昨日、時東一郎『精神病棟40年』宝島社を読み終えた。
今年の2月に出た本で定価が1300円だが、アマゾンのマーケットプレイスで750円で買った。
時東氏は16歳で統合失調症を発症。
17歳のとき精神病院に入院の後、40年以上の間ほとんどを精神病院に入院してすごした。
彼の病状はそれほど重いと思えない。
統合失調症の妄想型と思われるが、躁病に近い病状で、対人接触性は良い。
いわゆる分裂質の性格者ではなく、陽気で社交的である。
しかし、入院した精神病院がいわゆる悪徳タイプのもので、資金源のために生かさず殺さずの長期入院にはめられてしまったのである。
義母との不仲という家庭事情も退院と社会復帰の障壁となり、社会的入院の廃人の道をまっしぐらに歩んでしまった。
この本を読んでまず感じたのは、他の精神病闘病記や入院録とちがって、雰囲気と心理が明るいということである。
とにかく、たいした症状もないのに、これほど長く入院させられた症例はあまりない。
時東氏は自他ともに彫の深いハンサムを認めるイケメンであった。
入院中にドイツ人というあだ名をつけられたり、多くの女性に惚れられている。
そして本人は話好きで子供好きで明朗な健康優良児であった。
空手も有段者で、入院中に自己防衛のために、絡んでくる奴を殴り、肋骨を折っている。
しかし、それは仕方なくやったことで、生涯で唯一の暴力行為であった。
かつて、統合失調症が精神分裂病と呼ばれていた頃、分裂病の病前性格が盛んに議論され、分裂病と言えば分裂質の性格類型と結び付けられやすかった。
ミンコフスキーの言う「現実との生ける接触の欠如」だとかブランケンブルクの「自然な自明性の喪失」という分裂病者の実存様式の性格付けは、分裂病者を人嫌いの暗い性格者として特徴づけることを助長した。
精神病理学というものは、とかく本質主義に流れやすい。
分裂病者の中にはたしかに非社交的で内向的な人もいるが、そうでない人も多い。
プレコックスゲフュール(分裂病臭さ)という印象も疑わしい。
こうした印象や性格付けは二次的なもので、統合失調症の本質的病理を表していない。
統合失調症の診断の指標は、幻聴と被害妄想である。
この二つは、覚せい剤中毒とアルコール中毒にもみられるもので、比較的平板な症状であり、精神病理学的深みはない。
しかし、それは統合失調症の生理的病変の直接的表現として大変重要である。
覚せい剤使用とアル中が排除されて幻聴と被害妄想があるなら、まず統合失調症である。
もちろん、その幻聴と妄想には特徴があり、専門医や識者にはすぐ分かる。
統合失調症は深刻な人格の病などではなく、脳の自己モニタリング機能の障害なのであり、それにドーパミンなどの神経伝達物質の伝達異常が修飾因子として加わるのである。
私が大学生だったとき、同級生で看護師をしていた人(30歳)が「分裂病者の特徴は他人と一緒にいても不安感が強くて、同調できず、緊張感が解けないことだ」と言っていた。
彼女はミンコフスキーや木村敏にかぶれていたのだが、笑えるな。
それって神経症の症状だよ。
かつて対人恐怖症と呼ばれ、今「社交不安障害(SAD)」と呼ばれる病気の人の特徴だよ(笑)。
この病気は別名「あがり症」(笑)と呼ばれ、マイレン酸フルボキサミンなどのSSRIと認知行動療法の併用によって著しく改善する神経症だって(藁)。
とにかく「分裂質」というかつての陰湿な性格付けは抹消しないといけない。
これは、私の授業に出ていた統合失調症の学生からの印象からも言える。
しかし、たしかに対人疎通性の悪いタイプの糖質もあることはあるな。
ヘーベフレニー(破瓜型分裂病)には多いだろうな(現、解体型統合失調症)。
ちなみに「破瓜」って瓜を二つに割ると8になって、それが二つだから16になり、16歳ぐらいに発症することを示唆しただけなのに、何か深刻なイメージで受け取ってるバカっているよね。
心脳問題を考える際には、脳と心の関係を非二元論的に捉える必要がある。
脳と心は、存在次元が異なる二種の実体ではなく、一つの生命システムの二側面なのである。
双方は、生命が生命個体においてシステムを形成する際の両翼であり、説明の文脈において区分される生命システムの構成契機なのである。
二元論は物質としての脳と精神としての心を実体的に峻別する。
それに対して、唯物論ないし還元主義は物質としての脳を唯一の実在と考え、心を一種の幻とみなすか、それを脳に還元する。
これら二つの立場の中道を行くものが、精神病、特に内因性精神病の本質の理解のために必要となる。
前の記事で精神障害における外因性と内因性と心因性の区分に触れたが、この三区分は大まかな指標であって、すべての精神疾患がこの区分にすんなり収まるわけではない。
しかし、精神疾患の分類と本質、そしてそれへの対処法を知るためには大変役立つ。
唯物論的思考法では、外因性、つまり身体因性のものがもっとも理解しやすく、内因性のものは遺伝子の変異に還元され、心因性のものは、身体因性か遺伝子の変異に還元される。
また、二元論的思考法では身体因性のものは精神病ではなく身体病とみなされ、心因性のものだけが精神病の名に値するものとみなされる。そして、内因性の概念は理解されない。
これら二つの立場は現実に即すものではなく、机上の空論である。
精神疾患は、心身統合的な社会内存在としての生命システムないし生命個体の「生きられる脳」の心的病なのである。
一般的思考法は、まず実体つまり物体としての脳があり、心はそこから発生する現象形態とみなす傾向が強い。
しょせん実在するのは脳のであり、心は一種の幻だというわけである。
しかし、情報を物と心の区別が生じる以前の真実在であるとする存在論的見地からすると、脳も心も情報からできており、両者の間に存在的優位関係は成り立たない。
脳は、生命個体のゲノムが形質発現して出来上がった遺伝情報的神経システムである。
この点で脳は既に心と同じ情報的存在性格を付与されているのである。
この性格は、脳が環境と相互作用する情報処理システムであることを顧慮すると、より分かりやすくなる。
人間の脳は、生物進化の過程で環境世界の情報構造を神経システムに刻印しつつ熟成した高度の情報処理器官である。
つまり、脳は物質的基盤が「情報」としての遺伝子であり、その神経システムの秩序は「環境世界の情報構造」と「生命個体の環境への適応と他者との共存」の共振ないし共鳴によって形成されたものなのである。
我々が普段「心」と呼んでいるものは、脳のこうした情報的存在性格とどれだけ違うであろうか。
ただ説明の文脈が違うだけではなかろうか。
つまり、脳も心も基本的に「情報」でできているのだが、静観的にもの的・定量的に把握しようとすると脳の解剖生理的性格として現れ、動態的にこと的・定性的に捉えようとすると心の現象的性格として理解されるだけなりのである。
これを理解するためには心の物質的性格を理解しなければならない。
そして脳の心的性格も理解しなければならない。
精神医学における内因性精神病の心身両義性ないし心脳両義性という問題の提起は、基礎科学としての脳科学にも「脳と心」という問題を深く考えるきっかけを与えるのである。
精神医学の臨床の現場や精神病の具体的症例に照らした考察は次の機会に譲る。