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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『モリエール 恋こそ喜劇』

2010年04月15日 | 映画
『モリエール 恋こそ喜劇』(ローラン・ティラール監督)

火曜日は男性が1000円均一ということなのでテアトル梅田(ロフト地下)にこれを見に行ってきた。一月くらい前にもなんだったか忘れたが、見に行ったら、朝一の上演時間だったのに、もう最前列しか席がないということだったので、諦めて帰ったが、またまた昨日も最前列と二列目しか残っていないといわれ、少々頭にきたけど、目がくらくらしてもいいから観ようと意を決して観たら、それほどでもなかった。これからは最前列でも空いていれば観ることにしよう。ちょうど来週からは『ドン・ジョヴァンニ』というのが上演されると予告していたし。

なんでこんなモリエールなんて映画にたくさん来るのだろうかと不思議でならないけど、映画は面白かった。じつによくできている。1664年頃にパリに戻ってきてルイ14世にその才能を見出されて、ヴェルサイユでの祝祭などでの喜劇の上演を任される前の、フランス一周の旅に出る前の下積み時代のモリエールを描いている。

『恋するシェイクスピア』と同じように、モリエールがのちに『町人貴族』や『タルチュフ』で描くことになるような経験をしたという設定で、そこでであったジュルダン夫人が彼に新しい喜劇を創始しなさいと勧めてくれたことが、フランス一周のどさ回りに出かけて、腕を磨くきっかけになったという話になっているのだが、たぶんこれは実話ではない。でもモリエールの家系は実際にジュルダン氏のような成上がりの商人であったのだし、あちことで似たような人たちを見たことだろうし、またタルチュフのようなえせ信者も見たことだろうから、まったくの作り物とはいえないだろうけど、この映画そのものを経験したというわけではないだろう。

モリエールといえばもう20年くらいまえに太陽劇団が史実に忠実な映画を作っているが、こちらは時代考証などはしっかりした上に、創作の楽しみを付け加えた、新しいタイプの時代映画、有名人映画になっていて、面白い。

冒頭でジュルダン氏が貴族になろうとして貴族としての必須の教養である音楽、ダンス、剣術、絵画などを先生について習うという場面が出てくるが、先生たちを待たせておいて、次から次へととっかえひっかえこれらの科目を習う場面は、部屋の壁に白馬の馬上のルイ14世に似た絵がかかっていることからしても、『王は踊る』のパロディーだと思う。

それにしてもフランスの古典悲劇の朗唱というのはすごい。顔を白塗りにして、下駄のような履き物をはき、ほとんど直立不動で、Seigneur, vivez, seigneurとか大声をはりあげるのだから、よくまぁあれで観るものを感動させることができたものだなと、17世紀フランスの感性がどんなものだったのか、不思議な感じがする。この辺は、最近では『女優マルキーズ』だとか『シラノ・ド・ベルジュラック』などで一般でも観ることができるようになった。

それに比べれば、モリエールの喜劇はやはりすこし前にここにも書いた『町人貴族』なんか今見ても面白い。スタイルがやはり町人を描いているということ、自分の本来のものとは違うものを身につけようと無理をする姿が多少とも滑稽に映るというのはいつの時代にもあることだからだろう。

役者もいい。主演のロマン・デュリスとかジュルダン夫人役のリュディヴィーヌ・サニエなんかはすごく上手だし、久しぶりにみたファブリス・ルキーニがジュルダン氏をじつに上手に演じていた。

歴史上の有名人をただ史実そのままに描くのではなく、こういう風にアレンジして作り上げるのも面白い。フランス映画はあんがいこういう方向で新たな発展を見せるのかもしれない。


『激突!裁判員制度』

2009年10月20日 | 映画
門田・井上『激突!裁判員制度』(WAC、2009年)

門田隆将は雑誌メディアを中心に司法問題などで鋭い論陣をはるジャーナリスト。井上薫は理工系の学部を卒業後司法の道に進み、裁判官時代から司法に批判的な論文を書いたりして退官した人。

二人とも現在の司法がかかえる問題を批判し、裁判官が立身出世しか考えていないために常識はずれの判決を出したりするところに問題の根を見ている点で共通しているのだが、ではどうしたらいいのかというところから、二人の意見は分かれてくる。

