心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

ペ・ヨンジュンとチャン・グンソク

2012-12-20 09:54:56 | イケメン

韓流のイケメンといえばペ・ヨンジュンとチャン・グンソクが双璧である。

ペ・ヨンジュンはかつて一世を風靡した韓流イケメン。1972年、韓国ソウル市生まれ。身長180㎝。通称ヨン様。代表作『冬のソナタ』(2002年)。

チャン・グンソクは現在の韓流スーパースター。1987年、ソウル生まれ。身長182㎝(ただし、木梨憲武からのクレームで178㎝ぐらいとも)。代表作『美男ですね』(2009年)。

韓流イケメンの日本での人気は多年層に及んでいる。日本の若手イケメンと違って主婦や中年女性にもすごい人気なのが特徴である。

それを切り開いたカリスマがヨン様だったのだが、彼の影は現在のチャン・グンソクの前では影が薄い。

グンソクは日本で言えばキムタク風だが、我国の女性は彼の方がより優雅に感じるのであろう。

日本の家電メーカーが韓国のサムスン電子やLG電子に負けたように、イケメンタレントでも韓流に完敗したのかorz

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デネットとチャルマーズ

2012-12-20 07:34:31 | 哲学

現代英語圏の心の哲学の二大巨頭といえばダニエル・デネットとデイヴィッド・チャルマーズである。

デネットは1940年生まれの年長哲学者で、チャルマーズは1966年生まれの若き哲学教授である。

しかし年の差は哲学の本質とあまり関係がない。

問題はデネットとチャルマーズが「意識の神秘」に対してどういう態度をとっているか、である。

周知のように、チャルマーズは「意識のハード・プロブレム」というものを提起し、主観的現象性をもちクオリア(感覚質)に満ちた「意識」は、脳科学(神経科学+認知科学)の標準的な探究方法では決してその本質を捉えることはできない、と主張した。

「ハード・プロブレム」とは「困難で厄介な問題」という意味で、実験科学的に対象化できず客観的データに還元できない「意識の主観的特質」に関する問いかけである。

こうした問いを立てるチャルマーズの姿勢の背景には、言うまでもなく二元論的な存在論が控えている。

ただし、それは古いデカルト的実体二元論ではなく、現代風に洗練された性質二元論である。

とはいえ、物理主義と還元主義と唯物論に対する感情的とも言える反発は、はっきり言って問題である。

この点を辛辣かつ鋭利に批判したのがデネットなのである。

デネットは、デカルトの二元論的心観を根底から破壊したギルバート・ライルの弟子であり、実体的意識観を徹底的に排除する。

それは同時に性質二元論の批判にもつながる。

そこで、チャルマーズとデネットの間では「クオリア」に対する評価が全然違ったものとなる。

チャルマーズがクオリアを現象的意識の中核をなすものと考え、クオリアの存在こそ脳科学が意識の本質を解明できないことの証だ、と言い張る。

それに対して、デネットはクオリアは一種の幻であり、なんら意識の本質に関与するものではない、断言する。

デネットにとって大事なのは文化的遺伝子ミームの伝承において自然的ならびに社会的環境に関与する人間的意識の「機能特性」なのである。

ちなみに、デネットは「自己」というものを脳内の複合的情報処理の機能的因果連関の織り成す神経的物語の単なる「重心」のようなものと捉えている。

これは構造主義、行動主義、機能主義に共通する自我の脱実体化の姿勢を表している。

遡ればヒュームの主張「自我とは知覚の束である」に行きつくことは言うまでもない。

ところで、チャルマーズは意識が物理的過程に還元できないと熱弁しながら、人工知能の可能性を肯定したり、情報の二重側面理論などという形而上学的観点をとっているが、社会文化的環境の中における間主観的意識と人間的自我の問題にはほとんどタッチしていない。

チャルマーズの思想は非常に啓発的、刺激的だが、意外と大きな見落としがあるのだ。

しかし、それはあらゆる思想に見られるものであり、そこばかり突いていてもしょうがない。

対立する思想を弁証法的に統合して、より高次の見解へと創造的に進化することが要請されるのである。

デネットとチャルマーズの対立を含んだ現代意識哲学の諸派の評価と統一的見解の模索に関しては、2004年の拙著『意識の神経哲学』を参照されたい。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舘ひろしと神田正輝

