goo blog サービス終了のお知らせ 

読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『竜馬がゆく』

2010年01月08日 | 作家サ行
司馬遼太郎『竜馬がゆく』(一、二)(文春文庫)

今年のNHKの大河ドラマは『龍馬伝』ということで、ご他聞にもれず、私も龍馬である。龍馬といえば、司馬遼太郎のこの小説の右に出るものはないだろう。ずっと避けてきていたが(龍馬も司馬遼太郎も)、潮時だろうとということで、図書館に行ったら、ちょうど一巻と二巻が並んで返却コーナーで私を待っていた。年末に借りたので、正月をはさんで、けっこう長期に借りられる。

もっとも密な文章かと思ったら、すかすか。しかし言葉というものがもつ力は、字数ではないということを司馬遼太郎の文章が示している。実際の龍馬から逸脱しているとか、史実に忠実ではないとか、専門家から言わせれば、いろいろ言いたいことがあるだろうが、この小説の持つイメージ喚起力はすばらしい。あっという間に龍馬の世界に引き込まれた。

ただ、龍馬のような偉大な人物を書くときのつねで、とにかく、大器晩成の龍馬の素質を早くから見込んでいたとか、龍馬の非凡さに早くから気づいていたというような表現が何度も出てくるのはやはりいただけない。そういうことを書けば書くほど、そんなことどうでも言えると思ってしまうからだ。

まだ2巻で、水原播磨介を助けて東海道の道中を一緒にしたことから、はっきりと態度を決めていなかった龍馬がやっと尊皇攘夷的な方向へ一歩を進みだして、外国の実体を知りたいと思うようになり、外国事情に詳しい土佐の蘭学者や画家のところへ出かけていって耳学問をするところまできたところだが、たぶんわざとだろうが、龍馬をどうしたいのか宙ぶらりんの状態にしておいた、というか、司馬遼太郎が決めかねていたようなところがある。

『篤姫』で薩摩藩の同じ時期の事情は分かっていたから、この小説を読んで、土佐藩の事情はずいぶんちがうのだということが分かって面白かった。じつはちょうど『龍馬伝』の第一回目を見て、なぜまるで町民が侍にへいつくするように、上士の前で龍馬たち下士が土下座したりするのか不思議だったが、長曾我部の国だったところに関が原で勝利した徳川家康が家臣の山内一豊を送り込んできたことから、彼の家臣が上士、長曾我部の家臣だったものたちが下士となって、厳格な身分差別が作られたという説明があって面白い。

まぁ『篤姫』でもそうだったが、歴史的事実そのままにはドラマはできていない。それにたいして目くじらをたてる必要はないだろうが、上記のような土佐藩の違いというのは、龍馬が脱藩するという方向に進むことになった決定的な事情だろうから、ドラマでも丁寧に描いておくほうがよかったと思うのだが。それに龍馬の家は土佐藩の下士のなかでは一二をあらそう分限者であり、司馬遼太郎によれば家老の家が正月には挨拶に出向いたというから、身分の上ではたしかに下士で藩政に口出しできるような身分ではないにしても、藩の上層部とこれだけのパイプがあるようには、ドラマでは描かれていないのは、ちょっと違うんじゃないのと思う。

龍馬の母親が上士の屋敷に連れて行かれた龍馬を助けに行って、許しを請うたことで、上士が面倒になって許してやれと言う場面が出てくるが、上のような事情が分かっていれば、あれがもし事実としても、この上士が龍馬の母親を放免したのは、彼女の家が家老と太いパイプをもっていたからだろうと予想がつく。

まぁあんなこんなで、何も知らないでドラマを見るよりも、司馬遼太郎を読んでから見るほうが、何倍も面白くなりそうだ。

『私の男』

2009年10月18日 | 作家サ行
桜庭一樹『私の男』(文芸春秋、2007年)

たしかこの小説でなんかの賞をもらっていたなと思い調べたら、直木賞だった。最近は奇想天外な小説なんてありふれているから、それほど驚きはしないが、9歳の少女が25歳の養父と性的な関係になり、それをずっと10数年間続けてきたという話で、主人公の花にとって、養父の惇悟は「おとうちゃん」であると同時に「私の男」でもあるというような内容だ。ちょうどこの小説を書いている頃の桜庭の読書日記を読んだこともあって、それにはこの小説を執筆するときには、部屋を真っ暗にしてなにやらの音楽をかけて、主人公になりきるのだというようなことが書いてあった。なるほど、あのときはこの花になっていたんだなと思って、感慨深く読んだ。