かたや門田は裁判員制度によって法律の素人が持ち込む「常識」こそが裁判官の非常識を見直させるきっかけになると期待しているのにたいして、かたや井上はもともと法律を熟知し法律に則って事実認定や刑量判定ができなければならないのに法律の素人である裁判員にはそれは無理であり、そもそも法律の素人が刑量判定をすることは法律違反だという考えのようだ。

私は基本的に、門田の主張に与する。彼の考えによれば、現行の裁判員制度は、司法関係者にとっても降って沸いたようにして実現された制度で、そのため司法関係者とりわけ裁判官たちが自分たちの都合のいいように制度を骨抜きにしようとしたところがあり、パーフェクトな制度とはいえないにしても、まったく常識を知らないどころではなく、不合理きわまりない因習や立身出世主義のために憲法違反さえほったらかしにしてきた司法の世界に風穴をあけるものとして期待できると考えているからだ。

現在の法曹養成の仕組みは変わらないというか、変えようがないだろうし、そうなれば裁判官になるのは、これまでと変わらず、立身出世しか考えていないような、悪しき前例主義、自分の頭で考えて判断を下すことのない言いなりの人間が裁判官になり続けるだろうから、外から社会常識を注入して、そういう孤立した世界の非常識を変えていくしかないという門田の主張はうなずける。

門田は現在の裁判員制度がいいとは思っていないし、ずっと続くとも思っていない。裁判員を入れて行うのは地裁だけで、上級審では裁判員はいないから、すぐにでもひっくり返されるし、有罪無罪どちらでもかならず一人は裁判官がいないと裁判員の評決は無効だとか、裁判で得た情報はどんなささいなことでも一生口にしてはならないとか、いろいろ問題点は多い。しかし、裁判の時間が短いので、公判に至る前に論点を整理するために検察と弁護士が手持ちの資料を出して問題点を洗い出すという制度が、これまでは検察が自分たちに不利な証拠などは出さなかったのが、いやおうでも出さなければならなくなり、裁判の公平性という意味で格段に進んだ面もあると指摘している。

他方、井上の主張には、現在の司法を批判する言辞はでてきても、ではどうしたら解決の方向に向くのかまったく主張していない。解決のための方向性をもっていないのか、たんに他のところで書いたからここでは主張しないだけなのか、私には分からないが。

しかもこの人の主張の基本は、結局は門田が厳しく批判している、裁判官のエリート意識を脱却していないところに問題点がある。法律の素人に裁判を任せるべきではないというのも、一見すると合理的であるようにみえるけれども、要するに素人は裁判に口を出すなということに尽きる。刑事事件の被害者遺族には裁判の日程もしらされなければ傍聴も一般傍聴人と同じだとか、遺影も持ち込んだらダメだとか、かつてはメモをすることも禁じられていたとか、社会常識から考えても訳の分からない規制があるにもかかわらず、外部からの批判によってしかそれが変わってこなかったということは、内部の改革にはまったく期待できないということを意味するだろうに、外部からの風を入れることにこの人はまったく理解がない。

フランスのテレビなどを観ていると、メディアで注目を集めるような裁判の場合には、裁判官がメディアの前にでてきてあれこれコメントをしている姿を見るが、いったいどういう違いなのだろうか?

<2021年2月3日追加分>
しかし著者の門田隆将という人がこんな馬鹿な人だと思わなかった。アメリカ大統領選挙で選挙不正を主張するトランプを支持するこの著者の愚かしさは、ツイッターでデマを主張した回数の世界のトップテン入りしているほどで、愛知県知事リコール署名の不正問題でも不正を擁護している。こちら

『蟹工船』

2009年03月22日 | 映画
『蟹工船』(山村聡監督、1953年)

金融危機から非正規雇用の大量首切りが横行し、それが小林多喜二のプロレタリア文学作品『蟹工船』への関心を高めているらしい。なんでも累計で160万部も売れているとか(って、本当?)。おまけに俳優松田龍平の主演で映画化されることになったという。監督は「疾走」などで知られるSABUという人だとか。こうなると本当だろう、この人気は。

