既にお気づきの方も多かろうと思うのですが、拙ブログでは小説と漫画を「本」という枠に同じくしてまとめている。
これは、私が幼少時から、漫画と小説を分けることをしなかったからだ。もちろん、学校の先生は、そんなことを許しはしなかったが、私は何度となく先生に向かって「なんで漫画の感想文はダメなんだ!」と抗議したものです。
私にとっては、小説であろうと漫画であろうと、現実から離れて未知の世界を覗かせてくれる以上、それは区別されるべきではないのです。両親の離婚や、繰り返す引越しと転校。学校での教師との軋轢や転校生イジメなどの現実から、私を救ってくれたのが本の世界でした。
その本が、文章だけであろうと、挿絵があろうと関係ない。漫画だって私を十分に助けてくれた。本がなかったら私の心は散り散りになっていた。本の世界に埋没することで、私はかろうじて現実と折り合いをつけていたのだ。
もちろん文字情報だけの小説と、絵と科白により物語が綴られる漫画では、その表現法の違いから区別されるべきとの考えも理解できる。文字だけで表現する制約と、その制約あるがゆえに絵よりも自由に表現できる文章の凄さも理解できる。
でも、私の心に感動を与えてくれる本が、小説だから、漫画だからとの理由で差別されるのは許しがたい。区分されるだけなら構わないが、大人の社会には明らかに小説を漫画よりも上位に置きたがる現実があることは、厭でも気が付かされる。
文芸書しか取り扱わない出版社が、漫画を下位に見下すのはまだ許せる。その矜持は貴重なものだと思うからだ。しかし、漫画出版により多大な利益を得ている出版社にあって、小説部門を扱う事業部が、漫画を扱う事業部を見下すのは許しがたいと思っている。
内心漫画を見下している小説家が、実は漫画の原作をやりたがっていることは珍しくない。理由は簡単で、漫画の原作の原稿料のほうが、小説よりも高いからだ。それくらい、漫画の売り上げは出版社を経済的に潤している。
にもかかわらず、漫画を担当していた編集者よりも、小説を担当していた編集者のほうが出世することが多いのが普通なのが出版業界である。会社に対して、より利益を上げた者こそが出世するべきだと思うが、出版社はそうではないらしい。
私としては容認しがたい不平等な現実である。
もっとも現実社会は、不平等、不公平、不正が溢れている。正論が通らず、正義が蔑ろにされ、なにが正しいのかさえ確定していない。不安と不満と不平に満ちているからこそ、現代社会は苛立たしい。
だからであろう。飲み屋には人が溢れ、酔漢が路上でふらつく。誰が吸ったのか、タバコの吸い殻は必ず路上に残置され、着飾ってクラブで踊り、一夜の悦楽に身を委ねる人々は繁華街に掃いて捨てるほどありふれている。
私が都会の繁華街で時を過ごすようになるのは、十代後半からだが、その頃から気が付いていた。都会の繁華街を得意げに遊び泳ぐ人たちには、そうでない人たちを見下す傾向があることを。
早く大人になりたくて仕方のなかった私も、繁華街で遊べるようになることを大人への第一歩だと考えていた。ただ、繁華街で遊ばない人たちを見下す気持ちはなく、そのおかしな認識に違和感と少しの反感を抱いていた。
まるで漫画を見下す文芸家と同じではないか。別に夜を家で静かに趣味に没頭して暮らす生き方だって悪くないし、人生を楽しんでいることに変りはない。他人を見下すことで、優越感に浸る安易さが私は嫌いだった。
だだ、夜の街には独特の魅力があることも認めている。都会は他人に無関心だ。だからこそ、不法な悦楽に身を委ねる人々が絶えることはない。まだ未熟な若者には、この怪しい魅力に安直に引き付けられることが多々ある。
本人は、周囲の同級生と自分は異なる一段上のステージに立っているつもりである。この感覚は私にも多少、覚えがあるが、家にこもって読書の世界に埋没する悦楽を知っていた私は、夜の街の魅力に囚われることはなかった。
私の遊び仲間の大半は、運動馬鹿が多かったせいか、夜の街の魅力を楽しみつつも、それに固執することはなかったが故に、ある意味健全でいられた。でも、少数ながら、夜の街の魅力に囚われてしまった奴らもいた。
成人になり、無事に抜けられた奴らが大半だが、そうではない連中もいた。残念ながら、今では連絡が取れなくなっている。残念ながら20代の若さで死んだ奴がいることも知っている。
今なら分かるが、夜の街の魅力はネオンの輝きの魅力であり、人工の灯りによる煌めきだ。その眩いばかりの美しい光源の裏に隠されていた、人の欲望を肥やしとするどす黒い欲望の土壌に咲く危険な燈火であることが、若い頃には分からなかった。
表題の作品を読みながら、私は十代の頃、渋谷の街で遊んでいた頃を思い出さずにはいられなかった(続く)。