事実は小説よりも奇なりというくらいだから、逆にこの小説で書かれているような、非現実的な出来事も、現実世界ではあちこちに実在するのかもしれない。だが、そんなことを考えてみても仕方がないことだ。電車に乗っても仕事場に行ってもそれらしい女性はいないが、AVに出て稼いでいる女性がわんさかといるのだ。現実は私のような節穴には見えはしないだろう。というか電車に乗ったり通りを歩いているだけでは現実は見えてこないだろう。そんな簡単なものではない。

それにしても『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』とか『赤朽葉家の伝説』などからは想像もできないような「大人」の世界を描いているように見える。花と養父の性的な関係ということだけではなく、花という少女から大人への過渡期の女が以外に自己主張する女性であることは、随所に見て取れる。そういう自己主張(親子のあいだなら何をしてもいいとか、大塩のおじさんに養父との関係を非難されるとちがうとはっきりと反論するところなど)はけっして子どもにはない姿を見ることができるからだ。

章立てが時間順ではなく逆になっているとか、章ごとに視点を変えてあるのも面白い。これなら執筆のたびにその人物になりきらなければ書けないだろうから、あんなふうに部屋に閉じこもって登場人物に成りきり、書きあがるまでは出てこないくらいの状態で書く必要があるのだろう。

どうでもいいことだが、フランス語で女と妻がともにfemmeというので、私の妻といいつつ私の女と言っているようなものなのだが、私の男ってどういうのだろう。まさかmon hommeはないだろう、せいぜいmon amantかなと思って調べたら、所有形容詞をつけてhommeには夫とか愛人という意味があるらしいから、まんざら間違いではなさそうだ。フランス語の小説を読んでいても、たぶんmon hommeなんて注意も向けずに通り過ぎてしまうだろう。もうすこし用心しながら読まなくっちゃ。

私には養父の惇悟がトヨエツに見えて仕方がなかった。

『仮想儀礼』

2009年10月09日 | 作家サ行
篠田節子『仮想儀礼』(新潮社、2008年)

宗教ほど金になるものはない。捨てられていた金庫のなかに何百万もの現金が入っていたとか、どの町でも一等地に○○会館という、まるでギリシャ建築を思わせる立派な建物をもっているとか、本部の豪華な建物などを見るにつけ、宗教ほど金になるものはない。

はっきり言って元手はただ。要は人の心をいかに掴むかだけ。それもみんな心が病んでいるのだから、掴まれてくれる素地をみんなもっている。そして事態が入り組んでいる現代社会のシステムが偶然と必然の区別がつかなくしてくれる。勝手に偶然を必然と勘違いしてありがたがってくれる。

そういう現代社会の闇的な部分を扱ったのがこの小説だ。私は若い頃は科学技術が発展して人間社会が明るく風通しがよくなれば、宗教なんか無用になると信じていたが、そんな簡単なものではないということが年とともに分かってきた。

自分自身がいい例だ。年をとれば、枯れるように欲望もなくなり、情念も薄れていくと思っていたが、年をとればとるほど、社会の醜さが見えてきて腹が立つし、またそれを変えようとして努力すればするほど何も変わらない社会によけい腹が立つ。年をとれば情念が枯れていくどころか、身体がゆうことをきかなくなるたびに、絶望感と不安感にさいなまれる。きっとお金をもっているかどうかは、ある程度までは違うだろうが、それを超えたら、そんなことは関係なくなるだろう。自分で自分の始末ができなくなることほど堪えられないことはないからだ。お金をかけて「親切な」ケアをしてもらえるのもいいだろうが、私はそんなお金はないから、野垂れ死にするだろう。

そうやっていきがっていられるのも、まだそれだけの元気があるからだ。人間誰しも死ぬが、それまでにどうやっていくかは違う。そういう不安が、そしてもちろん死ぬことの不安をだれも解決してはくれない。そういう将来のことでなく、今を生きることにも苦しんでいる人もいるのだ。そういうところに宗教が魅力的に見えてきても不思議ではない。

しかし宗教がお金になるからと言って、人間の心はそんな簡単なものではないということをこの小説は示している。金のために作り上げたつもりだった宗教にがんじがらめにされてしまい、他人の殺人さえも引き受けなければならなくなるという皮肉をこの小説は込めている。嘘八百で作り上げた信仰に本当にはまりこんでしまった人たちには勝てない。現実の宗教もあんがいそうなのかもしれない。信者をいいように操っているつもりが、操っていると思っているほうが信じ込んだ信者に操られているのかもしれない。

