goo blog サービス終了のお知らせ 

読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『褐色の文豪』

2009年03月18日 | 作家サ行
佐藤賢一『褐色の文豪』(文芸春秋、2006年)

『三銃士』『モンテクリスト伯』『王妃マルゴ』などの小説で有名なアレクサンドル・デュマの伝記的小説である。いちおう、フランス文学に関心をもつものとして、デュマがどんな小説を書いていたか程度のことは知っていたけれども、こうやって小説の形で読むと、シャルル・ノディエとの関わりやあの文豪ビクトル・ユゴーを歯軋りさせた新聞小説での大活躍など有名な人物との関わりや、時代状況が手に取るように分って、じつにためになる。

興味深く読んだところは二つある。一つは、デュマが作家として活躍を始めて、一躍パリの有名人になった頃に起きた7月革命である。王政復古がなり、ギロチンにかけられたルイ16世の弟であったルイ18世が国王になるが、彼の後を継いだシャルル10世が暴君の名をほしいままにして、矢継ぎ早に彼の支持基盤である大地主に有利な政策を展開していったために7月革命が起きる。そして政治的には自由主義を標榜するオルレアン公ルイ・フィリップが立憲王政を継承することになる。もちろん議会が実施的な政治を行うという意味で立憲王政なのだが、大地主から大ブルジョワに権力が移行しただけの革命とは名ばかりのものであったことは、まぁ一般に歴史の本などで言われていることだ。だがそれをそこに生きたデュマという人物がどのように関わっていったのかということを、生きた人間の物語として提示されると、その相貌もずいぶんと変わって見える。パリのバリケード戦というのは、パリの通りが狭いのですぐできることで有名で、たしかフローベールの『感情教育』の冒頭にも描かれていたのは7月革命の余韻ではなかったかな(記憶違いかもしれない)。それでまた48年には2月革命が起き、クーデタがおきて第二帝政になるときにも同じようなことがおきたため、ナポレオン三世がオスマン将軍に命じて、パリの大改造を行い、簡単にバリケードが気づけないように通りを広くしたという話がある。

二つ目には、新聞小説ということだ。新聞小説といえばバルザックだと思っていたが、たしかに新聞小説が新聞の発行部数を延ばす働きを演じるほどに読者をひきつけるようになったというのはデュマの『三銃士』が最初だったのかもしれない。このなかでも描かれているように、革命前はフランスの識字率はほんとうに低いもので、読者といってもたかが知れているが、19世紀になると学校教育もじょじょに整ってきて、識字率が上がってくる。それにともなって、安価で手に入る新聞で読める小説は読者大衆をひきつけるのに格好のメディアだっただろう。日本でも夏目漱石の小説はほとんど新聞小説で発表されたものだ。新聞好きのフランス人という特徴はこの時代にできたのかもしれない。

新聞小説作家の売れっ子ぶりも書かれているが、それはもう現代の売れっ子漫画家、たとえば手塚治虫の様子を見ているような風に描かれている。もちろん作者の佐藤賢一がそうなのだろうし、現代の売れっ子作家のイメージをそこに投影していることは間違いない。そういう意味でも現代のように文芸が商業ベースにのって、作家をあっという間に時代の寵児にしたり、あっという間に没落させたりというのは、デュマの時代に始まったとみていいだろう。

たしかにユゴーの『レ・ミゼラブル』やバルザックの小説に比べると時代がルイ13世とかルイ14四世とかのように17世紀であってみれば、あまりに古臭い感じがしないでもないから、それが『レ・ミゼラブル』のように今日でもいまだにミュージカルの題材となったりするところと違う。ただ、絶対王政に入る以前のフランス人にはまだ自由闊達なところがあっただろうから、それが『三銃士』のようなはらはらどきどきの活劇的作品を生み出す政治的土壌であったのだろう。

それにしても『三銃士』なんて、少年少女向けのリライトしたものでなくて、そのまま読めるのだろうか? 岩波文庫にありました。

『黒い悪魔』

2009年02月20日 | 作家サ行
佐藤賢一『黒い悪魔』(文芸春秋、2003年)

