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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「クローズド・ノート」

2007年08月27日 | 作家サ行
雫井脩介『クローズド・ノート』(角川書店、2006年)

なかなかよく考えられた小説だと思う。冒頭から「その男の人は、私の住むマンションを見上げていた」で始まっているが、後から見直してみると、まさにここに結論の伏線がひかれていたわけだ。

「その男の人」は「隆」こと「石飛隆信」であり、彼が「私の住むマンションを見上げていた」のは、半年前までそこに住んでいたのが「その男の人」の彼女の「真野伊吹」であったからだ。突然の交通事故で亡くなったため、まだ彼女がいないのが信じられない、いまでも窓から手を振ってくれると思い、「その男の人」はときたまやってくるのだ。

「私」こと堀井香恵は石飛や真野とおなじ教育大の学生でマンドリンクラブに所属している。香恵がひょんなことからクローゼットの角にあるノート類に気づき、それが以前すんでいた人のものだろうと思ってしまっておいたが、だれも取りに来ないことからついに読んでしまい、伊吹と「隆」の恋物語を「覗き見」してしまうことになる。そして石飛の個展のために窓から身を乗り出した写真を撮らせ、それが伊吹として描かれているのをみて、あるいはそれ以前にある偶然から、香恵は伊吹が愛していた「隆」とは石飛のことだったということに気づく。

石飛がはたして香恵を伊吹と重ねてみていたかどうかは不明だし、たぶんそんなことはないだろうが、石飛にたいする伊吹の切ない思いを知ってしまった香恵は、石飛の個展で伊吹が書いた文章の一部を朗読して彼女の思いを石飛に伝える。

読み終えて、「あれ、香恵ってどこで石飛と知り合ったんだったけ?」と思い、よくよく思い出してみたら、香恵がバイトしている今井文具店に石飛が万年筆を買いに来たときに知り合ったんだということを思い出し、そうか、よく出来ているなと感心したのだった。
香恵のなかで石飛は、女性のマンションを見上げている「変質者」から万年筆のお客へ、そして素敵な絵を描く「イラストレータ」へ、そして恋愛の対象から敬愛する女性の恋人へと、何段階にも変貌を遂げていくことになる。

バイト先の可奈子さんとか、職人かたぎで客の前に出ると硬くなってしまう社長とか、人間描写も面白いし、なによりも「天然」といわれる香恵の語り口もなかなか面白い。


「墨攻」

2007年07月12日 | 作家サ行
酒見賢一『墨攻』(新潮社、1991年)

「後宮小説」で日本ファンタジーノベル大賞をとった酒見賢一の小説で、中島敦記念賞を受賞している。

例によって、中国の戦国時代に材をとった、一見歴史小説だが、本人も言うとおり、歴史小説ではないらしい。一応、墨家という、孔子孫子などと同様の歴史上の有名な人物に連なる思想化集団をもとにしたフィクションの人物が出てくるし、歴史上の中国の国名がでてきたりするが、その精神はやはり現代的なものだからということだろうか?

小説の内容そのものについては、私は、作者がこの墨家を任侠として、徹頭徹尾、「私」のためではなく、弱き国や民衆のために、無償で、知力を使う集団として描いていることに、感心した。自分の利益のことしか考えない風潮が蔓延している現代社会において、「私」を捨てて(別に捨てなくてもいいが)、他者のために、そして「私」に連なる他者のために、何からのアクションを起こして身を粉にして働くことは、いかばかりすごいことだろう。宮沢賢治のあの有名な「......こんな人に私はなりたい」という詩を実践している人は、現代社会にも人知れずいる。

それにしても、この作者の、最近の若者らしい、ドライな態度はどういったらいいのだろう。私はこの小説を読んで、城攻めの最後の最後に、わずかに興奮を(わくわくどきどき感を)覚えたに過ぎない。それは私が冷たいということではなくて、そういう書き方を作者がしているのだ。作者が醒めているから、読者も興奮することがない。それがこの作者の持ち味なのかもしれないが、なんだかなーという印象だ。

もちろん、中国という三千年の歴史をもつ国の姿を、あらゆる歴史上の有名な文献は知っているよというようなそぶりで書き上げるさまは、たしかに並みの知識ではないのだろうけど、やたらと読みにくい漢字の名前やら文献名がでてくると、身を引いてしまう私としては、前作同様とっつきにくい。

