなく、植物的な最後を歩んでいるのだろうか・・・美しいとは言い難い、有益とも言い難い、それでも、それ相応の時間を費やして、ゆっくりゆっくり朽ちていく・・・のだろうか・・・・・
本人にとってはどうだろう・・・たぶん、本人も、どんどん楽になっていっていると、わたしは勝手に自分の都合の良いように考えている。本人も、そして周りの家族も、一番辛かったのは、身体的にも精神的にも変化が始まり、それがどうしても受け入れがたくて苦悩していた時期だと思う。なんとかしたい、なんとかできるはずだ、どうしてこんなことに、いったい私に何が起こっているのだろう。そして、自分など役立たずだ、家族の迷惑にしかなっていない、死んだ方がましだ、死にたい。どうしてあげようもない要求や、答えようのない質問が、エンドレスの堂々巡りで投げつけられる。その時期が終わると、手はかかるし、ある程度の奇行は続くが、お互いの心を傷つけあうようなことは、格段に減っていく・・・これを有難いと、わたしは感じてしまっている。
けど・・・そんな母に、人としての尊厳があるといえるのだろうか。少なくても、わたしは、今の母のようになりたいとは思えない。だから、三十年後、いや二十年後、もしかしたらもっと近い未来に、自分が今の母のようになってしまったら・・・母の介護が始まって以来、わたしはずっとそのことを考えていた・・・
ただ・・・最近・・・ほんの少しだけ、わたしの心に変化が起きているような気がする・・・
母が、この数年、そしてこの先の年月で、わたしに見せてくれるものは・・・生き物としての朽ち方の一つの形ではないのか・・・
わたしたちは、ついつい、存在の意義を有益性で測ってしまう。それでいくと、生殖能力も失い、働き手として役に立たなくなれば、その存在意味はなくなってしまう。乱暴な言い方をするなら、"用済みだからさっさと消えろ"という存在になってしまう。これは、なんというか・・・動物的考えだと思うのだけど、どうだろう・・・
それに対して、今、母がわたしに見せてくれているのは、なんというか・・・植物的な命の全うの仕方のように見えてくれるのだ・・・
芽を出し、若葉が育ち、ぐんぐん成長して葉を茂らせ、蕾をつけて花を咲かせる、花が終われば種を飛ばし・・・あとは、少しずつ少しずつ朽ちていく・・・少しずつ少しずつ・・・
ガーデニングをしている人なら、この少しずつ少しずつの時間を待たずに、さっさと処理してしまうのだろうけど、自然界だと、見た目には美しくないかもしれないが、少しずつ少しずつ、萎れて枯れて、やがて土にかえっていくのに、それ相応の時間を費やす・・・
母は、動物的な最後ではなく、植物的な最後を歩んでいるのだろうか・・・美しいとは言い難い、有益とも言い難い、それでも、それ相応の時間を費やして、ゆっくりゆっくり朽ちていく・・・のだろうか・・・・・