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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『こうもり』

2015年07月20日 | 舞台芸術
ヨハン・シュトラウスⅡ『こうもり』(河内長野市マイタウンオペラvol.14、2015年)

ワルツの王ヨハン・シュトラウスⅡが作曲した喜歌劇(オペレッタ)『こうもり』を観てきた。最高に楽しい、素晴らしい上演だった。配役もドンピシャ、日本語上演も、随所にアドリブのようなセリフが入っていて、東京では決してできない、まさに大阪版『こうもり』だった。

序曲はよく演奏会などでも単独で演奏されるほど有名なモチーフがてんこ盛りのオーケストラ曲で、これだけで、ああ知ってると思わせる。

第一幕は、かつてアイゼンシュタインにからかわれてみっともない姿を町中に晒してしまったファルケ(つまりこうもりとアダ名されている人)が、復讐のために(と言ったら少々怖い感じになるが、遊びのつもりで)アイゼンシュタインを嵌めてやろうと企む。訴訟に負けて、次の日から刑務所入りするのだが、名前を変えてオルロフスキー殿下(オフロスキー?とわざと言い間違えるのも傑作)の主催する舞踏会に出かけていく。夫がいなくなったので、妻のロザリンデも仮面をつけて舞踏会へ。おまけに女中のアデーレも奥様のドレスを失敬して友人のイーダとともに舞踏会へ。唯一、ロザリンデの愛人のアルフレードは、アイゼンシュタインと間違われて、刑務所入り。

第二幕は、舞踏会。市民オペラなので、ここで市民合唱団の人たち(多くはもう相当の老人たちばかり、しかも男性と女性の比率が1対2くらいなので、男性は両手に花状態)が多数登場するし、特別に近所の高校のハンドベル演奏あり、これまた近所の創美バレエスクールのチャルダーシュのダンスありで賑やか。仮面をつけた謎の美女(アイゼンシュタインの妻)に首ったけになったアイゼンシュタイン、刑務所所長のフランクはアデーレといい仲に。

第三幕冒頭は、留守番を頼まれた刑務所看守のフロッシュの独演会が傑作。これは通常どの程度の時間を取るのかしらないが、はまり役の山中雅博の独壇場で30分を一気に。めちゃめちゃ気取っているのに、大阪っぽい清原邦仁のアルフレードとフロッシュのやりとりも面白いし、刑務所所長のフランクとアイゼンシュタインとのやりとりも日本語上演ならではの言葉遊びで観客を沸かせた。

こんな楽しいオペラは初めてだった。大阪のオペラ人に拍手喝采!河内長野市のようなそれほど大きくもない町の市民オペラで資金的にも大変だろうけど、ぜひ続けて欲しい。



『米朝ばなし』

2015年05月29日 | 舞台芸術
桂米朝『米朝ばなし』(講談社文庫、1984年)

私が若い頃に米朝の落語をよく聞いて覚えてしまい、自分でもやったことがあるというような話は以前こちらに書いたので繰り返さない。

その当時は枝雀が好きだったのに、テープをよく聞いていたのは米朝だった。たぶんテープでは枝雀の良さが伝わらないと思っていたのだろう。そういう意味では、米朝なら与しやすいと少々侮っていたのかもしれない。

しかし米朝一門会などで米朝を聞くようになると、だれもが指摘する「艶っぽさ」が本当なんだと見えてくる。そして上方落語を復興させたのも米朝だというようなことを知るにつけ、これはすごい人なんだなと、枝雀とは違う意味で、尊敬心を抱くようになる。

その米朝がちょうど私がよく一門会などに行っていた頃に上方落語をその舞台となっている町を訪ねながら語ったのが、この本である。

感心するのは、地名などをよく研究していること。やはり地名はただの符号ではなくて、落語の話と密接に関係しているからだろう。落語を発掘するという作業は、その舞台を発掘することと同じと言ってもいいかもしれない。