これを書いた当時でまだ30歳にもならないのに、まるで漢籍を踏破した老年みたいな書きっぷりに、なんだかねーと思ってしまう。

「ダイスをころがせ」

2007年03月31日 | 作家サ行
真保裕一『ダイスをころがせ』(毎日新聞社、2002年)

かつての松本清張とは毛色が違うけれども、社会派小説という意味では真保裕一も同系統の作家といえるのではないだろうか。無党派の一市民が衆議院選挙を戦うという、けっこう読み応えのある小説だった。

東京大学を出て、中央新聞の記者をしていた天知達彦は、自分の思うような記事がかけないことをから新聞社を辞めて衆議院選挙に出ることにする。ちょうど同じ頃、かつての同級生で同じ陸上部で、しかも一人の女性を争ったこともある駒井健一郎(コマケン)が子会社に出向させられたことへの怒りから、同じように会社を辞めたことを知り、参謀となってくれるように要請する。さまざまな紆余曲折を経て、天知は出身の静岡10区からの立候補を決め、任期の1年前から活動を開始する。最初は、少人数の取巻き立ったが...。

この小説の面白さの一つは、まったくの素人が、まったくの後援もなく、すべて自前で選挙を準備し戦っていくのに、どんな段取りが必要で、どれだけの費用がかかるのかということが分かるようになっていることだ。

事務所を探す、電話をひく、パソコン、プリンター、机、椅子、ソファなどなどを用意する、後援会を作ったら政治資金団体として届ける、ポスターを作るのにどれだけかかるか、任期の半年前からは講演会や演説会以外のポスターは禁止になることを始め、規制の政治団体に有利にできていること、定期的な駅頭などでの街宣、などなど。どんどんお金は出て行く。この小説では、達彦は1千万ちょっとくらいを退職金や貯金で用意しているという設定になっているが、参謀となるコマケンの生活費を300万も含めて、あっという間にお金はなくなってくる。

次に来るのは人間関係である。選挙ははっきり言って人海戦術のようなもの。とにかく人がいなければ何も出来ない。この小説ではほとんどが高校時代の友人関係によるものだが、これだけ入れ込んでくれる友人達が男も女もたくさんいるというのは、主人公の人柄によるものだろう。私なんか、きっとだれも応援にきてくれないのではないだろうか。ときどき素人が選挙に出ているのを見て、もし私が田舎の町議会選挙にでもでたら、どうなるだろう、なんて考えることもあるが、とてもこんなには応援してくれる知人友人はいないなと、思う。まぁ、それがお前の生き方だったんじゃないのか、と内心の声が聞こえる。

そうなんだよね。人がどう思うおうと、自分のしたいように生きればいいじゃないかというのが、私の信念だった。それは、もちろん若気の至りもあるのだが、ちょっと勘違いしていたところもあって、私はそれを人間関係なんかどうでもいいというように理解してしまっていた。友人関係というものを、来る者は拒まずだが、自らは行かないということを原理とした。その結果、まぁ、あまり深い友人というものなしにきてしまったというわけだ。もちろん、これからも無理をする気はないが、人間関係は大事だということを、いまさらながらに思うのだが、こればかりは仕方がない。

そういう意味ではこの小説は友情の物語でもある、と言えそうだ。

「火の粉」

2007年03月11日 | 作家サ行
雫井脩介『火の粉』(幻冬舎、2003年)

最近いそがしくて、あまり本を読めていなかったので、このブログも雑文でお茶を濁していた。今日は一日何もないし、読書に没頭しようとおもって、これを読んだ。雫井脩介、ほんとうに面白い。

簡単に言ってしまえば、自分が無罪にした男に自分の家族を惨殺されかけて、思い余って殺してしまった裁判長の話だ。

主要な登場人物が作り出す世界がいくつかある。たとえば裁判長をしていた梶間勲の心象風景、自分の判決が足かせとなって身動きできない理性、自分の母親の介護にはいっさい手を出さない人間性といったもの。また勲の息子の俊郎の妻である雪見の子育ての風景や母親としての心情のゆがみ。そして勲の妻である尋恵の姑にたいする屈折した思い。そして殺人鬼の武内の歪んだ行為などは、巻末に上げられている参考文献を見ると、作者がそういった文献から情報を得たことは分かるのだが、それだけで作り出せるものではないと思う。作者の想像力の豊かさがなければ作り出せないだろうということが、読んでみるとよく分かる。

この作品は読者には犯人が分かっているのに登場人物たちにはそれが分からないでいることへのもどかしさにつられて読むというタイプだ。人間というのは意外と人の好意に甘いものなのだろうか。尋恵が武内の好意にまんまと丸め込まれていく様子から私はそんなことを思いながら読んだ。それにしては自分の思うように人は動いてくれない。やはり人を動かす、人の気持ちを動かすには、ツボのようなものがあるのかもしれない。

人の好意というものは、でも自分に向けられているときにははっきりと分かるものだ。それはちょうど自分のフランス語がほんとうにフランス人に通じるのだろうかと心配しながらはじめてフランス語で話し掛けたときに、うまく話ができたときのうれしさにも似ている。はじめて恋心を打ち明け、それが受け入れられたときの、相手の気持ちが顔に表れているのを見るのほどうれしいことはないのと、よく似ている。まさか自分の気持ちが受け入れられるとはという思いだ。そういった経験がある程度年をいってからのことだと、余計にそのような思いになるのではないだろうか。

もちろんこういう恋愛系のものだけではなく、友人系の場合だってそうだろう。はじめて会ったときでも、この人は自分を受け入れてくれる人だなというのは感覚的に分かるものだ。だからといって、この小説のような人間に取り付かれたら困り者だけどね。

「ア・ルース・ボーイ」

2007年02月12日 | 作家サ行
佐伯一麦『ア・ルース・ボーイ』(新潮社、1991年)

以前に「無事の日」とか「草の輝き」といった最近の小説を読んだ作家のデビュー直後の作品らしい。どうもこれで三島由紀夫賞かなんかを受賞したようだ。少し前に芥川賞の発表があったりしたので、私がよくいく図書館でも文学賞を受賞した作品の企画をやっていて、過去の受賞作が並べてあったので、読んでみることにした。

奥付によると「新しい世代の私小説作家」という触れ込みになっている。ということはこの小説も彼の高校時代の出来事を私小説風に構成しなおして作ったものなのだろうか。

仙台のI高校三年生の斉木鮮は、厳しい生徒指導で知られる英語教師の「ブラック」を殴ったことで退学する。同じころに未婚の母となった幹と一緒に生活するようになる。二人は子どもに梢子と命名するが、もちろん鮮がこの子の父親ではない。

二人はとにかく働かなければならず職安に行ってみるが、いい働き先はない。そうこうするうち鮮を学生と勘違いした電気工事をやっている沢田に気に入られて、助手として働くようになる。どうも沢田もヤンキー上がりのよう。仕事にもなれてある程度の収入もできるようになったころ、幹が梢子の病気を理由に行き先も言わずに出て行ってしまう。あちこちの病院を当たってみるがわからない。ある日突然に幹が梢子を連れて戻ってくるが、一晩だけ一緒に寝て、そしてはじめて性的な関係を結び、そしてまた出て行ってしまう。

物語としては、普通の若者の生き方をドロップアウトした青春の甘酸っぱいというか幼いというか、ままごとのような生活の数ヶ月を描いているだけなのだが、そのあいだに鮮自身の幼少のころからの特異な性的経験――近所の男性に性的虐待を受けた――や自分を毛嫌いする母親からのネグレクトのような経験などが回想というかたちではさまれ、作品に厚みを与えている。

私も高校ではアウトサイダーだった。県下随一の進学校だったのに、勉強にも興味が持てず、一年生のはじめはトップクラスだったのだが、どんどん落ちて、二年生の実力テストかなんかでは後ろから数えたほうが簡単というような成績だった。もちろん教師からは無視される――まったく当てられることさえなくなった――し、三年生の進路指導かなんかで、将来はもの書きになりたいと言ったら馬鹿にされたことを思い出す。まぁボート部に所属していたからその関係でつながっていたと言っていい。

この小説の主人公のように正面きって教師に反抗することはしなかったが、将来への見通しもなにも見えないなかで、勉強だけに邁進するよう押し付けてくる教師もまたそれに一生懸命になる周りの生徒たちにも同じように違和感を覚えていたことは確かだ。

だからそれほど勉強したいという気持ちがあったわけではないが、大学に入ることで両親から離れて一人で気ままに生きていきたいという思いを実現できると考えて進学したのだった。まさにア・ルース・ボーイだったのだな。

「犯人に告ぐ」

2007年01月08日 | 作家サ行
雫井脩介『犯人に告ぐ』(双葉社、2004年)