小学一年生のときに担任だったA先生は持ち上がりで二年生も担任で、その担任が終わる頃、なぜだか一人呼び出されて、一冊の本をプレゼントされた。ユゴーの「ああ無情!」だった。なぜこの先生が私にだけそんな本をプレゼントしてくれたのか、まったく分らない。親がなにかA先生にお返しをしなければならないと思わせるようなことをしたはずもなく、特別に出来がよくて「褒美」にくれたわけでもない。あるいは一人ひとりに個別に渡していたのだろうか?それで自分ひとりがもらったと思っていたのだろうか?そうだとしたらその出費や大変なものになっただろうから、そんなはずもない。まぁどうでもいいことなのだが、いまだに夢だったのかもしれないと思ってしまう事実の出来事だ。

その結果、私はこの手の物語が好きになり、「モンテクリスト伯」とか「三銃士」なんて本を図書室から借りて読むようになった。とはいえ、またその内容をまったく覚えていない。だから私が大学に入るときに仏文学を勉強したいと思ったのは、まったくこれらのこととは無関係だったことを申し添えておかねばならない。

どうも小学校の三年生あたりに一つの断絶があったようで、その前後で私はまったく違う人間になったのかもしれない。小学校初期に読んでいた上記の本以外に「小公子」だの「小公女」だのといった本を高学年になると馬鹿にしていたからである。

まぁそんなこんなで、「三銃士」などを書いたアレクサンドル・デュマ・ペールの父親アレクサンドル・デュマがフランス人貴族とカリブの黒人奴隷のあいだに生まれたとか、ナポレオンと同時代であるというだけでなく、フランス革命、とくにロベスピエールの徹底した民主主義的思想に共鳴していたというようなことはまったく知らなかった。

作者は西洋史がまさに専門の研究者でもあったので、こうした史実についてはきちんと調査した上で書いているようだ。だから、前読んだ「カルティエ・ラタン」でのフランシスコ・ザビエルの生き生きとした姿をはじめ、まるで質のいい伝記を読んでいるような思いがする。

なんといっても圧巻は尊敬するロベスピエールを助け出そうとサントノレ街のはずれの広場まで掘られた地下道を通ってギロチンの下まで進み、その土台となっている板をはずしてロベスピエールを救出しようとする場面である。ロベスピエールは20人目に処刑予定で、それまでギロチンにあった者たちの血を浴びながら待機するアレクサンドル・デュマが機を見て板をはずし、ロベスピエールの足をつかんで、引きづりおろそうとするが、もはや観念したロベスピエール。昨年の「篤姫」で勝海舟と西郷隆盛の面談の場面が出てきたが、あまりに有名だけれどもいったいどんな言葉が交わされ、どんな表情でどんな風に進んだのか、あまり知らない場面というものは、映画・芝居などにしてみせるとあまりに白けたものになることが多いのだが、この場面は作者の筆力で読ませる小説ならではの、怖ろしい場面になっていた。

現在、佐藤賢一は小説「フランス革命」を執筆中のようだが、きっと興味深いものになるに違いない。ロベスピエールという人物に興味がもてるようになった、それだけでもこの小説を読んでよかったと思う。

『桜庭一樹読書日記』

2009年02月18日 | 作家サ行
桜庭一樹『桜庭一樹読書日記』(東京創元社、2007年)

同郷の作家なのに(しかも同じ高校の出身、といっても一回りくらい年齢が違うから当たり前だけど)、存在さえも知らなかっただけに、そんな作家がいるのかと昨年の直木賞をきっかけに知ったときには、多少ともうれしかったのを覚えている。しかも、この読書日記を読むと、最近でもちょこちょこ紅緑村の両親のところに滞在して、あのI書店なんかに出入りして、大量の本を買っているなんて。

私も高校生の頃にボート部の連中の影響で「ブンガク」なるものに目覚めたというような話はすでに書いたと思うのだが、それ以来、学校からの帰り道とか休日とかに、いまは寂れてしまった商店街の一角にあるI書店に通うように出入りしては、小説などを買い求めていた。ここで、三島由紀夫の「豊饒の海」とか「奔馬」とか、あるいは「廃市」(これは三島ではなくて、えーっと福永武彦)などを買おうかどうしようかさんざん悩んだ思い出がある。この読書日記を読んでいると高校生とか中学生とかの彼女も同じだったんだね。まぁ金がないからみんな同じようなもんだろうけど。(右の絵は出身高校の校章。二枚の柏葉がロゴスとパトスを表すってことになってます。なかなかしゃれているでしょ。)