さらに失われた言葉がたくさんあること、そして語源についてよく考えていることが分かる。たとえば、ジキという親を指す言葉があったらしいが、今では死語になっている。それがいったい何なのかを米朝は考える。オジキ、アニキ、アネキという言葉があるから、たぶんオヤジキという言い方をしていたのが、オヤがとれてジキだけが残ったのだろうと。

こうやって失われた言葉の語源をさぐったりするために、この人はよく考える。米朝が学者でもあると言われるのは、たんに文献を調べるだけではなくて、ものをよく考える人だったからだということが、この本を読むとよく分かる。

いろんな場所が出てくるので、大阪の地の人や古い大阪に関心がある人には、垂涎の書だろう。

『父と暮らせば』

2015年05月17日 | 舞台芸術
人形劇団むすび座『父と暮らせば』(井上ひさし作)

人形劇団むすび座は名古屋を拠点にしている劇団で、創設は1967年だということだ。子供向けの人形劇をメインに上演しているが、この『父と暮らせば』のような大人向けの作品もいくつか手がけている。

人形劇の形態も、一般的なグローブものからマリオネットものなどいろいろあるようだが、この『父と暮らせば』のような、一見すると人形浄瑠璃風に、操り手が素の顔のまま(黒子を被らないで)人形を後で操るものは、初めて見た。しかもセリフは四人の演者のうち父親の竹造と娘の美津江の人形を操作していない残りの男女が舞台の横に座って担当するが、途中から、操り手とセリフ担当者が入れ替わるし、場合よっては、セリフ担当者が操り手を助けに入ることもあるし、かなりフレキシブルに行われている。

『父と暮らせば』そのものは、宮沢えりと原田芳雄の主演で映画にもなったから、かなりよく知られていると思うが、原爆投下から三年後の広島の美津江のひとり暮らしの家が舞台で、そこに少し前から原爆で死んだ竹造(の幽霊)が現れるようになって、二人はときに昔話をしたり、喧嘩したり、以前の家族のように暮らしている。しかし竹造が現れたのは、美津江が原爆の資料を集めているという木下に惹かれるようになったからだった。美津江は自分が生き残ったことをすまないと思い、自分が幸せになってはいけないと、恋愛感情に蓋をしている。竹造はそんな美津江を励まそうとして現れたのだ。

それにしても、人形劇というのは不思議だ。魂なんかないのに、まるで生きているように動き出す。操り手がまるまる後に見えているのに、私たちの視線は人形に集中し、決して人形が喋っているのでも動いているのでもないと分かっているのに、生きた人間のように思ってしまう。が、必ずしもそうでもない。操り手もセリフ担当者も私たちの目の前に見えるし、彼らは人形浄瑠璃の場合と違って、ときに人形に関わったり、舞台を一人の登場人物のように動きまわったりするので、人形は生きているようには思えないが、人形と操り手やセリフ担当者とが一緒になって、一つの空間が出来上がる。

クライマックスは、美津江と竹造が原爆投下を受けた日のその瞬間のことを回想する場面だが、もちろん映画のようにリアルな造形はできないのに、私たちは想像力を豊かにして、目の前に起きている現実のように見てしまう。

原作がそうなっているのか、この演出がそうしているのか知らないが、出だしはコミカルな調子で見るものを惹きつけておいて、だんだんとリアルで、シリアスなところへ引き込む手法は、見事だし、演者たちも、場数を踏んでいることもあるのだろうが、じつに素晴らしい。

もっとたくさんの人に見てもらいたい作品だ。


『老貴婦人の訪問』

2015年02月01日 | 舞台芸術
デュレンマット『老貴婦人の訪問』(2014年度大阪新劇団協議会プロデュース公演)

作者のデュレンマットは1921年生まれのスイスのドイツ語圏の劇作家で、1990年に亡くなっている。スイスは、御存知の通り、永世中立国だったから、ナチス・ドイツにも侵略されることはなかったのだが、おそらく、武装中立していたではすまないようなことがあったであろうことは容易に想像がつく。そうした反省にたった、あるいはそうした全体主義への恐怖感が、この作品をつくらせたであろうことも、容易に想像がつく。