幼児誘拐事件の担当をした巻島史彦は、犯人のすぐ近くまで接近し、あるところまで彼を追跡しながらも、身代金をもって犯人と接触する予定であった幼児の母親にナンパ男が近づいたことがきっかけとなって、犯人を逃がしてしまう。その結果、誘拐された幼児は殺され、その死体は遺棄されてしまった。完全な失態であるが、警察上層部は巻島一人を批判の矢面にたたせ、謝罪をするなといって、責任逃れをしたのだった。

それから6年後に、連続幼児殺人事件が起き、片田舎に左遷されていた巻島が呼び戻され、責任者につけられる。犯人と被害者のあいだになんらの結びつきもない無差別殺人のために、巻島は夜のニュース番組を利用して、犯人に呼びかけ、犯人に手紙を書かせ、そこから突破口を開こうとする。

この新たな手法も完全に行き詰まったと思われた頃、犯人がおとしたと思われる手紙が見つかり、巻島は改めてテレビから犯人に、犯人の掌紋が取れたという嘘の情報を流し、一方では犯人がベージュと燕尾色を勘違いしている点を捜査員に教え、この点を足がかりにローラー作戦を行なわせた結果、犯人逮捕につながったのだった。

だが同時に、正義を名乗った巻島のテレビでの訴えは、6年前に巻島の失態のために子どもを殺された桜川由紀夫の心情を害し、彼は巻島の孫を誘拐して彼をかつての現場におびき出し、激情のあまりナイフで巻島の腹を刺してしまう。

読み出したらとまらなくなってしまった。まぁ今日は成人式の日で休みだったから、別にしなければならないこともなかったので、朝からずっと読んでいて夜に読み終わった。でも推理小説って、ほんとに読んだあとに何も残らない。残らないからあとくされがなくていいと言うべきか、何も残らないようなものは読んでも無駄だと、一昔前のインテリのように難しい顔をして言うべきか。

こういう小説を読んでいて思うのは、犯人が犯罪を起す精神状態とか犯罪の社会性とかということよりも、それに対峙する警察の責任者の生き様である。腹の据わり方といってもいいかもしれない。だれしも勝算があってこういう立場を引き受けるわけではない。勝算があろうとなかろうととにかく今の自分の立場をひっくり返すためには、事件の矢面にたつしかないのだ。そしてそういうものとして腹を据えたときに、初めてなにかしらないが、運が向いている。物語ってそういう風にできているんだなと思う。でなかったら小説にする意味がない。

勝算がないにもかかわらずそういう責任を引き受けて、とにかくやってみるしかない人間の精神状態にこそリアリティがあるのではないだろうか。あまり犯罪のトリックとかにこだわっているとリアリティに欠けてものになってしまう。作り物にしか見えなくなるからだろう。

この作者はそういう意味でもじつに素晴らしい。

「カルチェ・ラタン」

2007年01月02日 | 作家サ行
佐藤賢一『カルチェ・ラタン』(集英社、2000年)

去年の暮にけっこうまとめて読んだ16世紀のパリの様子を髣髴とさせる歴史小説で、主人公のドニ・クルパンとかマギストラル・ミシェルなんていうのは架空の人物だが、実在したイグナチオ・デ・ロヨラ、ジャン・カルヴァン、フランシスコ・ザビエルなどを登場させている。宗教的対立がまだ血なまぐさくなる以前のパリのカルティエ・ラタンに生きる学僧たちの姿を描いたもので、けっこう面白かった。

当時のパリが輸送のためにセーヌ河を使う船舶が重要であったことは、パリ市の紋章に帆船が描かれていることでも分かる。そうした船舶輸送の大店であるクルパン商会の次男坊のドニは、実用のためというよりも肩書きとして大学で勉強するが口頭試問に失敗し、家庭教師としてマギストルという学僧として最高の肩書きをもつミシェルに勉強を見てもらったことが縁で、夜警隊長となってからも腐れ縁が続いている。

ミシェルは学僧でありながら、女性遍歴は熟練の域にあり、まだ童貞のドニは彼から馬鹿にされつつもあれこれの教訓を教えられる。

カルティエ・ラタンで殺人事件がおき、これの容疑者としてミシェルが逮捕投獄され、まだサークルにすぎなかったイエズス会のメンバーであるロヨラやザビエルたちがドニといっしょになって犯人探しをするが、じつはミシェルがド・ラ・フルト伯爵家の長男であることから、国王がわざわざ出てきて彼を釈放するような事態になる。他方でこの殺人事件には、ミシェルの恩師であるゾンネバルト教授が主催するサン・テスプリ学寮での異端の動きと関係があることが分かり、事件は恐ろしいことになる。