自分の読書日記にひとの読書日記の感想を書くのも変な話なのだが、桜庭一樹がどんな本をほめているのかにはあまり関心はない。それよりも彼女自身がこの読書日記にも書いているように、自分の好みだけで本を選択して読んでいると、世界が狭くなってしまうという恐怖感があるのだ。だから、彼女の場合は編集担当者とかインタビュワーなどにどんな本が好きかを聞いて、自分の知らない分野の本を開拓しているのだが、私も同じ目的でこれを読もうと思って、それはそれでまったく知らない世界の本がほとんどだったので、面白かった。なかにはアメリー・ノトンとかアゴタ・クリストフとかも出てきて、そういう場合にはどんな感想を書いているか興味津々ではあったのだが。

それと、ちょうど彼女が『赤朽葉家の伝説』や『私の男』を書いていた時期のことも少々かかれていたのが面白かった。やっぱ、『赤朽葉家の伝説』は紅緑村が舞台だから、そこに滞在したほうが書きやすかったのだろうね。いざって時に資料なんかも手に入れやすいだろうし、いったいどのあたりをイメージしているのかはよく分からないけど、現場に行ってみたり。たぶんNHKの「だんだん」の後だったら、もっと方言を取り入れたんだろうけど。

『私の男』って本はまだ読んでいないが、たぶん主人公の立場に自分を置くための作業として、あんな風に一切の読書を絶ってDVDを見たり音楽を聴いて小説の世界に入り込むことが必要だったのでしょうね。そのために一週間くらいその世界に没頭して痩せてしまうくらいというのは、さすがプロって感じ。そうやって小説のための世界が出来上がれば、一回分の量が書けたら、そこから抜け出て、また連載締め切りの前にそこに入ればいいという安心感ができて、他の作業をすることができるというのは、みんな作家さんってやっていることなんでしょうか?彼女一人の作法だとしても面白い。

それにしてもこの人の読書量ってすごい。そうとうの速読派みたいで、昼前に起きて夕方まで仕事して、それからふらふらと本屋に行って大量の本を買い込んで、晩飯食ってから夜更けまで読んで寝るということを繰り返しているようだけど、まぁこの読書日記を読んでいると、一晩に一冊のスピードで読んでいるのかと勘違いしそうになるが、日付が書いてないから実際にはそんなことはないのでしょうね。しかし、まぁすごい。それはそうと、ミステリーってそんなに面白いのでしょうか。エラリー・クイーンを高校生のころに読んでいたくらいで、ほとんど知らないのだけど。

『バルタザールの遍歴』

2009年02月11日 | 作家サ行
佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』(文春文庫、1991年)

第3回ファンタジーノベル大賞を受賞した作品ということだが、だいたいこの賞の受賞作がそうであるように、どこがファンタジー?と首を傾げざるをえない。まぁ主人公が一つの肉体を共有する双子のバルタザールとメルヒオールで、幽体離脱をするということが、まさにファンタジーなんだろう。

ときは20世紀初頭のウィーン。第一次大戦で消滅するハプスブルグ家につらなる貴族の末裔が没落していくのと同時に、ドイツやウィーンは混乱の局地にありヒットラーが台頭する。一つの肉体を共有する双子のバルタザールとメルヒオールは貴族社会の没落にみをあわせるかのように、時代の変化に抗うでもなく生き延びようとするでもなく、だらだらと没落に流されていく。酒におぼれ、愛するマグダに愛するともいえずに、嫌いなシュトゥルツにやってしまい、逃げるようにウィーンを離れて、アフリカに渡るも、ふたりを餌食にしようとするアンドレアスとベルタの兄妹の罠にはまってしまう。ついには...なんかハリウッドの映画にでもなりそうな小説ではある。

しかし1915年にはアインシュタインが一般相対性理論を発表し、同じ頃スイスのジュネーヴ大学ではソシュールが一般言語学の授業でのちに弟子たちによってまとめられるあの有名な講義を行っていたのだ。彼らの伝記を読んで感じられる時代の雰囲気というものが、この小説によって描かれる同じ時代の同じヨーロッパの雰囲気とまるで違うの驚く。この小説のヨーロッパはいったいいつの時代なのだろうと思うような時代がかっているが、自動車にのって買い物に出かけるだとか、飛行機で旅行するなんていう描写を見ると、はやり20世紀のはじめなんだなと納得するのだが。