この作品は、けっこう有名な作品のようで、東京でも有名な女優を老婦人役で上演されているし、ミュージカルにもなっていてヨーロッパではよく上演されているようだ。

舞台となっているギュレン、かつてはゲーテが泊まり、ブラームスが四重奏曲を作った文化都市と言われていたというから実在する町のようだ。この町はいまでは(この作品は1958年の作品)廃墟の町と化している。この町出身の大富豪がたくさんの地所や森、そして主だった製造系の会社を買い占めて、営業できないようにしてしまっているからだが、実は、誰一人として知らない。

ある日、その大富豪が帰還して大歓迎を受ける。そこでこの大富豪の貴婦人は、かつての恋人であったアルフレッドが、自分に子供を孕ませた上に、罪をきせて、娼婦にさせられ、夜逃げをしなければならない窮地に追い込んだこと、1000億をこの町に寄付するが、その条件は、このアルフレッドを正義の名において死刑にすること、と宣言する。

これを聞いた市民たちは最初、人道的立場からそんな条件は受け入れられないと拒否をするが、日々の暮らしのなかで、次々と高級な服、高価な食べ物を、掛けで買って、どんどん贅沢な暮らしをするようになる。借金はどんどん膨れ上がり、このままでは破産寸前まで来ると、ついに市民集会を開いて、アルフレッドを死刑を宣告する。そして彼は死刑にされるが、表向きは心不全で死んだことにされる。

これは明らかに、正義の名において、国民が狂気に駆り立てられていったナチス・ドイツやソ連などの全体主義への痛烈な風刺である。今回の演出では、老貴婦人が、1000億の寄付の条件としてアルフレッドの死刑を持ちだした、しかも正義の名において死刑をするように要求したときに、およその見当はついていたが、市民集会の決議が行われたときに、演出家が、ナチス独特の右手を突き出すやり方をさせたので、はっきりした。

それはそれで面白いのだが、こういうシリアスな演劇では、先が見えてしまった途端に、興味が薄れてしまうものである。それにアルフレッドが殺されてからも、後ろの背景にヒットラーと安倍の画像をダブらせたり、原作にあるのだろうかという場面が最後に続くのは、余計だと思う。あれだけの示唆があれば、誰だって、ナチスや全体主義のアレゴリーだということは分かるわけで、そこまでしなくてもいい。

いつも劇団大阪のスタジオという狭い空間を見るのに慣れているせいか、大きなステージの芝居(吹田市文化会館メイシアター、中ホール)は、感情移入できないのが残念だ。


『islandsアイランズ』

2014年11月09日 | 舞台芸術
劇団大阪『islandsアイランズ』(小原延之作、第76回本公演)

天王寺にある一心寺シアター倶楽というところでの上演なので、天王寺のやよい軒で晩御飯を食べてから行くことに。

やよい軒は久しぶり。予め調べたら、期間限定で「一口ステーキ&牡蠣唐揚げ定食」をやっているので、それにした。添え物としてついていたポテトのフライとか野菜炒めにたっぷり塩コショウがふってあり、とても食べれたものではない。味噌汁も味が濃くて塩辛い。上さんが食べてすき焼きも味が濃くて、卵に付けなければ食べれたものではないと言っていた。

やよい軒は味が気に入った店だったのに、すごく濃い味になって、味が落ちたなと思う。残念だ。時間も近づいてきたので、ゆっくりする間もなく会場に行く。振り返るとあべのハルカスが天をつくほどに(いいすぎか)輝いている。

さて、芝居のほうは韓国チェジュ島で起きた四・三事件を扱っている。チェジュ島という小さな島で人々が狂気のようになって血で血を洗うが如き状態になったらしい。ここでは事件の詳細を記すことはできない。生半可な知識では書けないからだ。

ややこしい上に狂気のような事件を芝居にするとなると、正面から扱うことは不可能に近いと考えても不思議ではない。

そのため、この芝居では、村外れの芝居小屋が舞台で、そこに終戦後日本からやってきた在日の家族が村から逃れてきたり、やはり在日で戦後朝鮮に戻ってきていたが妻をなくした男や、息子がパルチザンとともに山に篭ってしまい村にいられなくなって逃げてきた女たちが集まってきて、芝居ともリアルとも分からない一時を過ごすという設定になっている。

舞台小屋にはボクシングのリングが置かれ(なぜボクシングのリングなのか理解できない)、そこが舞台となる。舞台上では、人々は役者になるのだろうか。逃げ来てきた彼らは演技をしているのか、リアルを生きているのか、彼らがそこで語ったり行動しているのはリアルなのか演技なのか、見ている側も演じている側もわからなくなる。

ときにレイプされそうになったときの話になったり、自分の息子がパルチザンに連れて行かれた話になったり、パルチザン狩りの男が銃をもって入ってきて、李家の中学生がパルチザンとの連絡係をしているとなじられたり、とリアルな話になるかとおもいきや、そこに「役者やな」とか「えらい長い台詞やね」というツッコミが入って、リアルを芝居の世界に引き戻す。

リアルと芝居とを行ったり来たりすることで、この作品は成り立っている。まさに、李家の長女が言った「いったい私はここでなにしているんやろ」こそこの舞台を象徴するものだろう。いったい私たちはリアルを生きているのか、それともただ芝居を生きているのか?

そこでは死さえもリアルなのか芝居なのか分からなく。最後に李家の三人の女たちが、殺された女たちが着ていたという血まみれのチョゴリを着て舞台の上に横たわるが、彼女たちはリアルに死んだのか、芝居をしているだけなのか。

でも芝居が終わると立ち上がって、舞台挨拶に出てきたということは芝居だったのだ。結局、すべてが芝居、本当に四・三事件なんてあったのか?そんな思いを見る者たちに抱かせる。

こなれてない文章という言い方をするが、こなれてない作品という印象がする。

『なすの庭に、夏。』

2014年07月12日 | 舞台芸術
鈴江俊郎『なすの庭に、夏。』(劇団大阪第75回本公演)

恒例の夏の劇団大阪の公演を見に行ってきた。今回は、ボケが始まったのか、予約していた日時を一週間勘違いしてしまい、目当ての名取由美子さんの出演とは違う方を見ることになった。劇団大阪の小屋まで行ってら、受付に本人がいて、「今日と違うで」と言われて初めて気づくという、ボケナスぶりであった。

作品のほうは、年老いた老女が、戦時中の、自分が女中奉公に上がっていた家の若さんや、そこに出入りしている写真屋、洗濯女、植木屋などとの交流を回想するという、戦争の悲しみを描く場合の定番を、少々面白い演出ができるようにして笑かしたり、しんみりさせたりするという色付けをしたものであった。

作者の鈴江俊郎という人は50才くらいで、桐朋学園短期大学の准教授をしているということらしいが、これは20年前に作った作品ということで、かなり若い頃の作品のようで、なんだか、シチュエーションの作り方が、若さんと主人公のなすの関係にしても、舟木一夫の青春映画(地方のええとこの跡取り息子がそこで働いている貧しい家の娘に恋をして、親から反対されて…)みたいな感じで、なんでいまさらこんなものを…と思うような内容で、少々がっかり。

唯一面白かったのは、櫛屋を演じた上田啓輔が、江戸川乱歩に出てくるような雰囲気の出で立ちとしゃべり方で興味を引いたが、それが主題とどんな関係があるのだろうか?