それで50年以上も前にあの俳優の山村聡が監督をして撮影された映画の『蟹工船』の上映会があちこちで開かれており、中百舌鳥であったので、上さんと観てきた。監督の山村聡といえば、「華麗なる一族」の会社の重役とか「日本沈没」の総理大臣とか「トラ・トラ・トラ」の山本五十六なんかをやらせたらその重厚な演技で定評があった人だ。どちらかといえば、いつも支配者の側の役ばかりで、まさかこんな正真正銘のプロレタリア文学を映画化するような人には思えなかったので、びっくり。映画の中では、意外にダメ青年で海に飛び込んで自殺してしまう役なのだが。

とにかく古いので、音は悪いし、映像も荒いしで、たぶんきれいな映像で見たら、あちこちぼろが目に付いたのだろうけど、あまり目立たなかった。

そのほかあれこれけちを付け出したらきりがない。最後の海軍が乗船して労働者を鎮圧する場面でもみ合って海軍側が発砲してしまう場面などはなんだかリアリティーに欠けるし、どうみても嵐の場面なのに、海は凪いでいる感じで、雨を前面に降らせ、嵐のような音響効果で、嵐の場面と思わせている。

ただ、劣悪な船内生活の描写は圧巻だ。あれで半年間も生活するという設定だから、空恐ろしい。蟹工船が死の工船だとうすうす感ずいているような者たちもいて、それでも嵐のなかを蟹のかかった網を引き上げに小船に乗せるだとか、病気になっても暴力的に働かせるなどの描写は一番重視されたところだろう。

どことは指摘できないが、やはり『戦艦ポチョムキン』なんかの影響もあるのだろうか?原作では自覚的な労働者の数人が説得工作をして労働者を立ち上がらせるというようにきめ細かく描いてあるらしいが、映画ではたまりにたまった彼らの怒りに火がついて暴動に決起するようになっている。それはたぶん映画では正解だったと思う。映画で、あまり細かい工作の様子を描いてもリアリティーに欠けることになるだけだっただろう。

53年といえば戦争が終わってまだ8年目だ。もちろん独立系で撮影したのだろうから、資金だってたいして集まらなかっただろうに、よくあそこまで撮影できたなと感心する。

『下妻物語』

2009年03月17日 | 映画
『下妻物語』(原作:嶽本野ばら、監督:中島哲也、2004年)

一度見てみたいと思っていた『下妻物語』をやっとみれた。たまたまJ-COMでやっていたのだ。物語はおくとして、配役がすばらしい。深田恭子の竜ヶ崎桃子、土屋アンナの白百合いちご、桃子の父親に宮迫博之、母親が篠原涼子、祖母が樹木希林、その他、岡田義徳やまちゃまちゃが脇をかためる。一角獣の竜二なんてのを阿部サダヲがやっているし、八百屋とジャスコの店員役をとぼけた顔の荒川良々がやっている。

関西のファッションをジャージ一色で説明する冒頭のシーンもすごい。かつてはジーンズもそんな風に肉体労働者のはきものだったから、ジーンズでは名の知れたレストランなどでは「入店お断り」だったのが、今ではれっきとしたファッションの一部で、プレミアのつくようなオールド・ジーンズだってあるくらいだ。だからジャージだっていずれはこの冒頭シーンのように、ジャスコで買うようなものからプレミアがつくようなものまででてくるかもしれない。そんなことを思わせる冒頭シーンだった。すごい!

ロリータファッションっていうのだろうか、あの桃子が着ているような服。ときおりなんば駅なんかでみかけるが、さすがに浮いている。でも桃子は自分がフランスのロココ時代の生まれ変わりみたいに思っていて、自分が最高と思える服をきることで、その服にみあった人間になるように努力しているわけで、それは一つの信念、生き方であるからして、素晴らしいことのように思う。別に人に迷惑をかけているわけではなく、自分の信念とするファッションを着て、自分を高めていこうとする姿勢は、まさに、現代社会ではマイナーかもしれないが、一つのしっかりした生き方をもっている若者をつねに提示してきた嶽本野ばらならの物語だろう。煙草を吸って人に迷惑をかけておきながら、「禁煙ファシズム」などと開き直る御仁たちよりはよほど人間的に優れている。

