いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

科学と政治。 science and politics

2020-09-07 20:11:37 | 日記
 (1)現代人は科学の時代に生きているわけだけれど、科学といわれてもよくよく意味は理解が難しく、実証力のある普遍的方則、方法、原理として動力(dynamism)を持ち、存在するものだと理解している。答えは決まっていて、その方則、方法、原理を使えば必ずこうなるというもので、文化、社会の進歩には欠かせない文明カテゴリー(category)だ。

 (2)インターネット社会で成り立つ情報化世界は科学の時代そのものだが、政治家はその効用を使用、活用していながら科学には否定的な立場をとる。世界最大の新型コロナ感染国米国のトランプ大統領は長らくマスクを着用せずに感染は押さえられると主張したが、そうはならずに最近はマスク着用が目につく。

 露プーチン大統領は新型コロナ対策のワクチン開発で、治験工程を省いて世界初の実用化を進めて成果を強調している。専門機関から安全性無視への批判、疑問が相次いでいる。

 (3)結果第一主義の政治の世界で実証力のある普遍的方則、方法、原理など問題にせずに、妥協、圧力、計算、思惑の結果だけを求める、信じる政治の危うさだ。
 それを気にしてか茂木外相が定例記者会見で外国人記者が在外外国人の入国制限に科学的な合理性があるのかと尋ねられ、これに答える前に英語で「科学的とはどういう意味か」(報道)と尋ね、さらに日本語わかっていただけましたかと尋ねたことに対して、同記者は「日本語でいいです。ばかにしなくても大丈夫です」と抗議して茂木外相の発言が「差別的だ」と批判されて釈明した。

 (4)入国制限の科学的な合理性といわれても、少なくとも日本よりは感染拡大が大きい海外からの入国者を制限して感染拡大を防止するのは入国者その人が感染しているのか、していなのか、潜在者であるのかの科学的根拠というよりは国民の安全、生活、権利を守る立場の政府の政治的責任、立場の最大公約数的判断であり、科学的判断を超えた安全維持の政治判断の問題だ。科学と政治はどこかでは相容れないところがある。

 (5)新型コロナ感染抑止、防止は科学的判断の領域分野であり、効果をあげるためひとつひとつが実証力のある普遍的方則、方法、原理で対策、対応されるものであるが、それには時間と労力、経費が必要で、その国家的、国民的、社会的最大公約数的利益を見極め実行するのが政治判断ということになる。

 (6)現在の日本は感染拡大第2波を迎えながら政府は移動自粛、休業要請は求めずに、社会経済活動を並行して進めている。仮にこれに科学的合理性があるのかといえば、問題はある。
 社会経済活動を推進する移動の自由、Go To 何がしは感染を拡大する要素であり、科学的な合理性からみれば問題はある。

 (7)あとは個人の判断、考え、自主、自重にコミットするもので、科学とは無縁の世界だ。科学は時代、文化の推進に必要不可欠ではあるが、科学的な合理性といえば重要だが社会生活、活動にはけっこうやっかいなところはあるが、科学と政治が相容れないでは国民は困るだろう。
 

 

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