丸山圭三郎『ソシュールの思想』(岩波書店、1981年)
丸山圭三郎という人は、私が学生の頃には、ただの語学屋だと思っていた。たくさんの語学教材を編集していたからだ。ところがこの本を読んで、彼に対する印象は一変した。それにこれを出版してから、まるでブレークしたかのように、次々と現代思想関係の著作(『ソシュール小辞典』『生命と過剰』『文化のフェティシズム』『文化記号学の可能性』などなど)を出版しているから、彼自身にとっても転換点となるような著作だったのだと思う。
名前だけはよく知られているのに、その思想の革命性がいまひとつよく分からないということが多々ある。もちろんこちらの非才ゆえのことが多いのだが、ソシュールの場合は、私が学生の頃にはすでによく知られていたが、セシュエとバイイが編集した『一般言語学講義』にもとづいて、あれこれの分野の思想家が換骨奪胎してあれこれの理論を展開しており、構造主義といわれるものが、百花繚乱の時代だったが、これを読むと、上記の二人はソシュールの言語思想をひどく歪めていたことが分かる。
それにしても言語学にはまったく疎い私にでも、丸山圭三郎のこの本は理解できた。しかもソシュールの言語思想が一般に流布しているソシュール理論といわれるようなものといかに乖離しているかがよく分った。ランガージュとラング、ラングとパロールの違い、言語記号の恣意性、シニフィアンとシニフィエ(ほんとにこの言葉ほど論者の好き勝手な意味を付与されて使われている言葉もないだろう)、価値体系としてのラングなど。
そして興味深かったのは、、『講義』の原資料から構築されたソシュールの言語思想に照らしてみた時、現代思想家たち(メルロ=ポンティ、テル・ケル派、バルト、サルトルたち)のソシュール理解がどのように見えてくるかという観点から、両者を読み解いていく第二部である。さすがに現代思想の先端を行く思想家たちは、けっして人の理論の受け売りではなく、つまり間違って作り出された「ソシュール理論」をそのまま受けいれたにしても、それを批判して、真のソシュール理論に近い主張を展開するなどして、自分なりに消化吸収していることがよく分かる。これこそ真の思想家を浮き彫りにする試金石のようなものだ。
丸山圭三郎という人は、私が学生の頃には、ただの語学屋だと思っていた。たくさんの語学教材を編集していたからだ。ところがこの本を読んで、彼に対する印象は一変した。それにこれを出版してから、まるでブレークしたかのように、次々と現代思想関係の著作(『ソシュール小辞典』『生命と過剰』『文化のフェティシズム』『文化記号学の可能性』などなど)を出版しているから、彼自身にとっても転換点となるような著作だったのだと思う。
名前だけはよく知られているのに、その思想の革命性がいまひとつよく分からないということが多々ある。もちろんこちらの非才ゆえのことが多いのだが、ソシュールの場合は、私が学生の頃にはすでによく知られていたが、セシュエとバイイが編集した『一般言語学講義』にもとづいて、あれこれの分野の思想家が換骨奪胎してあれこれの理論を展開しており、構造主義といわれるものが、百花繚乱の時代だったが、これを読むと、上記の二人はソシュールの言語思想をひどく歪めていたことが分かる。
それにしても言語学にはまったく疎い私にでも、丸山圭三郎のこの本は理解できた。しかもソシュールの言語思想が一般に流布しているソシュール理論といわれるようなものといかに乖離しているかがよく分った。ランガージュとラング、ラングとパロールの違い、言語記号の恣意性、シニフィアンとシニフィエ(ほんとにこの言葉ほど論者の好き勝手な意味を付与されて使われている言葉もないだろう)、価値体系としてのラングなど。
そして興味深かったのは、、『講義』の原資料から構築されたソシュールの言語思想に照らしてみた時、現代思想家たち(メルロ=ポンティ、テル・ケル派、バルト、サルトルたち)のソシュール理解がどのように見えてくるかという観点から、両者を読み解いていく第二部である。さすがに現代思想の先端を行く思想家たちは、けっして人の理論の受け売りではなく、つまり間違って作り出された「ソシュール理論」をそのまま受けいれたにしても、それを批判して、真のソシュール理論に近い主張を展開するなどして、自分なりに消化吸収していることがよく分かる。これこそ真の思想家を浮き彫りにする試金石のようなものだ。