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脳死

2009年06月19日 | 日々の雑感
脳死

昨日の衆議院本会議で、脳死を人間の死とするということが決まったらしい。私は脳死を人間と死とすることには反対である。

第一に、脳死ということ自体が本当に脳死なのかどうか疑わしい。いったいなにをもって脳死というのか、いわゆる自分を自分として認識できるような大脳の部分が機能しなくなった場合に脳死というらしいが、しかしそれだって完全な脳の死とはいえず、だから、脳死と言われながら、体をコントロールする機能は残っていて、妊婦が出産をしたり、体が成長したりということがある。

第二に、そういう疑わしい脳死規定にもとづいて、脳死だから死んでいるんだという規定をすることは疑わしきに輪をかけて疑わしい。現実問題として上にも書いたように、脳死だと言われながら、出産したり、体が成長している場合がほとんどなのだから、それは死とは言えないのではないだろうか。そういうことが可能ということは、脳の一部が生きていて、そうしたことをコントロールしているからであって、そうであれば、それは死んでいるとは言えない。

第三に、にもかかわらずそれを死んでいると規定するのは、議論の仕方が臓器移植ありきということになっているからで、本当に人間の死とは何かを議論したからではない。なんとかして生きている心臓を取り出して移植したいから、脳死は人間の死だと規定して生きている人間を死んでいるとみなしたいのではないか。それは本末転倒というものだ。

こんな規定が通ってしまったら、「あなたのお子さんは脳死です。お亡くなりになりました」と医者から言われて、「いやこの子はまだ生きている」と言って家に引き取って看病し続けたら、死体隠匿とか言われるのだろうか? もちろん死体に医療をほどこすなんてことはありえないから医者からも生命維持のための医療を拒否されることになるのだろうか? きっと医者は医療を拒否するだろう。死者に医療をほどこすなんてありえない。

心臓が止まったという本当の意味での死の場合でも、生き返ることがあるかもしれないということで、まるまる一日は荼毘にふすことができないのに、生きているのに、脳死だから、早く心臓を求めている人に移植しないといけないということで、切り刻まれてしまうなんて、信じられない。

第四に、もし脳死は死だということになれば、闇で脳死者の臓器売買が行われるようになるのではないか。現在は脳死は死ではないから、脳死患者の臓器を売買すれば、犯罪、しかも殺人罪になるが、脳死が死だということになれば、闇で脳死者の臓器を売っても、それは殺人罪にはならない。どの程度のことになるのか私には分からないが。通常の臓器提供はたぶん無料のはずだから、闇で売買しようとするやからが暗躍するようになることは目に見えている。

最後に、では脳死を死と認めないのなら、心臓移植でなければ助からないような人たちの助かる命も助からないではないかという反論には、私は答えるつもりはない。

すべての生命は、動物であれ植物であれ、ほかの命の死の上にその命を維持している。人間だって野菜という生命や家畜という生命を屠って生命を維持している。にもかかわらず、殺人が許されないのはなぜなのか考えてみて欲しい。
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