でもよく考えてみると、フランスでも同じことなんだろう。ちょうど同じ時代にプルーストがあの『失われた時を求めて』を書いて、貴族ブルジョワ的日常生活の終焉を描いていたのだし、映画『タイタニック』も同じ時代で、あのなかで主人公のケイト・ウィンスレット演じるローズはヨーロッパの没落寸前のブルジョワの娘で成金のホックリーに金目当てで結婚させられる。ローズの母親がその没落寸前のブルジョワの雰囲気をみごとに演じていた。この母親のような雰囲気がこの小説の雰囲気でもある。

ウィーンというのがまたそんな退廃的で薄暗い雰囲気をかもし出すところなのだろうか?まぁ退廃的で有名なクリムトなんかが活躍した時代でもあるのだから、そこから推して知るべしか。篠田節子さんの『カノン』にも主人公がウィーンで味わうどん底の絶望的な日々が描かれているけれども、まったく時代が違うとはいえ、共通した暗さがある。

こんな風に見てくると、この小説の退廃的な雰囲気というのは20世紀初頭のヨーロッパに特有のものなんだろうな。

『赤朽葉家の伝説』

2009年01月21日 | 作家サ行
桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』(東京創元社、2006年)

昨年、直木賞を受賞した桜庭一樹の長編小説で、舞台が彼女の出身である鳥取県西部に置かれ、その山の民とかたたらといった神話を題材にした、しかし時代は現代に置かれている、不思議な小説。

とりあえず、彼女と同じ鳥取県西部の出身なので、鳥取県西部と明記されている以外の適当に当て字で作られた地名などをあれこれ推測しながら読むという楽しみがあった。

たとえば、紅緑村というのはどう考えても米子のことのようだが、確信はない。その他、碑野川というのは鳥取県西部を流れている日野川のことだろうし、錦港というのはたぶん、境港のことでなかったら、米子市内にある錦公園を使ったものだろう。そしてこの小説の重要な神話的舞台となっている溶鉱炉をもつ赤朽葉製鉄とはたぶん米子の隣町である安来にある日立製鉄のことだろうか。

ただ地理的な距離感はまったく現実を無視して書かれているようなので、赤朽葉家のお屋敷がある山の中腹とそこにいたる「だんだん」になった職員住宅の街というのはいったいどこなのか分らない。そのようなものはないだろうし、ここで「だんだん」が繰り返し使われるのは、今NHKの朝の連続ドラマのタイトルにもなっているこの地方の方言である「ありがとう」の意味の言葉「だんだん」を強調したいためではないかと思う。そして毛毬の時代に廃れていき、瞳子の時代にはまたところどころ復活してきたアーケード街も私が高校生の頃によく自転車で通ったところだし、穂積蝶子が通ったという県内有数の進学校はたぶん米子東高校だろう。桜庭もここの卒業生だ。

なんといってもこの小説は主人公の万葉でもっているようなものだろう。山出しの娘で、ある日一人置いていかれてしまい、近所の多田夫妻に育てられ、これまた不思議なタツに認められて赤朽葉本家に嫁入りする。

山出しなんてものが本当にいたのかどうか、私も知らないが、たしかに私が小さかった1950年代後半はまだ山陰の山奥のようなところなら、山出しなんて呼ばれて不思議でない人々が住んでいた。たとえば私の村にも裏山に上がる道をしばらく上がると二つの道が交差するところに炭焼き小屋のようなものがあってそこに人が住んでいたらしい。私は夏になると蝉や甲虫を取りに上がったり冬になると橇すべりしに上がったが、だれか住んでいるのを見たようなぼんやりした記憶がある。しかし家の両親や祖父母との会話のなかにそこの人が出てくるようなことはなかった。きっと戦時中か終戦後の物不足の時代に疎開してきた人が世捨て人のようになって暮らしていたに違いない。そういう人がいても不思議でないような時代だったのだ。

そして毛毬が大暴れした80年代。私は80年代の風俗が嫌いなので、とくに感慨もないが、この小説にはそのあたりのことが概念的にもまた毛毬の活躍という具象的にも描かれている。きっと作者の桜庭一樹には思いいれのある時代だったのかもしれない。中学生の跳ねた連中が表に表に出て大暴れした時代。