演劇作品にせよ小説にせよ、書かれたこと、言われたことがすべての世界(書かれたことや言われたことからしか、読者や観客はその世界を作れないという意味で)では、すべての言説には意味がある。作者は何らかの意味を持たせて、登場人物に語らせたり、行動させている。

冒頭に出てくる、糸くずを見つけて、それをフッと吹き飛ばし、飛んで行く所をしつこく目で追っていくという所作は、いったい何を意味しているのだろうか?この所作はたんに一回だけではなく、4人もの登場人物たちに行わせているのを見ると、作者はなにか重要な意味付けをしてと思われるのだが、私には何を意味しているのかさっぱり分からなかった。

場面の時間が現代に置かれている冒頭から30分位は、いったいなぜこんなにどうでもいいように見える行為を登場人物にさせるのか分からない。そういう描き方自体が目的なのか、したがって最後までこれで押し通すのかと思ったけど、どうもそうではなくて、戦時中に、つまり回想部分になると(これが時間的にも主題的にもメインである)、手法は平凡なものになってしまう。

同じ20年も前の作品でも、前回見た『臨海幻想』は20年という時を越えて、リアリティーもアクチュアリティーもあったが、この作品は、若書きの駄作というほかない。


『臨界幻想』

2013年11月09日 | 舞台芸術
『臨界幻想』(劇団大阪第74回本公演、ふじたあさや作)

金曜日に劇団大阪の定期公演を見てきた。今回は、30年前の台本だが、3・11後の日本にはタイムリーな原発の放射能汚染を扱った『臨界幻想』という作品だった。

3・11以前は、たいていの一般人は原発は安全だと思っていたと思う。私もそうだった。3・11という外からのインパクトがあって、その結果未曾有の危機に見舞われて初めて私たちは原発のおそろさを知ることになったのだが、この芝居は、安全と言われてきた原発が、別に地震や津波という外からの衝撃がなくっても、そもそもの維持管理のためにさえも、被曝労働なしには運転・維持ができないのであって、そのような非人間的な発電システムはあってはならないものだということを、教えてくれる。

この点については、今回の公演の冊子に阪南中央病院の村田三郎という医師がこう書いている。

「ここで忘れてならないことは、原発下請け労働者の深刻な放射線被曝と健康被害は、(…)1970年「大阪万博」で初めて原発からの電気が送られてきてから、40年余りの「通常運転」「定期点検」時の原発内で、多くの下請け労働者が「被曝要員」として、放射線被曝労働に従事してきたのです。(…)健康を破壊され、生活・労働能力を失い、声もあげられず、「闇に消されてきた」多くの労働者(…)抜きには、原発再稼働はもちろん、事故収束作業、原発の停止後の廃炉作業は行えず、私たちの日々の生活もその上に成り立っているということを知っていただきたい。」

今回の舞台は、一心寺シアターという天王寺にある舞台で、円形舞台に二つ台が置かれ、奥には椅子が配置されて、主な登場人物たちも出番以外にはそこに座っていて、観客になったり、国会論戦の場ではヤジを入れたり拍手したりする他の議員になったりと、斬新な演出が行なわれた。登場人物たちがそういう位置にいるので出入りが簡単だし、ほとんど舞台転換をしないですむためテンポよく進行するのがいい。

主役の速水千津子役をやっていた関西芸術座の田中恵理がうまかった。暁夫役の松村翔太も、姉の美津子役の保田麻衣(関西芸術座)もよかったが、暁夫の恋人役の横井麻子が新人とは思えないほど自然な演技をしているのは驚いた。

安倍晋三首相に見せたい芝居だ。これでもあんたは原発が「完全にコントロールされている」なんて言えるのか?

