自分の今までの生活を振り返ってみて、そんなに忙しくしていたことなどなかった気がするのだけど・・・何故か、不必要に、セカセカと作業をする癖がある。
たとえば・・・車を運転していても、一人だと、赤信号の度に、何かしらの用事をしている。別に、目的地に着いてから(帰宅してから)しても良いことなのに、赤信号中という手持無沙汰な時間を何かしらで利用しようとしてしまう。
たとえば・・・コーヒーを淹れている時、お湯を注いで珈琲豆が膨らむ僅かな時間、一分にも満たないような時間でも、その間に、何か珈琲を淹れる以外の一作業をしようとしてしまう。
一事が万事、そんな風なのだ・・・
じゃあ、それで作り出した時間に何をするかといえば・・・ただ、ぼぉ~~っとしている・・・まったくもって意味が分からない!!
運転中の赤信号の待ち時間、珈琲を淹れる時の蒸らしの時間・・・これらは決して、無駄な時間ではない。ほんとうは、疎かにしてはいけない作業工程の一部だ。そこで、他のことに気をとられていたら、その作業から得られるはずのものを、自ら捨ててしまっていることになる。一見、効率よく、要領よく動いているようで・・・その実、なにもかもを中途半端に終わらせてしまっているということだ。それでは、ほんとうのことは何も得られない。
実際、目が回るような忙しい生活をしている人には、マルチタスク的作業が出来ることは好ましいと思う。そうでなければ、必要不可欠な作業を時間内に終了できなくなるかもししれないし・・・
でも、わたしのように、暇がありすぎて、何して過ごせば時間が潰せるだろと悩んでいるような人間にとっては、一つ一つの作業は、それだけにじっくり意識を集中させて・・・そうしなければ得られないものを味わうのが好いに決まっている。それこそが贅沢な時間の過ごし方と言えるのでしょ?ねっ!
でもねぇ~・・・そう思っても、性分なのか、身についた癖なのか・・・過程を楽しむっていうのが苦手で・・・つくづく心の貧乏性だなぁ~と、自らを憐れむのでありました。
たとえば・・・車を運転していても、一人だと、赤信号の度に、何かしらの用事をしている。別に、目的地に着いてから(帰宅してから)しても良いことなのに、赤信号中という手持無沙汰な時間を何かしらで利用しようとしてしまう。
たとえば・・・コーヒーを淹れている時、お湯を注いで珈琲豆が膨らむ僅かな時間、一分にも満たないような時間でも、その間に、何か珈琲を淹れる以外の一作業をしようとしてしまう。
一事が万事、そんな風なのだ・・・
じゃあ、それで作り出した時間に何をするかといえば・・・ただ、ぼぉ~~っとしている・・・まったくもって意味が分からない!!
運転中の赤信号の待ち時間、珈琲を淹れる時の蒸らしの時間・・・これらは決して、無駄な時間ではない。ほんとうは、疎かにしてはいけない作業工程の一部だ。そこで、他のことに気をとられていたら、その作業から得られるはずのものを、自ら捨ててしまっていることになる。一見、効率よく、要領よく動いているようで・・・その実、なにもかもを中途半端に終わらせてしまっているということだ。それでは、ほんとうのことは何も得られない。
実際、目が回るような忙しい生活をしている人には、マルチタスク的作業が出来ることは好ましいと思う。そうでなければ、必要不可欠な作業を時間内に終了できなくなるかもししれないし・・・
でも、わたしのように、暇がありすぎて、何して過ごせば時間が潰せるだろと悩んでいるような人間にとっては、一つ一つの作業は、それだけにじっくり意識を集中させて・・・そうしなければ得られないものを味わうのが好いに決まっている。それこそが贅沢な時間の過ごし方と言えるのでしょ?ねっ!
でもねぇ~・・・そう思っても、性分なのか、身についた癖なのか・・・過程を楽しむっていうのが苦手で・・・つくづく心の貧乏性だなぁ~と、自らを憐れむのでありました。