篠田節子さんは、これまでもけっこうオカルトっぽい小説や超常現象っぽいことを扱った小説を書いているので、ある意味で彼女のこれまでの総決算的な意味ももっているように思う。けっしてリアリティを失わない筆致で、最後までよく書き上げたと思う。

しかしその題材ゆえか、題材の取り扱い方のゆえかは、私には分からないが、すごいとうなるような小説ではなかった。

『犯罪小説家』

2009年09月21日 | 作家サ行
雫井脩介『犯罪小説家』(双葉社、2008年)

犯罪小説の作家という意味でもあり、犯罪をおかした小説家という意味でもある、犯罪小説家。タイトルだけ見るとなんかすごく好奇心をそそられるが、よく考えてみると、この二つのどちらか、あるいは両方しかありえず、この小説もその両方のケースで、どうということもない作品であった。

待居涼司というデビューして4・5年目の新進の作家が『凍て鶴』という小説で文学賞を受賞する。それを期に映画化の話になり、小野川充という31歳のシナリオライターが監督・脚本・主演をすることになる。小野川が映画化のためにイメージを膨らませるために言い始めた、待居が自殺サイト「落花の会」とのかかわっていたのではないかという話が図星で、この関係を調査し始めたルポライターの今泉の死をめぐって、最後の最後には小野川は待居が「落花の会」のリリーの自殺幇助を行い、松野を殺していたということを知ってしまう、というような話。

犯罪小説家というタイトルにいったい何を求めていたのだろうかと、我ながらあきれる。よく考えてみれば、上にも書いたように、犯罪小説の作家か、犯罪を犯した小説家しかありえないが、犯罪小説の作家なんてごまんといるわけで珍しくもなんともないし、犯罪を犯した小説家なんて、これも面白くもなんともない。

実のところ、この小説の大きなテーマになっている『凍て鶴』の主題―ある地方都市の旧家の主人が息子に自分の愛人をあてがい嫁として娶らせ、夜な夜な息子の知らぬところでこの愛人である嫁を抱いていた―が、たしかにすけべじじいの深層の欲望を刺激する話ではあるけれども、なんだか古臭い話のように思うし、このへんのことを書いてあるこの小説の前半部分―作家の生活や文学賞受賞の経緯などが書かれたあたりは、どうしてこう古臭い雰囲気になるのだろうかと、首を傾げたくなる。

あれだけシュールな思い込みを次から次へと口にしていた小野川充はじつはまったく思いつきで現実に待居がそんなことをしていたなんて露にも疑っていなかったというのも、なんだかなー。要するに、イメージを膨らませる想像力に欠けていたってことなんでしょう。だからあのように次々シュールな思い込みを口にして、今泉を動かして、もっと面白い人物造形ができないものかと苦しんでいたわけなんだろう。

最近は『クローズド・ノート』が沢尻エリカ主演の映画化されたり、『犯人に告ぐ』がトヨエツ主演で映画化されたりと、ちょっと飛ぶ鳥を落とす勢いの雫井だったので、もんのすごく期待していたのだけど、この小説じゃないけど、ちょっと期待に押しつぶされたってとこでしょうか。

『ノルゲ』

2009年09月11日 | 作家サ行
佐伯一麦『ノルゲ』(講談社、2007年)

こういう小説を読むと、私小説って一体なんだろう、純文学ってつまらないなと思ってしまう。そもそも純文学なんて私が言っていることではなくて、作者本人が言っているのだから、訳がわからない。

この小説は、作者が染色を専門とする妻がノルウェーのオスロの大学に留学するので、一人で暮らすことに不安があり、同行して一年間をオスロで過ごした経験をもとに書いたもので、到着直後から一年後の夏にオスロを離れるまでが、時間順に描かれている。

日々の生活―とくに魚などの食材の買い物、ノルウェー語学校への通学、妻の級友や先生の家族との交流、妻が学校に行っている間に起きるもろもろのハプニング―が中心に描かれ、そこから導き出されるように、「おれ」の高校時代の話、前妻の話、電気工としての体験などが回想のかたちで描かれていく。