一方、ヤンキーの白百合いちごは、ちょっと特異である。ヤンキーがみんなそういうわけではないだろうが、たんに特攻服に身を固めてにぎやかなバイクで徒党を組んで走り回っているというだけではなく、いちごの場合は、いじめが原因で、自分をどうしていいかわからないでいた頃に暴走族の亜樹美にあこがれてレディースの「舗爾威帝劉」に入るが、この族は一緒に群れて走るだけで、上部組織だとかの上下関係なんかをもたないことで、ほかの族とはちがっていた。いちごはここで自分を解放することができたのであり、一般に社会の嫌われ者と思われている暴走族にも筋をとおす友だち思いの人間もいるということを描こうとしているように思のだが、どうだろうか。

いちごが亜樹美が引退した族から抜けたいと言い出したために、「ケジメ」をつけるとして集団リンチにあう場面に桃子が助けに行った場面で、あのおとなしいだけの桃子が「本領発揮?」みたいに族のメンバーをやっつけるのは、この二人がまるで入れ替わったかのような印象をもつが、だいたい竜ヶ崎というようないかにもな名前といちごというこれまた暴走族とは相容れない名前がしからしむところだろう。

原作は読んでいないのだが、映画の方はほんとうによくできていたと感心した。

「がんばっていきまっしょい」

2008年02月06日 | 映画
『がんばっていきまっしょい』(磯村一路監督、1998年)

映画館でこれをみてからもう10年たつんだなと感慨深くなった。昨日たまたまJ-Comで見た。田中麗奈のデビュー作でもある。夕日が沈む瀬戸内海に浮かぶボート部のボートをみて、自分もボートをやってみたくなったが、女子のボート部がなかったので、人集めから始めてやっと高三のときにレースに出た。

あらゆることが私自身の体験に似ているので(私は女ではないが)、まさに甘酸っぱい青春の思い出が描かれているような印象が強い。

まず伊予東高校にはいる場面から始まる。私も同じように山陰の進学校に入った。田中麗奈の場合と同じように、同じ町ではなく少し離れた町に住んでいるから電車で通学しなければならない。知らない町の学校に行く心細さ。ただでさえ高校生になるということでわけの分からない不安でいっぱいなのだ。

そして周りの同級生たちのように勉強一筋になれないでいる自分。何かをしたい。私の場合は中学時代になにもスポーツをしていなかったので、中学にはなかったクラブに入りたいと思ってボートにしたのだった。中海という海に乗り出していく感覚が初めての体験でなんともいえず楽しかった。それはボートを初めて体験するすべての人の印象だろう。

そして仲間集め。田中麗奈演ずる篠村悦子は昭和49年入学だから、ほぼ私と同世代ということになる。私の周辺の学校には女子のボート部はなかったから、彼女たちは早いほうだったのだろう。ひとつ上の学年は彼女たちと同じように一クルーを組むのがやっとで一人でも欠けたら試合に出れないような状況だったが、私の学年はどういうわけかすごく入部者が多くて、最終的にも二クルーができた。

そして腰痛という試練が田中麗奈を襲う。私の同級生にも椎間板軟骨ヘルニアになって手術を受けたものがいる。もちろん二度とスポーツはしてはいけないと言われていた。これは急にはげしいボート漕ぎをしたことで起こるスポーツ病だ。最初にしっかりと腹筋を鍛えておけば起こることはないのだが、それまでまともにスポーツをしたことがないものが急にボートを始めてがんばると椎間板のあいだの軟骨がはみ出て神経を刺激して腰痛やそのほかのところが痛くなる。

田中麗奈も同じように腰痛になる。だいたい彼女の体を見ていたら、とても腹筋がしっかりついているような体には見えない。腰痛になるのが当たり前だ。これは指導者の指導がなかったか間違っていたから起こるスポーツ病だ。たとえば4月から夏までは腹筋を鍛えることに集中して、ボート漕ぎは遊び程度でいいのだ。夏からボートのテクニックなどを中心に集中的に練習すれば、最初に筋トレが先行していれば、すぐに上達する。きっと秋の新人戦あたりにはそこそこの結果を出すだろう。

まぁそんなことはこの映画にはどうでもいいことかもしれない。このあたりのことをはあっさり描かれている、というか、ボートを取ったら自分には何も残らないということを強調するために、腰痛で練習から離れた田中麗奈が自分を見失ったようになった姿を描いているのだから。