『鼬(いたち)』

2013年06月15日 | 舞台芸術
『鼬(いたち)』(劇団大阪、2013年)

劇団大阪の第73回本公演を見てきた。いつもなら金曜日の夜の公演ではなくて、土曜日や日曜日の昼公演に行くのだが、私の知り合いの団員が夜公演しか出ていないので、こちらにした。

真船豊という1902年生まれで1977年になくなった人の昭和9年の作品で、福島の農村の地主かなんかの没落した旧家「だるま屋」が舞台になっている。だるま屋の「おかじ」はもう余命をいくばくもない年寄りで、ここに嫁に来てから、なんとかこの旧家を守ってきたが、数年前に息子の万三郎が高利貸しから借金した200円があっという間に元利ともで1000円に膨れ上がり、抵当に入っていた土地家屋を明け渡す日がきている。それに乗じて小金を貸していた馬医者の山影や近所のカカ様が借金のかわりに畳やら馬やらを引き取っていき、家の中は鶏がいるばかり。

そこへ娘のころに勘当されて出て行き音沙汰もなかった「おとり」が人絹を来て羽振り良さそうな出で立ちも戻ってきた。彼女は百姓で、だるま屋の使いっ走りをしている嘉平を手懐けて、井川に万三郎が帰ってくるから明け渡しの延期を通告させる。万三郎が南洋から帰ってくると、おとりは借金の1752円を万三郎に貸して借金をきれいにしてこさせる。

おとりの狙いはじつはもうじきこの屋敷の前にできる鉄道と駅を見越してこの屋敷で商売をしようということだった。おとりは馬医者の山影を買収して、登記の手続きなどをさせ、万三郎が南洋に帰る前日にはだるま屋の土地屋敷をぜんぶ自分のものにしてしまう。万三郎は何も知らずに南洋に帰り、残ったおとりは、いつまで疑り深いおかじにすべてを話して、ショックで死なせてしまう。

たぶんリアリズムを標榜する「新劇」運動のなかで生まれた作品なのだろう。人間のオモテもウラも過不足なく描ききるということをテーマにした作品のように見えた。恫喝するときにはヤクザの女のように、はたまた男を手懐けるときには猫なで声で取り入る変幻自在の女「おとり」を夏原幸子が好演していた。この人もずいぶん前から見ている役者だが、今回は主演を張って、素晴らしい演技を見せてくれた。一本気の女将風の女性を演じた津田ひろこもよかったし、女地主で、周囲に合わせて農村という閉鎖された社会を生きてきた古町のかか様を名取由美子が好演していた。もちろん関西芸術座の特別出演の河東けいがよかったのは言うまでもない。

2時間40分(間に10分休憩)という長い公演だったが、まったく時間を感じさせない演出であり、演技だった。

『血脈』

2013年03月30日 | 舞台芸術
佐藤愛子『血脈』(大阪新劇フェスティバル40周年記念公演、ドーンセンター)

桜真っ盛りの時期で、天気も良かった(というかちょっと薄曇り)だったので、北浜から天満まで歩くことにした。地下鉄の北浜駅で降りて、中之島を歩いたが、ここはほとんど桜はない。天神橋を上がって、今度は南天満公園のほうへ降りると、こちらは桜がほぼ満開で、平日だったけれども、もうあちこちで宴会をしている団体さんもいた。この大川沿いにずっと行くと、桜ノ宮になって、そちらはもっとすごいことになっているんだろうけど、途中の天満橋で公園を離れて、ドーンセンターへ。

佐藤愛子が書いた『血脈』を舞台化したものを見に行った。サトウハチローや作者の佐藤愛子、そして彼らの父親佐藤紅緑が主人公。たくさんの女を作ったことで有名らしいが、詩人のサトウハチローは一番目の妻とのあいだにできた長男で、ハチローも父親ゆずりの女好きでたくさんの女を作り、三人目の妻蘭子が一番長く続いた。サトウハチローは並木路子の「リンゴの唄」の歌詞を書いたことや、「ちいさい秋みつけた」の作者ということで有名らしい。一番面白かったのは、父紅緑の死の直前に、天皇と会食し、中学を何度も転校したので、いろんな中学のユニフォームを着て野球大会に出場し、審判に不信がられたという話を天皇の前でしたところ、天皇が初めて笑ったという逸話。