そういう構成という意味では、まったく破綻のない、よくできた小説といえるだろう。そのことは否定しない。さすがにいろいろな賞を受賞してきた熟練の私小説家だけのことはある。

この小説で一番印象に残るのは、この作家の持病でもある精神の病―うつ病として書いてあったと思う―がノルウェーに多いことである。冬になると白夜に近い状態になるためにただでさえ精神の病の原因になっているだけでなく、季節の変わり目になると急激に強まる太陽の刺激が身体の調子を狂わせることから生じる精神の病もあるそうで、ノルウェーには精神の病に陥る人が多いそうだ。

リーヴという同じ建物に住んでいて洗濯機を共同で使っているので定期的に会って話をするようになった若い女性もそうした病気を抱えているが、いまは回復期にあるという。彼女との会話は彼女が薦めてくれた『鳥』というノルウェーの作家の小説を「おれ」が読み進め、それが話題になるという点で、一番この小説の核になっているように思われる。

この小説では妻との会話はほとんど書かれていないこともあり、またはっきりとは明記されていないが、「おれ」もリーヴもおなじ精神の病を抱えていることをそれとなく告白しあったこともあり、なぜかしら「おれ」も他人には言えないようなことも彼女には語っており、二人の会話がこの小説の一番意味のある会話になっている。このことは、彼女が紹介してくれた『鳥』のマティスに「おれ」が自分を同化していくことがこの小説で重要な位置づけを与えられていることからも推測できる。

だが、と私は最初の疑問に戻る。こういう小説を読んだからといって、何が残るのだろうか。私には何も残らない。たしかにいくつか面白い発見はあったが、それは瑣末なことであって、この小説を読んで得られる喜びにはつながらない。

小林聡美、もたいまさこ、片桐はいり共演の『かもめ食堂』はノルウェーではなくてフィンランドが舞台になっていたけれど、この映画では北欧の夏がのんびりとした、それこそあくせくとした日本人には癒しの空間のように描かれていたが、やはり現実は違うのだろうなと思う。

『ナラタージュ』

2009年08月08日 | 作家サ行
島本理生『ナラタージュ』(角川書店、2005年)

ナラタージュとは、映画などで、主人公が回想の形で、過去の出来事を物語ることらしい。表紙の見開きにそう書いてあった。なるほど、工藤泉という女性が、これから結婚しようとしている男に、昔好きだった男とのかかわりをナラタージュするというのが、この小説の作りになっている。

工藤泉は高校生の頃から秘かに憧れていた演劇部の顧問である葉山先生にその思いを告げようとして、逆に葉山先生からなぜその気持ちを自分が受け容れることができないのかという話を聞くことになる。それは葉山先生の母親と妻との嫁姑の争いの結果、妻が多少とも殺意をもって母親の住む家に放火したことから、葉山先生が真に守ってやるべき妻を守りきれず犯罪者にしてしまったこと、その結果妻と母親との関係も完全に修復不可能なものになったことを苦にしているということだった。

高校を卒業し大学一年のときに、その演劇部の発表会に助っ人としてかり出され再び葉山先生と定期的に会うようになり、やはりかつての気持ちを打ち明けると葉山先生もどうしても応えることができないという。そのうち泉は同じ助太刀として来ていた小野君と付き合うようになるが、見かけとは違う彼の強引さに嫌気がさして分かれる。葉山先生も妻と再び生活を共にすることを決心して、お互いに惹かれあう気持ちをもちながら分かれていくという、思春期から大人の女になっていく時期の女性の心の揺れをきめ細かに描いた小説と言ったらいいだろうか。

葉山先生の裏に深い傷をもったその生き方がなにやら夏目漱石の『こころ』の「先生」を思わせるところがあって、これを多少とも意識しているのかなと思ったが、やっぱり単なる偶然だろう。

というのは、その傷というのが、どうも嫁姑の争いというのだから、ちょっとね。それをあいだに立たされた男の深い傷っていうのがどうも。嫁姑の争いというのは、世間ではどんな風に理解されているのか知らないが、人間性の問題ではないということをここではっきり言っておこう。嫁か姑かどちらかが悪いから嫁姑の争いが起きると思われているのかもしれないが、じつはそうではなくて、嫁姑だから争いが起きるのだ。

だから、どちらが正いとか悪いかということを詮索していては決して解決しない。どちらも悪くない。嫁と姑だから争うのだということを理解しないと、この問題は決して正しい対応ができない。それぞれの配偶者が、つまり嫁の夫は嫁を、姑の夫は姑を支持してやるしかない。たとえ、葉山先生のように、早くに父親を亡くし、この母親がひとりで自分を育ててくれたのだとしても、嫁と円満に暮らそうと思ったら、嫁の立場に立ってやるしかない。そうしなかったら、嫁は夫を離れていく。ただそれだけのことだ。

思いやりがなかったとか、妻の心をもっと深く読んでやればよかったとか、そんな問題ではない。どんなに思いやりがあっても、妻の心を深く読んでも、嫁姑の争いはなくならない。夫としてできることは妻の立場にたってやることだけだ。それができないのなら、離婚するしかない。万が一、離婚するところまでいかなくても、心のそこで妻はずっとそのことで夫を恨み続ける。そして年がいってから、その逆襲が出てくる。

漱石の『こころ』ほどの深みがないなと思ったのは、作者がそういうことも分からないで葉山先生の心の傷を嫁姑の争いにおいているからだ。そんなことを心の傷にするようでは人生経験が足りないね、と私のようなじじいの読者には底の浅さを見抜かれてしまうよ。

たしかに泉の心の微妙な揺れの描写はうまいのかもしれないし、こういったところが現代の二十歳前後の若い女性のリアルな姿なのかもしれないと思うが、感動がないのはなぜなんだろう。


『図書館の神様』

2009年07月17日 | 作家サ行
瀬尾まいこ『図書館の神様』(マガジンハウス、2003年)

この小説を読むと、人生って無意味だなという気持ちになる。バレーが下手だったからときつく言われてドロップアウトしてしまうような人生にどんな意味がある? 不倫だって別に悪くないじゃん、だって好きになった男にたまたま新婚の妻がいただけ。教員採用試験だっていったいどうして合格したのか分からないし、教えるほうも教える意味が分からないようなことを教えなきゃいけないし。人生って意味なんかない、ただちょっと本棚の配列を変えるように、見た目を変えてみれば楽しくなるかもしれない、そんなもの?

最近、人生なんてレールのない道行のようなもので、なにがどうなるのか分からない無意味なものだとつくづく思う、そしてそれ以上に、人生に意味を持たせるのは自分自身だとも考えている。ではなにで無意味な人生に意味をもたせるのか。それは人それぞれ得手不得手というものがあるので、自分の得意なことで意味を作り出せばいいのだ。

私のことでいえば、研究の成果を本というかたちにして残したい。生きた証のようなものだ。そしてそれが他の人から引用されて、ここにこんな研究があると認められるなら、それにこしたことはない。

昨日のニュース番組で日本の平均寿命がまたまた延びて、女性は86歳で世界一だと言っていた。70歳なんてまだ若い。毎日太極拳やダンスやあれこれやっているという若々しげな、そして100歳まで生きるわよと豪語しているおばちゃんがいた。まぁその人の勝手だが、生きた証をなにか残さないでいったいどんな意味があるのだろうかとひとごとながら思う。

どんな生きた証を残すか、それは本当に人それぞれなので、他人のことに口を挟むことはできない。人生は意味がないということを小説にして残すという、この著者のような人生もありだろう。


『小説フランス革命Ⅱ バスティーユの陥落』

2009年06月10日 | 作家サ行
佐藤賢一『小説フランス革命Ⅱ バスティーユの陥落』(集英社、2008年)

佐藤賢一さんがいま渾身の力をふり絞って連載中の「小説フランス革命Ⅱ」で、ちょうど1789年7月14日のバスティーユの陥落をはさむ数ヶ月のことが書かれている。「小説フランス革命Ⅰ」も読まずに、「小説フランス革命Ⅱ」のほうを先に読むというのもなんだけれど、まぁ図書館で借りて読むということになると、先にⅠのほうを予約していても、予約希望者がおおければこういうことになってしまう。しかたない。

おもにミラボーとロベスピエールの二人、パリの武装蜂起を先導した人物として描かれているカミーユ・デムーランという若者の視点で書かれている。

憲法制定国民議会が憲法制定を先にするか・人権宣言を先にするか、王命・王令の違いなどを議論して、まったく埒があかない状態にあるのに、業を煮やしているパリ市民の一人としてカミーユはとにかくパリが蜂起しないことには事態が進まないと考えるミラボーに扇動されるかたちで武装蜂起を行い、革命が始まった。