2012-12-19 10:14:21 | イケメン

舘と神田はどちらも石原プロモーション所属 (共に取締役であった) のイケメン俳優。

この画像は近年のものだが、もっと若いころの二人の画像もある。

舘ひろしは愛知県名古屋市出身。

実家が医院で医学部を目指していたが、挫折して千葉工大建築学科に入学するも中退し、クールスを結成。その後俳優。

身長181㎝ (公称) ← もう少し低い

神田正輝は東京都出身。日大芸術学部映画学科卒。

身長178㎝ (公称) ← もう少し低そう

二人のイケメン度を比べると、舘の方が不良っぽく、神田は好青年風。

顔の造形は神田の方が若干端正だが、スタイルや全体の雰囲気は舘の方が圧倒的に上。

総じて舘の方が人気・知名度ともに上だし、男の美学の観点からしても舘の方が上と判定できる。

石原軍団の中では舘が渡哲也派で神田は石原裕次郎派であった。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舘ひろし サングラス

2012-12-19 09:45:43 | イケメン

舘さんサングラス似合いますからねー。

黒のポロシャツもトレードマークでした。

若いころの画像です。

ハーレーに乗ってます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舘ひろしとバイク

2012-12-19 09:38:00 | イケメン

舘ひろしと言えばバイク。

その運転技術がプロ並みなのは周知のこと。

次の画像は、彼が刑事ドラマでよくやっていた、運転中に両手を離して発砲するシーン。

決まってますね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太宰と芥川

2012-12-18 10:32:34 | 作家・文学

周知のように太宰治は芥川龍之介に心酔していた。

次の写真は太宰が弘前高校時代に芥川のポーズをまねて撮ったものである。

まねられた芥川

太宰は志賀直也に対して「お前は芥川の苦悩が全く分かっていない」と「如是我聞」で罵倒した。

ちなみに芥川は志賀の短編小説を最高の文学作品と評価していたが、その発言には中身がないものと断定できる。

志賀の作品は多くの作家や文芸評論家が述べているように、随筆、日記まがいの推敲マニア的文章にすぎないのである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識の自然への登竜門『自我と生命』

2012-12-18 09:47:14 | 日記

 

アマゾンのリンク。
http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%A8%E7%94%9F%E5%91%BD%E2%80%95%E5%89%B5%E7%99%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%84%B6%E5%AD%A6%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93-%E6%B2%B3%E6%9D%91-%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/4860650271/ref=sr_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1345511384&sr=1-4


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミルコ・クロコップのベストKOシーン

2012-12-16 22:09:13 | 動画

ようつべにあったミルコのベストKOシーン特集です。

http://www.youtube.com/watch?v=fsXDOYiBVuw


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

格調高く、おちついたハーフの美

2012-12-16 17:28:49 | 美人

説明無用の滝川クリステル

この画像は高画質だし、格調高く、品性豊かに感じます。

洋服の色もおちついてるし。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識と身体、そして格闘技

2012-12-16 12:09:50 | 心と身体

前に書いたように香港のアクションスターのブルース・リーは大学で哲学を専攻し、それを彼なりに武術に応用していた。

彼が創始した格闘技ジークンドーは、東洋的「無」の概念の根差したもので、身体と精神の統一を「自然」に基けるものであった。

武道や格闘技においては、単に怪力を瞬間的に発揮するだけではだめで、心・技・体の統一性に基づいた力の配分とスタミナの維持が要求される。

そして、これを可能ならしめるのが生命的自然に直結した「意識と身体の統合」なのである。

ブルース・リーの場合にそれは東洋的無に根差した「自然体」の技として実現した。

メルロ=ポンティが強調した「生きられる身体」という概念は、こういうところでも役立つと思う。

身体は単に解剖学と生理学と分子生物学が解明する有機物質系ではなく、意識と一体となった「運動体」ないし「世界内属的行為体」なのである。

このように理解された身体性は、格闘技やスポーツのみならず、肉体労働や日曜大工や登山やハイキングやランニングでも体験されるものである。

とにかく、「意識と身体」という問題は極めて奥が深く、この意味を体得したもののみが、格闘技やスポーツにおいて成功し、日常生活においても健康を維持できるのである。

そして医学にも貴重なヒントを与える。

特に心身関係、心脳問題が懸案となる医学の分野に。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イケメン中川昭一なき自民党は見込みがない

2012-12-16 08:24:05 | イケメン

今日は衆議院選挙の投票日だが俺は行かない!!

なぜならイケメン政治家・中川昭一がもういないからだ。

中川なき自民党には何も期待できない!!

うーん、しぶい。

中川昭一(1953-2009)は東京都生まれ(本籍は北海道)。麻布中学・高校から現役で慶應大学経済学部に入るが、一年で退学。

その後、東京大学文Ⅰに入学し、同大学法学部政治学科卒業。自民党の政治家として活躍し、農林水産大臣、財務大臣などを歴任。

2009年のG7会議後の記者会見で例の泥酔状態の失態をさらし失脚。同年8月の衆院選で落選した。

今の自民党には彼のようなしぶいイケメンはいない!!