映画はあくまでもボートに夢中になって高校の三年間を過ごした少女の甘酸っぱい青春譜なのだ。もう二度とあの日々は帰ってこない。平凡だけど、どうしようもない真実を描いた映画だ。なんというタイトルの歌か知らないが、バックに流れる英語の歌もなんだかいい。


「その名にちなんで」

2008年01月09日 | 映画
『その名にちなんで』(ミーラー・ナーイル監督、2006年)

親が自分の息子や娘に名前をつけるときに、それなりの思いをこめるのは当たり前といえば当たり前だが、その名前をつけられた当人は、親がきちんとその理由を話してやらなければ、場合によっては、からかわれたり、自分との同一性を見出せなくなったりして、改名したくなることもあるにちがいない。

私の上さんの兄弟もそうで、漢字というのは見た目とかよく使われる組み合わせがもつ意味と、その漢字一文字がもつ意味が違うことがあり、この漢字一文字のほうの意味はあまり知られていないというようなことがあるものだ。彼の場合もずっと嫌だ嫌だと思い続けていたらしいが、結局、けっこういい年になってから改名した。

私の娘と息子の場合は、それぞれへの思いをこめて名づけ、それをことあるごとに説明してやったので、嫌がるということはなく、なんかしらないがその思いどおりの性格になったのにはちょっと驚いた。

さてこの映画は、インドからアメリカに移り住んだ若き研究者がインドから嫁を連れてきて、見知らぬ土地での生活のなかで、愛をはぐくみ、生まれた息子に、父親がつけた名前が、息子が高校生のころにからかわれ、改名してしまう(といってもこの場合は、あとから両親がつけたもう一つの名前を使うようになる)が、父の死を契機に父の思いを受け入れていくという話である。

映画のせいかよい点もあれば悪い点もある。タージマハル廟の美しさを見てゴーゴリが建築を専攻することを決意するシーンは映画だからこそ一瞬の映像でそれを提示して納得させることができる。タージマハル廟があんなに美しいのは現実のインドの庶民の生活があまりにも貧しいからではないのだろうか。そこのところをゴーゴリは分かったのかどうか、ちょっと疑問である。映像であればこそ、一瞬の場面だけで、アショークの家系がけっこう中流の家庭であることが分かる。

反対に、ゴーゴリの改心というか父親の死を契機としたゴーゴリの思いの変化ははやり映画ではとってつけたような感じになってしまう。頭を丸めるという形でそれは表されているが、本当はゴーゴリの高校卒業祝いに父がくれたゴーゴリの作品集の「外套」を読んで、そこに書かれていることから父の思いを知るとか、列車事故のときに父がゴーゴリ作品集をもっていたからということだけでなく、なにか父親のゴーゴリへの思いを示すものを形として示さないとゴーゴリの中での変化の内的必然性が表現されないことになる。映画ではゴーゴリがなぜ婚約までしていたい白人女性と別れなければならないのかが分からない。

しかし結婚する前に歌をやっていたゴーゴリのお母さんが夫の死後にまた歌をやりたいと言って、最後にも歌う場面が出てくるが、あれはなんという曲なのだろうか。インドといえば「カーマスートラ」の国でもあり、なんともいえずエロティックな旋律であり歌い方だなと思いながら聴いていた。

「かもめ食堂」

2008年01月05日 | 映画
『かもめ食堂』(荻上直子監督、2005年)

劇場で公開していたときに見逃したので残念に思っていたら、ケーブルテレビでやっていた。小林聡美がフィンランドのヘルシンキで日本の庶民がたべる食事を出す食堂をやっているところへ、日本からなにかの原因で逃れてきた片桐はいりがやってきて、小林聡美に助けられて食堂を手伝うようになる。そこへスーツケースが行方不明になったためにヘルシンキに足止めを食っているもたいまさこもやってきてコーヒーを飲みに来るうちに、食堂の手伝いをするようになる。最初は、日本オタクの若者しか来なかったのに、シナモンロールのおいしい香りにひかれて、おばさん三人組がやってきたのを機に、次々と現地のお客さんがくるようになり、ついに満席になるというお話し。