それに比べるとこの小説でもきちんと描かれているように、その後の時代は悪が内向し、表向きと内向きがまったく想像も付かないほど乖離する時代で、表社会はのっぺらぼうになったように見かけはきれいだが、心の中はばば色って感じだろう。

そういう時代の移り変わりを赤朽葉タツ、万葉、毛毬、瞳子という女系でもって描き出した桜庭一樹の筆力はなかなかのものだと思う。それにしても不思議な小説だ。

そしてこの作品のもう一人重要な人物がたたらの伝統をひいた赤朽葉製鉄の溶鉱炉を命よりも大事に思い、時代の波にもまれて溶鉱炉の火が消されたあと、そのなかで自殺した片目の穂積豊寿だ。彼は万葉をひそかに愛し見守ってきた人でもある。無骨だが心優しい男で、典型的な職人魂をもった古いタイプの人間ということになるのだろう。私の親戚にも安来の日立製鉄で定年を迎えた叔父がいて、しゃべるのは下手で働くことしか能がないけど、製鉄の仕事に誇りをもっていたという人がいる。昨年秋に大山に行ったときに久しぶりに会ったのだが、そのとき少し製鉄の話も聞かせてもらった。ただ鉄を溶かして形にするとかというような簡単なことではない。まぁあたりまえか。この叔父さんもたたらの町の出身で、きっとこの小説のように彼が日立製鉄に就職した頃は花形の仕事だったのだろう。

たたらについてはこちらを参照のこと。横田町のたたらについてのサイト

『国語入試問題必勝法』

2008年12月12日 | 作家サ行
清水義範『国語入試問題必勝法』(講談社、1987年)

タイトルの面白さに惹かれて読んでみた。「猿蟹合戦とは何か」と「国語入試問題必勝法」が面白かった。

この人、「ブガロンチョのルノアール風マルケロ酒煮」がそうだが、嘘八百を書いているので、太宰が「お伽草子」で本当に猿蟹合戦を書いていないのかにわかには信じられない。それにこの昔話が男女の戦いを、というか男性支配にたいする女性の反逆を描いているというこの短編の結論だって、冗談だろうと、受け流すしかない。

そうなれば「国語入試問題必勝法」だって嘘に決まっている。だが、それを嘘と言い切れないほど、官僚の書く文章は判読が不可能に近いので、本当にそうかもしれないと思ってしまう。それほどお役所、とくに私が経験する限りでは厚労省あたりが書いてくる文章は判読が難しい。意味のないことを、さも意味があるかのように書かねばならないから、訳の分からない文章になるのだろう。

それはそれとして、私は高校生の頃、小説が好きでよく読んでいたので、自分は国語は得意だという、根拠のない自信をもっていて、ところが実際に国語の試験を受けるとあまり点数が芳しくないので、あれという思いを何度もしてきた(ってそんなに何度も入試を受けたわけではないけど)ので、「国語入試問題必勝法」は傑作に面白かった。たぶんこの短編は著者の実経験をもとにして書かれたのだろうと思う。そもそも文章の天才である作家があのようにしか書き得なかったことを30字にまとめろだとか主題を選べなんていうほうが間違っているというのはよく言われることだが、本来要約というものはすっと頭に入ってくるようなものでなければ意味がないのであり、もしそういうような要約が問題のなかにあれば、だれだって正解してしまうから、振り落とすための試験問題にならないというのは、その通りだろう。

私が通っていた高校は山陰地方でも指折りの進学校で、国立大学合格者200人を目指しているような公立高校だったが、なかには遊んでばかりいる(ように見せつつ)のに東大に入学したなんて優れものもいて、英語や数学なんかではけっこう教師泣かせの生徒もいたらしい。私はそんな生徒にはお目にかかったことがないが、教師が降参してしまい、私の勉強不足でしたなんて言ったという伝説も聞いたことがあるが、そういう人がいるかと思えば、クレバーを「りくちな」なんて訳してしまい、クラス一同一瞬唖然としつつも、まぁかわいい子だからいいかと大目に見られてしまうような女子もいるようなところであった。そういうなかで私は理数がまったくだめで、それなのに理系クラスに入って、教師から完全に無視されるような状態だった。20歳代くらいまでは、数学の試験ができなくて卒業できない、みたいな夢を見ることもあったくらいだから、相当のプレッシャーだったのだろうな。だから、試験問題ができないということは、自分の頭が悪いからだと思い込んでしまうところがあって、この小説のように、問題がおかしいのだという発想にはけっしてならなかった。だから、入試には役に立たなくとも、こんな馬鹿げたプレッシャーから解放されるだけでも、この手の本がもっと若いときに読めたらよかったのだが。

『砂漠の船』

2008年10月26日 | 作家サ行
篠田節子『砂漠の舟』(双葉社、2004年)

作者が小説の中で造形する人物が作者ではないことは当然のことだし、ましてや作者の分身とか一部などということも篠田節子くらいになると、ありえない。それを承知の上で、この小説で描かれる主人公の幹郎という人物が私は嫌いだ。はっきり言って、言行不一致、言っている理想と彼の実際にやっている行動がまったく違っている、しかもその違っているということに本人が気づいていないという、典型的な頭でっかち人間、口あたりのいいことを言っているが、現実はそうなっていないことをまったく分っていない、「民主的」(かっこ付きだ)人間といわれるような奴らの典型である。問題は作者がそのことを自覚して書いているのかどうかということもある。私は篠田節子くらいの作家ならそのことをよく分かって書いたのではないかと思うのだが、読みながら、何度もクビをひねった。でも幹郎の妻の由美子に批判的なセリフを言わせていることから考えても、そういうことを狙って書いたのだろう。

組合だとか民主的活動とか言われるものを自己保身のかわりに使っているような輩がいる。そういう活動をしていれば上司からけっして無理難題を言われたり、不利な転勤を迫られたりすることがないという、普通の人から見たら逆じゃないか、組合活動なんかしていたら余計に上司からにらまれたりするのじゃないかと思うだろうが、じつはある程度組合の強いところだったら、組合活動をしていると下手に手出しできないというこををよく分かっていて、適当に組合活動に参加して自己保身をしている輩がいる。本当にそういう輩は直感が鋭いのだろう。普通はみんなそんなことは考えないから、周囲からは自分を犠牲にして組合活動をしている立派な人と思われているのだから始末が悪い。じゃぁ奥さんもそういう活動をさせたらいいじゃないかと思うだろうが、けっしてさせない。嫁がそんなことをするなんてと思っている。嫁には家のことをしてもらわなければならないという考えなのだ。どこが民主的なんだか。

私はこの小説の主人公である幹郎の言動を読みながら、この男を思い出して気分が悪くなってきた。幹郎は仕事よりも家庭や、みんなで団地の掃除や共同作業をするコミュニティーを大事にしたいといって、会社でも転勤を拒否し、その代わりに昇格も断念している。そしてそれを妻の由美子や娘の茜にもおしつけ、由美子が会社の海外展開で新しいプロジェクトのために海外転勤を打診されたときも無理やり辞めさせ、茜が私立中学に進学したいと言ったときにも人を蹴落とすことしか考えないような人間になるなと言って断念させて公立中学に通わせた。

そこまでしたのに、結局は幹郎は系列会社に出向になり、最後は技術もないのに整備工としてまた別の会社に出向させられる。そして妻は自分の思い通りの仕事ができなかった恨みを茜の独立と同時に別居そして離婚というかたちで付き返してきたのだった。また娘の茜は幹郎が勧める福祉を毛嫌いし、自分の能力を生かせる仕事としてゲームプロダクションに就職して独立する。

もちろん団地が荒廃していくのは幹郎のせいではない。だが口ではいいことを言いながら、自分に言い寄ってきた職場の若い娘に翻弄される。まさに現代人の典型のような人間だ。

だがと私は思う。現代に言行の一致している人間なんているのだろうかと。若者が嫌う大人の典型が言行不一致だろう。偉そうなことを言う教師がそう。説教たれる大人がそう。子どものことを分っているようなことを言いながら裏で何をしているか分らない大人たち。新聞の書評欄で日本には大人がいなくなったと書いてあったが、まさにその通りだ。幹郎一人を責められないのかもしれない。

「ゴサインタン」

2008年03月19日 | 作家サ行
篠田節子『ゴサインタン』(双葉社、1996年)

1997年にこの小説で第10回山本周五郎賞を受賞したらしい。そして自作の「女たちのジハード」で直木賞受賞ということだから、ある意味油の乗っていた時期の作品のようだ。私はこのブログを始めた頃に、日本の現代小説といえば、まぁ篠田節子と高村薫くらいしか知らなかった。

その頃は「カノン」とか「ハルモニア」だとかのことを書いていたが、今にして思えば、その時期の作品から、超常現象的な出来事が作品の主題になっていた。といっても略歴を見ると、これらの作品もこの作品とほぼ同じような時期に書かれているから、それは不思議でもない。

まだ「カノン」とか「ハルモニア」あたりは個人の特異な能力というように見ることも可能な現象だったから、まだいいとしても、この作品では山崩れを予言するとか、土砂の中に埋まった人を言い当てるとか、病気を治癒するとかというような、ありえねーといいたくなるような出来事が起きるものとして描かれている。それに主人公の輝和を彼女の逃げ帰ったネパールまで行かせるような執着力がどこから生じているのか、淑子とのかかわりの希薄さがずっと描かれていることを考えると、ちょっと疑問に思っても仕方ないだろう。

カルバナ・タミという女性がネパールのある宗教の習慣から少女の頃に巫女というか神の使いとして寺院で扱われていたというのは分かる。そして生理が始まると放り出され、カトマンズで工員として働いているところを日本につれてこられて、輝和と見合いをさせられるという出来事もありえそうな話だ。だが、彼女が神がかりになって普通ではしゃべれない日本語をとうとうを口走ったり、病人を治したり、ということになるといったい作者は何を書きたいのかと頭をひねってしまう。

「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」

2008年03月06日 | 作家サ行
桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(富士見書房、2004年)

なんだかんだ言ったって、小説というものは現実を反映しているものだと思う。現実という言い方がまずければ、現実のとらえ方とでもいうものを。そう思えば、この小説も、けっして奇想天外ではなく、現実に足をつけたものの見方を提示しているのがすぐに分かる。だいたい登場人物も出来事も、けっしてありえないことではなく、まさにありそうなことばかりだ。ただこの少女趣味的な、オタク的なイラストが、それを捻じ曲げている、というか別のベクトルを強く押し出しているために、それが見えてこないだけだろう。

漁師だった父親を遭難で失い母親が生活保護を受けながら、その収入とパートによるごくわずかの収入で生活している山田なぎさの家族。兄の友彦は引きこもりになり、なぎさに言わせれば「貴族」のようになっている。でも彼だけがなぎさの精神的な平衡感覚を保たせてくれる存在なのだ。

そしてなぎさの中学に転向してきた海野藻屑。この町の出身で東京に出て人気歌手として有名になったが今はそのブームも去って戻ってきた海野雅愛とともにやってきた少女。父親の暴力を小さな頃からうけ耳は片方が聞こえず股関節を傷めたために障害をもち障害者として認定されている。しかしストックホルム症候群を示し、けっして父親が悪いとは思っていない。自分は人魚だと思うことで現実から逃避している。

場所は境港のある中学というように実在する町を指定している。近くに自衛隊の基地があるとか港町だとか、実在する境港を示すような説明もあるが、ばらばらにされた藻屑の飼い犬を探しに行ったり、藻屑自身が父親にばらばらにされて捨てられる蜷山は、ちょっと歩いていけるようなところにあるように書かれているが、現実の境港は夜見が浜半島という砂州の先端にある町なので山は存在しない。対岸にある島根半島の山なのかという気もするが、冬に雪が降ってスキーができるような山はないから、このあたりにあるそのような山といえば大山しかない。しかし境港からすぐに歩いていけるような山ではない。また彼らが映画を見に行く場面が出てきて、たぶん米子のことを指していると思われるが、山の奥からずっと出てきたバスに乗ってその町の駅前に行くような描写になっているのも位置関係からすると現実とは違う。

もちろん小説の舞台が現実と違うのは当たり前で、私がここであれこれと指摘をしたのは、境港と冒頭で現実の町が指定されているけれども、小説の舞台は実際には現実の町ではないということを指摘しておきたいからだ。なぜそんなことをするのか?なぜ現実に存在する町を指定しておいて、実在しない町を描いているのか?そこのところが分からない。