私はバスティーユの襲撃というのは、そこに幽閉されている多数の政治犯を解放するためだとばかり思っていたのだが、この小説ではそうではなくて、武器がまったくない蜂起したパリ市民が武器を手に入れようと、武器弾薬が隠匿されていると噂されるバスティーユを襲撃しようとして起こったことらしい。

それにしても初めてのパリでの市街戦だったということもあるせいか、同じ佐藤賢一さんが書いた『褐色の文豪』の7月革命のときの市街戦の描写とずいぶんと違って、おとなしいというか、あっさりとしているというか、なんか拍子抜けするような描写になっている。たぶん同じ作家の書いたものだから、たぶんフランス革命のときの市街戦のほうがあっさりしていたのだろう。ただ全体に、描写が淡白になっているのは確かなようだ。どうもフランス革命という大事件のわりには、厚みが感じられないというか、血湧き肉踊る躍動感にかけるというか。

ミラボーというこの巻の中心人物を描くのに、『褐色の文豪』でもそうだが、人物のいい面も悪い面も、つまり人間的な部分をそっくり描き出すことは重要だろう。ここではミラボーの嫉妬にうずまく内面―ラ・ファイエットにたいする妬み、パリ市長バイイへの侮蔑など―がそっくり描かれていて、一歩間違える自分の栄誉心のために革命を起こしたかのようなふうに見える。なんか腹黒いものをもった百戦錬磨のじじいという描き方である。対するロベスピエールは一本気な若者で、革命の大義を通そうと一生懸命という感じだ。
ただそうした描き方が、この小説では功を奏していないというか、面白みを与えていない。この調子でいったら、フランス革命っていったいなんだったの、どこが偉大な革命だったのというようなことになりかねない。まぁまだまだ何巻も続く話なので、いまから先走って決め付けることはないだろうが、ちょっと心配だね。

『ミノタウロス』

2009年05月31日 | 作家サ行
佐藤亜紀『ミノタウロス』(講談社、2007年)

第一次大戦からロシア革命にいたる時代のウクライナ地方にある架空の村ミハイロフカおよびその周辺を舞台にした小説で、日雇い労働者から一介の地主に成り上がった父親を持つ、成人前のヴォーシャがこの激動の数年間をどんな風に生きたかを描いている。

前半は革命が起きてミハイロフカ周辺の農地でも小麦を刈り取るための労働者を集めるどころか、ならず者たちによって襲撃を受けるようになるまでのヴォーシャの少年時代から学校時代。キエフからやってきてけっして田舎暮らしになじもうとしない母親に溺愛された兄はすぐに士官学校に入って出兵し顔半分をなくしてもどってきた。キエフの実業学校にはいりそこの教師や生徒の馬鹿さ加減に嫌気がさして、喧嘩沙汰になり放校されてミハイロフカにもどってきたちょうどその頃に戦争が、そして革命が始まる。

そのころ父親もなくなり、隣の地主で世話をしてくれていたイチェルバートフが土地や家の管理をしてくれることになるが、彼のしたで働いていたグラバクと彼の一味に家を焼かれ押し出されてしまう。あちこちを放浪してさんざん食うや食わずの生活をしたあと、オーストリア兵で軍隊においていかれてしまったウルリヒ、そして日雇い労働者のフェディコの三人で行動するようになる。赤軍の飛行士が乗っていた飛行機をこの兵士を殺して乗り回すようになり、飛行機の戦闘能力の高さを見込まれて、グラバクの手下のような関係であちこち襲撃しながらすごすことになるが、最後の最後にグラバクを飛行機で襲って殺し、赤軍の大将のクラフチェンコにつかまって殺されてしまう。

昔、学生の頃に、『静かなドン』というロシア革命を描いた小説を読んだことがある。たぶんソ連の小説家だったから、革命を賞賛するような描き方だったと思う。革命にともなう軍事行動にきれいごとばかりでないのは当たり前だろう。現実の革命周辺の日々はきっとこの小説で描かれているような、どろどろぐちゃぐちゃしたものだったに違いない。だからといってそういう現実を描けば真実を描いたことになるというものではない。問題は理念が語られているかどうかがだと思う。

その意味ではこの小説は最初から革命の理念などを描こうなどという意図の下に書かれたものではないだろうし、そういうものに革命の理念うんぬんと言ったところで何の意味もないことは分かっている。

