井上ひさし作『頭痛肩こり樋口一葉』(劇団大阪シニア演劇大学「豊麗線」第6回公演)
小説家を描くと言っても、絵描きさんが絵を描いている姿とは違って、小説家が文箱に向かってものを書いている姿は、はっきり言って絵にならない。だからこの芝居では、小説家を取り巻く家族や友人知人や恋人を登場させて、小説家の頭の中がどんなふうに動いているかを切り取って見せる。
会場でいただいたパンフレットを見ると、幸福な少女時代を過ごした後、14才で中島歌子の歌塾に入門し、18才で菊坂町の借家に転居とあるから、この芝居はこの時期から始まる。
この頃には中島歌子の歌塾を辞めて、好きになった小説家の影響もあって小説を書き始める。
御家人をしていたという母親の外面のよさのせいもあり借金に借金を重ねる家計を支えるためにも次々と小説を書き続ける姿が、舞台に示される。
そこにかつて旗本のお姫様だったが夫の殿様商売のために没落したおばさんや判事と結婚した八重や幽霊の花蛍などが出てきて、樋口一家とからんでいく。
たまたま今日の朝日新聞の「古典百名山」のコーナーで平田オリザが森鴎外の『椿姫』のことを書いている。先月は樋口一葉の『たけくらべ』だったようで、読者からの質問に答える形で、一葉のことを次のように書いている。
鴎外の『椿姫』は、明治初期のエリートたちが「自由」を得たはずなのに、西洋の合理主義と古い体制に挟まれて、家や国家にがんじがらめにされているという自己を発見して苦悩する姿を描いているが、一葉はこのエリートたちの近代的自我の苦悩がじつは庶民にもあったのだということを発見した、というのである。
井上ひさしがはたしてこの芝居でそうした苦悩を描き出そうとしていたのかどうか、私には心許ない。だが、和歌では自分の世界観が表現できないからと言って、和歌という表現形式に見切りをつけたことを明言させている。「内助の功、内助の功」って言うけど、女には内助の功しか生きる道がないの?と詰め寄るところは、明治初期の女性の生きにくさを示しているのだろう。
また幽霊の花蛍が自分を不幸のどん底に落とした張本人を探して500人もの相手を芋づる式にたどって行った結果、世の中というものにたどり着くという話は、庶民も世間というものにがんじがらめにされているという庶民の近代的自我の苦悩の本質を、このエピソードの形で提示しようとしていたのではないかと思わせる。
こうやって見るとただただ面白おかしい芝居というだけではない、奥深さをこの芝居は持っているということが感じられた。
シニアの演者たちということで、ずいぶん芝居の登場人物の設定年齢と離れていて、ときどきセリフも詰まったり、変に空白ができたりして、見ている方もハラハラ・ドキドキだったが、「抱腹絶倒痛快コメディ」ということで、楽しめた。
夏子(樋口一葉)役の人が主人公だけに一番シャキッとしていたが、邦子役の人も若々しい雰囲気が出ていたし、八重役の名取由美子は、女郎になって、稲葉の奥さんから夫を奪ったと譴責されると、開き直って啖呵を切ったところなど、なかなか粋だった。花蛍の役の人も天然ボケっぽい演技が面白かった。豊麗線の皆さんに拍手喝采!