この小説がいったいだれをターゲットにして書かれたものなのだろうか?もちろん作者の意図はあるだろう。だがこのイラストを見る限りでは小学生から中学生あたりだろう。とても50歳を超えた私なんかに読んでもらいたいと思っているのではないことははっきりしている。そのわりにはこの現実離れしたイラストとその小説のじつに現実に密着した内容は、まったくミスマッチのように思える。それとも現代の小学生中学生はこういうちぐはぐな、つまり現実を現実としては見ないような生き方をしているのだろうか。そうだとするなら、本当に恐ろしい話だ。

登場人物たちは、私にはみんなまともな人間たちに見える。ただ一人海野雅愛以外は。なぎさはもちろんのこと、なぎさと藻屑のあいだに割り込んでこようとする花名島だって、なぎさの担任だって、みんなまともだ。みんなまともだから異常な事件が起きないわけではない。この小説のおそろしいところは、そうしたまともな人間たちの世界に少数存在する海野雅愛のような人間の異常さをまともな人間たちの根底にもあるかのような描き方をしていることだ。砂糖菓子だとか弾丸だとかという言葉をなぎさに口にさせることで。

しかし本当は彼らはみんなまともなのに、なぜそんな風に異常が人間存在の根底にあるような描き方をするのか。「現代の病理」?

そういう意味では作品そのものの成立要件がホラー的と言えるのかもしれない。


「しゃべれども しゃべれども」

2007年11月09日 | 作家サ行
佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』(新潮社、1997年)

また一つ小説の醍醐味を味わわせてくれる作品に出会った。いろいろ読んでいるとこういう優れものの作品に遭遇するから、捨石はたくさんあっても、自分で探すのはやめられない。人から言われて読んだのでは、なかなかこういう開けてびっくり玉手箱的な喜びは得られないだろう。

少し前に国文太一主演で映画をやっていたとおもうが、見なくてよかった。見ていたら、小説を読んでもこれだけの感動は得られなかったと思う。というのは映画の2時間という枠に収まらないスケールがあるし、単に時の移ろいだけでなく、登場人物たちの微妙な心の移ろいがこの小説では上手に描いてあるが、これは映画ではなかなか難しいことだと思うからだ。もちろん映画というメディアに心の微妙な変化を描写することができないなどと不遜なことを思ってはいないが、たいていの監督というか脚本家は話の流れの面白さ、あるいは登場人物のキャラの面白さにばかり目を向けて、微妙な心の変化を映像の形で示すということにあまり関心がなさそうだ。

それぞれに心の問題を抱えた良、十河、村林、湯河原が三つ葉のもとで落語を習うといっても、落語を覚えました、三つ葉とのやり取りのなかで問題が解決しました、みたいな短絡的な話ではない。落語そのものにそんな吃音や失恋の病や学校でのいじめの問題が解決できるわけはない。やっぱりな、と思わせておいて、でも三つ葉という一途に古典落語を愛しているけどあれこれの悩みをもって自分の殻を敗れないでいる二つ目の噺家との付き合いのなかで、やっぱり落語だから解決できるんやと思わせる話になっている。

登場人物の心の変化だってじつに細かく描かれている。けっして紋切り型ではない。村林の件だって、湯河原がバッティングのコーチをしてやっていじめっ子の宮田に勝てるという展開ではなく、負けてしまい、しかし落語で笑わして新しい人間関係を切り開いていく、自分も関西弁を使わない決心をするというような、面白い展開になっている。そもそも村林がみんなから笑われても関西弁を使い続ける心意気がすごいのだ。

わいも一時期落語にはまったことがあってんで。米朝のテープ聴いて暗記してな、人前でやったことがあってん。それが今の上さんなんやけど。上さんが怪我をしてちょっとへこんどるときやったから、なんかしらんけどえらい受けてもうて、まぁそれで二人の仲もぐっと縮まったちゅーわけやねん。米朝はもちろん枝雀もほんま大好きで、サンケイホールとかによう聞きにいったもんやで。落語を知るきっかけになったのにはまた別の女性がちょっと絡んでるんやけど、まぁこれ以上話すとややこしーなるからやめとこ。

それにしてもこれだけの登場人物を個性的に作り上げて(つまり書き上げて)、しかも微妙な心の移ろいを描ききるこの作者の力はすごいなと思う。