ルソーは小説を読んでどんな気持ちにさせるかによって小説の価値は決まるというようなことを書いていたように思うのだが、私も小説を判断するうえでこうした感情的な価値判断はあながち間違ってはいないと思う。この価値判断からすると、ほんとうにこの小説には腹立たしい感情しか抱かないという意味で、最低の小説だと思う。どうも私はこの佐藤亜紀という作家とは波長が合わない。

『笑うヤシュ・クック・モ』

2009年04月09日 | 作家サ行
沢村凛『笑うヤシュ・クック・モ』(双葉社、2008年)

沢村凛の小説は『カタブツ』と『ヤンのいた島』くらいしか読んでいないので、あまり偉そうなことは言えないが、これは沢村凛にしては上出来の作品とは言えないと思う。

2004年の『カタブツ』について、私は次のように書いている。

「初めて読む著者だし、著者の詳細を何も知らない(奥付に書いてあること以外には)し、だいだい男なのか女なのかも知らないが、この短編集、なかなか面白かった。日常生活の中で感じるちょっとしたことについて深く考え、それをもとに物語を作っていくという作品が多いが、じつによくできていると感心してしまう。物語の結構はそれほど面白いものではないが、そこにいたる主人公や登場人物のものの考え方感じ方のとらえかたが、ありそうって感じで、じつにリアル。」

駅で何時間も人を待っている状況での人間の生態をリアルにとらえているというのが私の感想なのだが、『笑うヤシュ・クック・モ』にはそのリアルさが欠けているのだ。たとえば、久しぶりに大学の同窓会に集まった仲良しグループの5人でサッカーのToto券を買って、それが一等にあたったという設定自体がまったくリアルでないのは、とりあえず置くことにしよう。それが物語が動き出す出発点になっているのだから、極限状況に置かれた人間がどんな行動ををとるのかという実験小説みたいなものだと思えばいいわけだからだ。

しかしそこから物語が動き出してからの登場人物の行動には読者が納得するような動きをしてくれないとリアリティーに欠けると感じて、うそっぽいなと思ってしまうのは仕方がない。たとえば、カメラの持ち主とおぼしき女性たちが写っている場所が日光だからということで日光に出かけるが、あちこち聞きまわって、最後に入った喫茶店の店員がたまたま見た「赤の王妃」の携帯の待ち受け画面にヤシュ・クック・モの写真が使われていたことから、話が新しい方向へ展開していくというのも、なんだかなと思ってしまう。そもそも待ち受け画面を、赤ちゃんとか愛犬の写真がつけてあって、「かわいいな」とじっと見ているのならいざしらず、携帯を使おうとしているところに店員がコーヒーをもっていったときにそれが見えるというのは不自然だ。ましてやヤシュ・クック・モのメガネから「赤の王妃」の不倫相手の椿の笑いとメガネへと連想して、椿が「赤の王妃」の不倫相手だと見破るのは、無理すぎる。

そしてリアリティーに欠ける決定的場面は、主人公と昇平が「赤の王妃」の自宅をつきとめて、そこに行ってみると、夫が死んでいた場面で、普通なら自分たちが犯人と間違われるのを怖れてすぐにでも逃げるか、警察に通報するはずなのに、主人公は「赤の王妃」が自首するまで待とうと猶予を与えることを提案するのは、全く理解できない。もちろん、これは主人公が「赤の王妃」探しをしているうちに彼女に恋心を抱いてしまったことが原因なのだが、それを匂わせるような伏線がまったくひかれていないのに、読者にそこまで読み取れというのは無理な要求だろう。

マヤ文明の不思議な遺跡である神殿の重層構造を物語のなかにもちこもうとする「意欲的な」試みに引きずられすぎた結果の無理がたたったのではないかと思う。

私が読んだもう一つの小説『ヤンのいた島』のほうは、グローバリゼーションの波に飲み込まれて、自分たちの伝統とか生き方を忘れてしまう島の人々の闘いを描いている。もちろんこの問題だって、なにか答えが出るようなものでもないし、私が感想として書いたように、「一度文明人に発見されてしまった未開社会は二度ともとに戻ることはない。だから一番いいのは決して発見されないように島の姿を消すことだ。ヤンという人物がもつ深い悲しみは闘いながらもこうしたもどかしさを見据えているところからきているのだろうか」と読者に思わせるようなリアリティーをもった作品を作りあげているのだから、それだけの力量のある作家なのだと思う。

仕掛けみたいなものにこだわらずに、もっと正面から問題に取り組んでほしい作家さんだ。