『言葉とは何か』 (丸山圭三郎著)、著者は、近代言語学の父と言われるソシュール(1857- 1913・スイスの言語学者)の研究者でもあります。
以前、「言葉は認識のあとにくるのではなく、言葉は認識自体である」というメルロ=ポンティの言葉を紹介しましたが、同じ様なことが紹介されていました。
たとえば、「木」とか「植物」とか「動物」という一般的な、しかも抽象的な性格をもつ単語が一切存在しない貢諳はたくさんあります。そうした言語には、木や植物の個々の名称、たとえば「松」「桜」「杉」といった語はあるのですが、「木」という概念がないために、それらをひとまとめにしてカテゴリー化することができません。…
これだけでも、「言葉に依存しない概念も事物もない」というソシュールの考え方を証明するのに十分といえましょう。
たとえば、失語症患者が言葉を失うと、抽象能力も失ってしまうのがふつうです。患者は、「びん」という語を失ったために、大小さまざまな形をした何本かのびんに共通したものがわからなくなります。あるいは、その逆に、共通したものがわからなくなったことが原因で、「びん」という語を失ったのかも知れません。
ゴルトシュタイン(ドイツの神経生理学者。精神医学者。一八七八-一九六五)によれば、失語症患者の周囲の世界は常人より雑多な色が一面にぬりたくられている状態だそうです。患者はあらゆる微妙な色のニュアンスをカテゴリー化してまとめることができません。知覚に訴える限りのニュアンスの数だけの色が連続体のまま存在することになります。それに対して常人は言葉のおかげで、どんな微細な色のニュアンスをもひとまとめにグループとして認識できるのです。(以上)
南無阿弥陀仏という言葉は何かという疑問を持ちながら、こうした本を読んでいます。言葉を超えた覚りの世界が、言葉となったわたしの元の至り届く。これって何かという疑問です。一年間有り難うございました。
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