ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

モネ展

2014-01-31 12:45:00 | 日記

光が描けなかった。

絵を描くのが好きな子供であった私が、自分の才能に限界を感じたのは10代初めであった。小学生の頃は、区から賞をもらって展覧会に展示されたこともあった。

でも、私はそのことを誇りに思うよりも、恥ずかしいとの気持ちのほうが強かった。自分が描きたいと思っているイメージと、実際に描いた絵とのギャップに悩んでいたからだ。

あくまで子供のレベルでの話だが、私は光の変化を絵に表したいと願っていた。しかし、その技法を知らなかった。あくまで学校の美術の授業で教わるレベルであり、本格的に絵を学んだことはない。

しかも、私は授業をまともに聞いていない注意力散漫な子供であったから、美術の時間も一人で勝手に悪戯描きをノートに描く事に夢中であった。だから、絵を描く技法自体、まるで知らなかった。

ただ、母は私たち兄妹を美術館や博物館に連れて行ってくれたので、幼い理解ながらも高いレベルの絵を鑑賞する機会だけはあった。あの頃、私が憧れたのが、水草が咲き乱れる池を描いた絵であった。

どこで観たのかは覚えていない。ただ、その絵からは光が揺らぐのが感じ取れたことだけは覚えている。こんな絵が描きたかった。でも、描き方を知らなかった。

描きたいものが描けないジレンマに悩み、いつしか私は絵を描くのをさぼるようになった。読書に夢中になっていたせいでもあるが、幼い頃は白紙のノートに、やたらめったら絵を描いていたのに、中学生の頃には描かなくなっていた。

描き続けなければ、なおの事下手になる。自分の絵がますます下手になることを一人勝手に恥じていたので、高校生の頃には素描でさえまともに描けていなかった。

再び絵を描きたいと思ったのは、大学4年の頃だ。ワンゲルの部活が引退となり登山ものんびりしたもになってから、ようやく山のスケッチを描きたいと思えるようになった。

社会人になったら、夏と秋はフリークライミング、冬から春は低山ハイクでのんびり山のスケッチ画を描こうと考えていた。まさか難病で山に登れなくなるとは予想だにしなかった。家と病院を往復するだけの毎日は、私を飽きさせ、再び絵を描くことも考えた。

しかし、長く苦しい闘病生活は私の心までも病み衰えさせてしまい、絵を描けば暗い怨念が湧き出てきそうになり、怖くなって描く事を止めてしまった。

それでも不思議なことに絵を観ることだけは、密かに続けていた。入院中に外出許可を貰ってまでして観に行ったのは「ターナー展」だし、病状が安定して税理士試験に挑んでいる最中も、空いた時間に上野の美術館を散策していた。

そこで、ようやく気が付いた。私がこんな絵を描きたいと考えた契機となったのは、モネの睡蓮の絵であったことに。思えば、私がターナーに惹かれたのも、彼が美しい光を描写する絵を描く人であったからだ。

久しぶりに観たモネの絵からは、静かな池に咲く睡蓮の花の上に降り注ぐ日差しが、柔らかに描かれていた。そう、こんな絵が描きたかったのだ。

あれから20年以上が経ったが、未だ私は絵筆をとることはない。仕事が忙しいとか、読みたい本があるとか言い訳は沢山あるが、なにより絵筆を手に取って描きたいとの思いが募らないことが最大の原因だ。

それでも絵を観ることは好きだ。年末のターナー展は都合が付かずに行けなかったが、モネ展はなんとか観に行けた。静かで、柔らかで、穏やかな風景は何時みてもいいものだ。

日々の私の心とは裏腹であるがゆえに、私はモネの絵が好きなのだろうと思うな。

コメント (4)
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