読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

絶対音感

2006年03月08日 | 人文科学系
最相葉月『絶対音感』(小学館、1998年)

「絶対音感」 なんて知的で、優越感を与える響きなんだろう。絶対音感をもっていると、なにやらそれだけでもう天下を取ったような、イメージを与えるのは何故だろう。この絶対音感にさまざまな角度から光を当てて解明していったのが本書である。

この本を読む前から私は絶対音感について次のような疑問を感じていたのだが、やはりそれにも触れられていた。

第一に、才能というものは持っているにこしたことはないが、べつになくても困りはしない。人間の聴覚が生まれたときにはあらゆる言語にあらゆる音に開かれているが、3歳くらいまでに固定してしまうからといって、またそれ以前に日英のバイリンガル的環境にいればどちらもネイティブスピーカーのように使えるようになるからといって、そもそもそのような環境にないのに、そのような環境を仮想的に作り上げてバイリンガルとかトリリンガルを養成しようと考えることはどうなのだろうかと思う。同じように、3歳までに音とその音名を覚えさせれば絶対音感が形成されるからといって、自然に生活環境からそうした能力が形成されるのではなくて、むりやりそうした環境を作って絶対音感をつくりあげることにどんな意味があるのだろうかと思う。絶対音感をもつことによって、失われるものがある。

第二に、「絶対音感」の絶対とは何かということだ。自然界に絶対的な基準となる音は存在しない。現在について考えてみよう。通常、絶対音感といわれるのは、親がピアノの音を鳴らしてそれの音名を教えていくというものだ。それはそれでいい。だが通常音あわせの基準となるAは440ヘルツだったり442ヘルツだったりする。440ヘルツが世界基準だとしよう。それはそれでいい。だがBさんの家庭のピアノが438ヘルツになっていたり、Cさんの家庭のピアノが442ヘルツになっていたら? その家庭で絶対音感を形成したB君のA音とC君のA音は4ヘルツ違っていることになる。彼らが一緒に音楽を演奏する時、困ることにならないだろうか?これと同じことが全世界的規模で起こっている。

今度は歴史的に見てみよう。現代人の絶対音感は完全等分平均率に調律されたピアノの音によって形成されているが、モーツアルトやもっと以前のバッハたちはおそらく中全音律によって調律されたピアノフォルテあるいはオルガンによって形成されている。そもそもの和音の響きが現代人とバロック期の音楽家とではちがうわけで、バッハの頭のなかに響いていた和音は現代人の絶対音感の持ち主のそれとはちがうとなれば、この絶対とはなんなのだろうかということである。もちろん音が固定された鍵盤楽器を主に音楽活動をしていた人と、バイオリンやチェロのような弦楽器を使っていた人ともことなる。交響曲などができる以前の小編成のアンサンブルが主流の頃と、オーケストラが主流の頃とでは調律法も異なっているだろうから、絶対などというものはありえない。それは五島みどりがアメリカでぶちあった壁であったことなども触れられている。

そういう意味で、この本も最後には絶対音感とか完璧なテクニックとかが音楽のすべてではないし、主たるものでもないというところに、千住真理子とか様々な指揮者の例をあげて話を進めているのは当然のことだろう。千住真理子が15歳にしてテクニックにおいては完璧なバイオリニストになり、それゆえにテクニックが完璧であったがゆえに、中身がなにもないことを余計にさらけ出してしまったという経験を語っているが、これこそ音楽とはなにかを教えるエピソードだろう。

絶対音感、それは麻薬のようなものだと思う。使いようによっては善にも悪にもなる。だが、通常は要らないものだ。

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