佐藤愛子については、北杜夫や遠藤周作たちのお友達作家というくらいの知識しかなかった。紅緑の二番目の妻シナとの間にできた次女で、愛子自身も二度結婚して、二度離婚している。一人目は医者の息子で、復員後にモルヒネ中毒かなんかになって死んでいる。二人目は作家志望の男で、この男が事業に手を出しては失敗して借金を作り、その返済のために愛子は作家になったということらしい。1969年に直木賞を受賞。

物語としては、紅緑がシナと出会う大正4年から、昭和47年までという、60年近くの年月を3時間に収めるという超人的な作りになっている。出演者も37人の役者さん、しかもほとんどの役者が二役をしているから、70くらいの役があるという、とてつもない芝居だ。それでいて人物がこんがらがることがないのは、やはり舞台というもののもつ特性だろう。

第一幕は、紅緑とシナの関係が中心の作りになっているから、場の移動がたくさんあっても、違和感はない。できるだけ、新しい登場人物が出てくると、それとなく名前や人間関係が見る側に分かるように台詞が作られているので、その点も申し分ない。

しかし第二幕は、主役も紅緑、サトウハチロー、佐藤愛子とたくさんになるし、登場人物もそれに合わせて多くなるし、彼らの息子だけの場面もあったりして、じっくり場面を作ることよりも、出来事を走馬灯のように次々と見せるだけの展開になってしまった。

役者さんとしては、主演の紅緑役の尾崎麿基さん、シナ役の梅田千絵さん、サトウハチロー役の宇仁菅真さんなんかがよかった。そうそう、『血脈』執筆中の佐藤愛子を演じていた藤田千代美さん、ずっと座りっぱなしで、膝が痛かったのではないですか?左足の膝のサポータ見えてましたよ。

佐藤愛子の『血脈』についてはおもしろ批評を見つけたので、紹介しておく。こちら

『トスカ』

2013年02月03日 | 舞台芸術
プッチーニ『トスカ』(河内長野マイタウンオペラ・小ホールシリーズ、vol10)


イタリア・オペラの傑作であるらしい。ナポレオンが進軍するイタリアで、反キリスト教的政治運動をして投獄されていたアンジェロッティを匿う画家のカヴァラドッシ、彼と相思相愛の仲の歌手のトスカ、アンジェロッティを、そして彼を匿うカヴァラドッシを逮捕し、それをネタにトスカを自分のものにしようとする警視総監のスカルピア。アンジェロッティは辛くも追求から逃れるが、自害し、カヴァラドッシはスカルピアによって処刑され、アンジェロッティもスカルピアからの支配を逃れて自害する。

というような政治色の強いオペラで、マリア・カラスが何度もタイトルロールを歌ったことでも有名で、彼女の動画は『トスカ』しか残っていないほど貴重なものということでも、有名らしい。

だが、私には退屈なオペラにしか思えなかった。まずベルカントというのが私の性に合わないらしい。もううるさいだけで、感情も何もこもっていない、わめき声にしか聞こえない。もっと囁くように、語るように歌うべきではないのか。やたらと大声を出せばいいというものではないだろう。プッチーニのオペラって、感極まるとすぐ大声で歌わせる。もううんざり。そして、歌詞といえば、もうお決まりの内容。いったいどこが傑作なのか、わけがわからない。『ラ・ボエーム』もそうだったが、世に言われる傑作が私には駄作にしか思えない。

さらに昨日の上演がそれに輪をかけて酷かった。昨日の上演は小ホールということもあり、オーケストラ演奏ではなくて、ピアノによる伴奏だった。これはすでにグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』というオペラがいずみホールで上演されたときに経験済みで、こちらは非常に良かったので、今回も期待していたのだが、最悪。和音の連弾ばかりでうるさい、うるさい。それにピアニストが、譜面をめくるたびに、バシッというようなすごい音が聞こえて、興ざめ。本人はまったく気がついていないのかもしれないから、周りのスタッフが注意してあげるべきでは?譜面をめくる助手をつけたらいいだけの話なんだから、もうちょっとその辺気配りがほしい。

グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』の上演については、こちら。