もうだめだorz

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芥川龍之介の生前の映像

2012-12-14 08:27:39 | 動画

ようつべに芥川の生前の映像がありました。

自殺した年(昭和2年)のものです。

木に登っています。

http://www.youtube.com/watch?v=_LJmKpHyIrg


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『情報の形而上学』の一節(3)

2012-12-13 14:40:00 | 自著紹介

 しかし、厳密に言うと遺伝子が単独で病気を発現させるのではない。遺伝子と環境が相互作用して病気の発現の十分条件を形成するのである。ここでもまた環境という外在的要因が重要な地位を占めている。ちなみにA子やC子の意識や行動も遺伝子に対しては創発的身分にあり、遺伝子から見ると外在的要素であると言えることに留意したい。

 とにかく我々は、線形的思考や単純な因果論によって割り切れる現象に着目して決定論や還元主義を擁護したがる。というよりは賛美したがる。そこで「創発」の重要性は視野に入ってこなくなる。しかし、君自身の人生、毎日の生活で起る事柄、社会や自然界の事象を虎視眈々と見渡してみれば、決定論や還元主義で割り切れる現象は僅かであることが分かるであろう。ただし、こう説明されても、相変わらず「創発」というのは、還元主義の科学が十分発達していないがゆえに暫定的に事象に割り当てられた言い訳であろう、という想念を民衆から消すことは難しい。つまり、創発の概念は超自然主義や超感覚主義を示唆するオカルトまがいのものだという誤解は払拭しがたいのである。こうした誤解ないし偏見は、科学に精通した人とそうでなくて単にそれを盲信している人双方に見られる傾向であるが、その根底にあるのは存在理解の貧困である。根本的存在論がなっていないので、いくら科学的議論を加味しても拒絶反応を示してしまうのである。

 A子がB男と出会うことは、いつか還元主義の科学によって解明され、遺伝子決定論がやはり正しかったということになるのだろうか。それとも非線形的創発現象をシリアスに受け取り、還元主義に歯止めをかけて創発主義的システム科学を進歩させることが、現実に根差した真の科学を樹立することにつながるのだろうか。いずれにしても注意しなければならないのは、科学は全部還元主義的ではないということ、換言すれば科学の理想形は還元主義を子分に従えた創発主義的システム科学だということである。繰り返すが、「創発」という概念は、合理的に理解できない事態を名指したものではなくて、より高次の現実把握を促すシステム科学の到達目標を示唆しているのである。

 

 

http://www.amazon.co.jp/%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6%E2%80%95%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E9%9A%8E%E5%B1%A4%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A6%8B-%E6%B2%B3%E6%9D%91-%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/4860650468/ref=sr_1_9?ie=UTF8&qid=1355377047&sr=8-9


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『情報の形而上学』の一節(2)

2012-12-13 14:38:40 | 自著紹介

 創発現象はまた因果的決定論に対する反証でもある。前世紀の中盤に遺伝子の物質的実体たるDNAの分子構造が解明されて以来、人間をDNAの乗り物とみなす人が多く現れ、遺伝子決定論という思想が蔓延(はびこ)る破目になった。この思想の要旨は、個々人の人生は遺伝子DNA、あるいは遺伝子の総体たるゲノムに先天的に書き込まれたプログラムによって予め決められており、各人の行動と意識はすべて遺伝子の先天的プログラムによって決定されている、というものである。この考え方の根底にあったのは、生命現象すべてをDNA→RNA→タンパク質の形質発現というボトムアップ的な一方向性から理解しようとする姿勢である。しかしセントラルドグマとよばれるこの理論はすぐに破綻した。環境からの情報入力が遺伝子発現に影響を及ぼすことが判明したのである。ただし、これは遺伝子決定論を全面的に否定するものではない。遺伝子には決定論的性格と非決定論的性格が共属しているのである。しかし、DNAの分子構造という物質的基盤の発見は思慮の浅い科学者を魅了し、その結果彼らは決定論的側面のみを過大評価してしまったのである。これは還元主義の科学の欠点を示唆する現象である。現実は還元主義的見方では割り切れない複雑な非線形的構造をもっている。つまりそれは創発的現象で満ち溢れているのである。人の意識と行動、さらにそれらの集積体たる人生は、非決定的偶発事件に満ちている。それはなぜであろうか。

 人の行動はその人独りでなされるものではない。いかなる局面においてもその人の行動は他人や社会的-自然的環境という外在的要因によって左右される開放性をもっている。意識もまた同様である。それはいかなる状況においても個人の内面で完結する心的現象ではなく、行動を介して外在的要素に関わりつつ自らを編成する非閉鎖的認知システムである。そこで人生行路の諸段階における諸現象はすべて創発的性質を帯びることになる。