フィンランドの夏の、暑いんだか寒いんだか分からないような風景がなんとも涼しげでいい。日本の夏にうんざりしている向きには天国のようなところにちがいない。しかも人口は少ないし、治安も悪くなさそうだし、冬は寒いからちょっと敬遠したくなるが、空気も澄んでよさそうだし、一度行ってみたい。

異国の地で外国の食べ物にうんざりしたわけではないけれど、心も身体もぼろぼろになったような状態の時には、米のご飯と卵焼きとか鮭の焼き魚がどれだけおいしいものか、片桐はいりがしみじみと語っていたが、私にもよく分かる。パリの知り合いにおにぎりをいただいたときの、あのおいしかったこと、けっして忘れないだろう。だからそういう傷心旅行というわけではないが、旅に疲れた日本人向けというわけではなくても、日本人の日常的な食事をだす食堂にしたいという小林聡美の想いが、この映画が「人間賛歌」とかと評されるゆえんだろう。

その意味でおにぎりを日本人のソウルフードと言っているのはなかなか目の付け所がいいなと感心した。おにぎり、このシンプルで、この上ない一品料理、これだけで立派な料理に引けを取らないことは確かだ。

コーヒーを盛んに飲むシーンが出てくる。私と上さんもコーヒーが好きなので、毎朝入れて飲む。たくさん飲みたいのでできるだけ薄めに入れるから、喫茶店のコーヒーは濃すぎて好きになれない。映画の中で何度も飲むシーンが出てくるので、ついつい私もコーヒーを入れて上さんと飲んだ。

上さんもこの映画が気に入ったらしく、盛んに片桐はいりのこととか感想を言っていた。まぁたしかにこの役者さん、独特の雰囲気をもっている。存在感がある。小林聡美もきりりとした雰囲気でよかった。外国にはあまり行きたくないが、フィンランドは一度行ってみたいものだな。


「椿三十郎」

2007年12月04日 | 映画
『椿三十郎』(森田芳光監督、2007年)

じつは黒澤監督の「椿三十郎」はたぶん見たことがあるのだろうがあまりはっきりとした記憶がない。でもこの織田裕二の「椿三十郎」も面白かった。これは脚本の出来の良さだろうと、みながら思った。だからといってだれがやっても面白いというものではないだろうから、やはり織田裕二の上手さかなとは思うのだが。

一般に織田裕二はそうとうの凝りやだと聞いているので、そういうのを嫌う人もいるようだが、私はそれだけ映画やドラマの作りに責任を持っていると思うので、織田裕二が主演の映画なら大丈夫だという気がする。

それに脇役の小林稔侍、西岡徳馬、風間杜夫なんかがコミックさを引き立てていた。それもやっぱり脚本だろうなと思う。

椿三十郎という悪い奴には心底気に食わない素浪人に、世間のことを知らず若者特有の純粋さだけで突っ走ろうとする若侍9人との対比、それは睦田という家老の狸ぶりと菊井の悪賢いが一本気なところのある目付け役との対比、椿三十郎の血気ぶりと睦田の妻のおっとりぶりとの対比というように、両極端の対比がじつに上手く使われている。

そして椿三十郎が室戸半兵衛にみつかり、万事休すかと思われるところへ、小心者の風間杜夫が光明寺には山門がないことを思い出し、それを逆手にとって、椿を流させることで大団円を迎える巧妙なつくりは、言葉もないくらいに鮮やかだ。

やはりどこを見ても脚本の出来の良さがこの映画の源というほかない。

さてこの織田裕二の「椿三十郎」、最初から織田裕二がなんか言うたびに三船敏郎の演技が思い出されてというかオーバーラップして困った。それだけ三船のはまり役だったのだろうし、彼自身もたいへん気に入っていたらしい。室戸半兵衛にとよえつを起用したのは森田監督のお気に入りだからだろうか。織田にしたら悪役のほうが主演の自分よりよほど背が高くて嫌だっただろうに、よく文句を言わずにいたなと感心している。最初に二人が出会い、間近ににらみ合う場面は、どうみても織田裕二が台の上に立っているとしか思えない。にらみ合う場面で椿三十朗が低かったら話にならないからね。

織田裕二は時代劇は初めてだと思うけど、まぁよくやったと拍手したい。

「ボーン・アルティメイタム」

2007年11月28日 | 映画
『ボーン・アルティメイタム』(2007年)
「ボーン・アイデンティティー」から始まった三作目だが、たぶんこれで終わりでしょうね。一応ジェイソン・ボーンがいったい自分はだれなのか、なぜ殺し屋になったのかを解明できたできたから。マット・デイモンというのはたしかハーバード大学をでた秀才なのだで、いわゆる身体を張ったアクションものは苦手かと思っていたのだが、今回の作品はアクションもすごくハラハラどきどきになって、一皮向けた感じです。

マット・デイモンはタイトルを忘れたんだけど、弁護士になりたての新米なのに、大企業の弁護士を相手に、まんまと勝利を収めるという役の映画で気に入ったので、あまりアクションものの俳優とは思っていなかったけど、これもなかなかいいね。

今回すごいと思ったのは、これは編集のテクニックなんだろうけど、テンポがじつにすばやくて、気持ちがいいくらいに、すぱすぱ移り変わっていくことだ。これは決して訳が分からないうちに話が進んでしまうということではない。たぶん画面の切り替えが適切でしかも早いから、瞬間瞬間に同時に進行している事態を見せようということかもしれないし、そうすることで物語の進行にメリハリをつけようということなのだろう。これがじつにうまくはまっていた。

でも前二作を見ていないと、マリーってだれ?ってことになるかもしれないし、ニッキー役のジュリア・スタイルズってだれ?ってことになるかもしれないな。ニッキーって第一作目からあまりCIAの諜報員って雰囲気はなかったけど、今回もそんな感じで、ボーンに助太刀をする。

私はノア・ヴォーゼン役のデイヴィッド・ストラザーンが、「サイモン・バーチ」の司祭役いらい注目している役者さんですが、けっこう渋い役をやるようになりました。

「犯人に告ぐ」

2007年11月02日 | 映画
『犯人に告ぐ』(瀧本智行監督、2007年)

雫井脩介原作の映画化である。最近の雫井脩介は飛ぶ鳥を落とす勢いである。「クローズドノート」も映画化されているし、すでに「虚貌」もテレビドラマになっていた。

主演がトヨエツだ。最近「サウンドバウンド」で見たばかりではないか。登場人物では小澤征悦が、親の七光りで空威張りする役をじつにうまく演じていて、なかなかよかったね。

ただ映画ではなにを言いたかったのか、ピントがあっていなかった。猟奇殺人にはまり込む、若者の異常な反社会性に焦点を当てているわけでもない。かといって警察という組織の自分中心主義的な出世主義に毒された機構を暴き出してやろうというのでもない。またそういう組織の中で地道に社会正義のために動き回っている人間の真実を明るみに出そうというのでもない。いったいなにを訴えたいのだ?と煮え切らないピントにちょっといらいらするような作品であった。

原作は今年の1月の成人の日に一気に読んでいる。その感想の中でこの小説の焦点が次のところにあるようなことを書いているので、ここに再録する。

「こういう小説を読んでいて思うのは、犯人が犯罪を起す精神状態とか犯罪の社会性とかということよりも、それに対峙する警察の責任者の生き様である。腹の据わり方といってもいいかもしれない。だれしも勝算があってこういう立場を引き受けるわけではない。勝算があろうとなかろうととにかく今の自分の立場をひっくり返すためには、事件の矢面にたつしかないのだ。そしてそういうものとして腹を据えたときに、初めてなにかしらないが、運が向いている。物語ってそういう風にできているんだなと思う。でなかったら小説にする意味がない。勝算がないにもかかわらずそういう責任を引き受けて、とにかくやってみるしかない人間の精神状態にこそリアリティがあるのではないだろうか。あまり犯罪のトリックとかにこだわっているとリアリティに欠けてものになってしまう。作り物にしか見えなくなるからだろう。」

原作では主人公の巻島が6年前の失態から巻き返すために、あえてこの困難な事件の現場責任者を引き受けて、犯人に向き合う姿、姿勢にこそ、リアリティーがあると見ていたのだな。映画は表面的に原作にかかれたことを忠実に追っているが、そこのところをもっと強調するためのつくりをしてなかったから、どこにピントが合っているんだとイラついたのだろう。