舞台となっているパリがまだ狭いので、行動範囲は知れているから、それはそれなりに面白かったが、はたしてミシェルをはじめとする当時の学僧たちの風俗というものがどの程度史実に忠実なのかはわからない。まぁ外国の中世の風俗をこれだけリアルに描ける力というものには感服するが。

イエズス会の創始者であるデ・ロヨラとかフランシスコ・ザビエルなんかが出てきて、ジュネーヴでプロテスタントの町を作る前のジャン・カルヴァンなんかと論争をしたりするところも面白いが、本当にありえた話なのだろうか?イエズス会はその後フランスでも強大な影響力を持つようになるのだが、その体系的な教育システムがヴォルテールをはじめとする多くの知識人を養成することになるのだから面白い。


「そこへ届くのは僕たちの声」

2006年12月20日 | 作家サ行
小路幸也『そこへ届くのは僕たちの声』(新潮社、2004年)

広告製作会社にライターとして14年間勤務した後、ゲームのシナリオ制作を契機に退職し、作家デビューを果たしたという経歴の持ち主なのだが、なんか最近こんな感じで会社勤務をしていた人が、ある程度年齢がいってから、作家としてデビューするというようなケースがけっこうあるなと思う。少し前にあったような、20歳くらいの若者の鮮烈なデビューというようなとは違って、渋めの感じだが、いいことだと私は思う。

この作品もそうだが、現代の小説はほんとうにイマジネーションがないと書けないと思う。ありきたりのことをちょっと変わった風に書くのは不可能に近いような気がする。

この小説も「遠話」という、一種のテレパシー能力のようなものをもつ子どもたちの話だ。テレパシーと違うのは、テレパシーだと頭の中で会話が交わされるのであって、「遠話」のように実際に喋るわけではない。「遠話」では実際に喋っているから、喋っている子の言葉は周りの人にも聞こえるが、相手からの声は「遠話」の能力のある子にしか聞こえない。周りの人には聞こえない。

そういった能力を持った子どもたちのネットワークが、危機にある子どもたちの声を聞き取り、一種のワープによって、火災現場とか交通事故現場とか地震現場などから子どもたちを助け出すということをしている。その一人であるリンこと倫志(ともし)と彼の両親、そしてその周辺にいる大人や同級生たちが、しん・みなと線という開業したばかりの電車内でのテロ事件から人々を救い出すというお話である。

私がこの小説にすごい違和感を覚えるのは、登場する中学一年生たちの、あまりにもいい子ぶりである。もちろんぶりっ子をしているわけではない。人に対する妬みとか恨みとかはもちろんのこと、大人に対する反抗的な考えも態度もない。自分の世界だけをみて生きている。とても生身の人間とは思えない造形に、違和感を覚えるのだ。リンの父親の友人で新聞記者の辻谷がちょっと大人ぶった江戸っ子弁で悪ぶってみせるくらいのことで、登場する人物のだれもがいい人なのだ。おまけにテロによる爆弾事件になって登場する警察関係者もみんないい人ばかりで、世の中こんないい人ばかりだったら苦労はないわなと、皮肉の一つも言いたくなるような世界が描かれているのには、ちょっと苦笑せざるを得ない。

それは、この作品が登場人物のリン、同級生で、かつて阪神大震災のときにこのネットワークのおかげで救われたかおり、かおりの友だちの満ちる、辻谷などが回想して話したのを速記したような形式でかかれているので、その語り口がまさに彼らの人間性を表す形になっているから分かることなのだ。

「遠話」のネットワークの中心にいる子どもは「ハヤブサ」と呼ばれるのだが、両親がいなくて、自分自身も虚弱な体をしていて、ずっと車椅子で生活している葛木(リンと同年齢)が、現在はその「ハヤブサ」の役目を果たしている。彼がこのテロ事件で発揮する自己犠牲の精神などをみても、この小説の主題はたいへんなヒューマニズムに貫かれていることは分かるのだが、なんだかゲームを見ているような、そんな現実から遊離した世界の登場人物たちの話のように思ってしまう。

「逃避行」

2006年12月05日 | 作家サ行
篠田節子『逃避行』(光文社、2003年)

昨今のペットブームは異常だね。でも逆にみれば、それだけ人間が心の潤いを求めているということなんだと思う。ペットが心を癒してくれるというのはたしかにそのとおりだろう。とくに犬のような、主人に従順系のペットは、育て甲斐がある。良くしてやればやるほど、こちらにその恩返しをしてくれる、そういう動物だから。

私も子どもの頃は、犬も飼っていたし、猫も飼っていた。犬はスピッツ犬で、見かけはかわいいのだけど、すごく気性が荒くて、嫌いだったな。それよりも猫の方が好きだった。冬なんか、机に向かって勉強していると、いつも膝にのって来て寝ていた。それが暖かくてよかった。

でも猫って、ほんとうに好き勝手なときにいなくなって、いつのまにか戻ってきているというような、猫なで声で擦り寄ってくるというようなペットだから、どこまで気を許していいものやらというかんじがする。だから、猫はペットというよりも、勝手にすんでいるという関係みたいになる。

ところが犬の場合はそうではなくて、主人を求めて何千里なんて話もあるくらいに、従順だから、飼い主もそれだけの愛着を抱くようになるのだろう。この小説も、そういうような家族の一員、あるいはそれ以上の関係になったレトリバー犬が、となりの家の悪がきにいじめられて、思い余ってかみ殺してしまい、いられなくなった飼い主の妙子がこのポポを連れて、逃避行にでるというお話である。

長距離トラックの運転手の好意で載せてもらい、東京から信州へ、そして神戸までやって来た「二人」は、かつて「田舎暮らし」がブームだった頃に建てられたが、いまは住む人がいない山の中の一軒家を借りて、暮らすようになる。だがその逃避行がきっかけとなって、ポポの老化と野生化が一気に現れる。妙子は最後までみとってやりたいと考えて、こうして逃げてきたのだったが、年が明けた1月7日に、前年の夏に手術した子宮筋腫のために大量出血し、それを見つけた近所の堤の対応の甲斐なく、死んでしまう。

何十年も連れ添った夫とも、また二人の娘たちとも、心を通わすことなく、ただペットの犬に見取られて死んでいくという、あまりにも現代的な死の姿を描いている。でもなんだか悲しいな。

「クリスマスローズの殺人」

2006年11月24日 | 作家サ行
柴田よしき『クリスマスローズの殺人』(原書房、2003年)

あちこちの読書ブログでたいてい取り上げられている作家なもんで、私も一度読んでみようと思って、その少女趣味っぽい表紙絵にひかれて、この作品を借りて読んでみた。

若い独身女性がつぎつぎと殺され、遺体の周りにはどれもクリスマスローズの花びらがまかれているという連続殺人事件が起こる。

探偵のメグは突然の出費で年越しが覚束なくなり、世話になっている探偵事務所の咲和子に仕事を回してくれるように頼む。彼女から依頼された仕事は依頼者の妻の三日間の素行調査。

さっそく次の日から仕事を始める。夜になっても居間の電気はつかないし、寝室のカーテンも閉じられないのに不審を感じたメグと、彼女の助手をしてくれる売れない推理作家の太郎が姫川宅に侵入してみると、韓国に出張に出かけたはずの夫(依頼者)が浴室で大量の血を流して死んでいるのを発見する。妻の朝子はいない。ところが翌朝になると、警察が居間で死んでいる朝子を発見する。夫の姫川均の遺体はなくなっていた。

姫川均は妻がヴァンパイアであることを知って、彼女への愛情を深めるためにもヴァンパイアのことをもっと知りたがり、たまたま愛人の知恵とディズニーランドに遊びに行ったときに知り合った津川鈴がヴァンパイアであることに気づき、彼女ヴァンパイアのことについて聞こうとした。鈴は人間の均に強迫されていると勘違いし、母親の敬子が知恵のところに証拠の写真を取りに行って、知恵を殺してしまう。

しかし登場人物はみんなヴァンパイアということになっており、殺されるのだが、最後には生き返ってくる。なんか「はじめに」で断ってあるように、登場人物のほとんどがヴァンパイアであるということを前提にしないと物語自体が成立しないのだ。

もちろんこういう前提をもちだすこと自体は、むきになってとがめだてすべきことではない。要は、それでもなおかつ登場人物たちに魅力があるかどうか、物語が興味深いかどうかということにあると思うのだが、まぁどうなんでしょうね。メグが薔薇の花びらを食べて、犯人が分かったというところで、私にもめぼしがついたので、もう一つでしたね。

この作品一つでこの作家を判断してはいけないのでしょうね?!でも、もう読まないでしょう。たぶん。