 たとえば、ある女性(A子)がある男性(B男)に好意を寄せており、その男性を独り占めしたくて交際を迫ったとしても、たいてい別の女性(C子)が割り込んできて最初の女性の夢を砕くというのが実情である。これは果たして遺伝子決定論によって説明可能な事態であろうか。遺伝子決定論に従えば、A子の人生の出来事はすべてA子の遺伝子の先天的プログラムによって決定されており、本人の意志では動かせない、ということになる。それではB男が現れること、ひいては彼が生まれたことまでもがA子の遺伝子に書き込まれており、それによってプログラムされていた、とでも言うのだろうか。これはまだ強引なこじつけによって言い抜け可能な主張である。しかし、ここでA子の遺伝子決定論とB男の遺伝子決定論を対決させてみると、とたんに決定論のぼろが出る。B男の遺伝子や観点を顧慮するとA子の遺伝子決定論は単なる独我論であることが判明するのである。換言すれば、B男中心に考えると、今度はA子の人生がB男の遺伝子によってプログラムされていたということになって、A子の遺伝子決定論という最初の前提が成り立つ余地がなくなるのである。

 現実の世界は二つの対立する要素というだけではなく、前例のC子のような第三、第四の要素が複雑に絡み合う創発現象の宝庫である。A子がB男を好きになったのも、C子が二人の間に割り込んだのも創発現象である。しかし、そうするうちA子が白血病になり、C子が胃がんになり、二人とも若くして死に、残されたB男は二人よりさらに魅力的なD子と結ばれるということもある。ここで注意したいのは、A子が白血病になりC子が胃がんになったのは遺伝子の働きによるところが大きいということである。これはある程度遺伝子決定論を支持する現象である。そして他の要素との関係から比較的切り離して理解しやすい線形的現象なので、物質科学的に実証しやすく還元主義的に理解しやすい。そこで多くの人がこういう現象のもつ割り切りやすさに吸引されて、軽薄に「それ見ろ。やはり遺伝子によって決定されてるじゃないか」と嘯(うそぶ)くのである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京都立日比谷高校

2012-12-13 09:28:26 | 受験・学歴

東京都立日比谷高校といえばかつて日本一の進学校、いや名門校であった。

そのブランドは未だ衰えず、「名門」という点では灘高校や開成高校や筑波大付属駒場高校よりも上だと言う人もいる。

都立日比谷高校の前身は府立一中であり、ここから旧制一高、東大ないし東京帝大と進学するのが日本一のエリートコースであった。

その輩出した名士は数知れず、政界、財界、官界、学会、文学界の名士群に石を投げれば日比谷高校出身者に当たると言われるほどである。

府立一中時代の夏目漱石や谷潤一郎、日比谷高校時代の利根川進と枚挙に暇がない。

科学史・科学哲学で有名な村上陽一郎もここの出身である。

そもそもここの校舎は国会議事堂のすぐ近くにある。

政界や中央官僚のエリートを目指すために東大法学部(文Ⅰ)を目指すのが基本の高校だったのだ。

かつて長い間、東大合格者が100-200名であり、日本一の座を守ってきたが、1968年の入試で一位の座を灘高校に明け渡すと、そこから陥落した。

この年の東大合格者数は灘132名、日比谷131名であるが、次の年(1969年)の大学紛争によって東大入試が中止となると、一気に形勢が逆転し始める。

そして、東京都の高校に学区制が敷かれると、日比谷の凋落が著しくなり、東大合格者は80名→50名→30名とどんどん落ちてゆき、ついには10名前後になってしまう。

ところが学区制が解かれて、2009年から復活し、東大合格者は30-40名になった。

今後、50-80名になると予想されている。100名を超えるであろうという予想すらある。

しかし、日比谷高校は灘高校や開成高校と違って「受験ロボット」を養成しようとはしない。

人格と教養の育成にも力を入れようとしているのだ。

それは学校行事の充実ぶりと入学時に配布される1000ページのシラバスにも表れている。

つまり日比谷高校は単なる受験名門校、一流進学校ではなく哲学的高校なのである。

また、灘高校のようにがつがつと東大理Ⅲに代表される医学部や文Ⅰばかり重視したりはしない。

東大と慶應・早稲田の併願が多く、東大を落ちたら慶應に行くパターンが多いという。

そうした日比谷高校の2010年度の入試の国語の問題に私の『情報の形而上学 新たな存在の階層の発見』(2009年、萌書房)が出典引用された。

校長と副校長から謝礼の電話をいただいたが、この入試を受けた生徒が来春大学受験となる。

さあ、どうなるか。

こういうことを言う理由は、次にupするその引用文を読めば分かると思う。

 

* 参考文献

長澤直臣・鈴木隆祐『名門復活 日比谷高校』学研新書

小林哲夫『東大合格者盛衰史』光文社新書


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする