旅限無(りょげむ)

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有りもしない日本 其の五

2005-06-23 22:15:24 | 社会問題・事件
其の四の続き

■高度成長期に政策的に起こされた巨大な人口移動は全国的なものでした。そして、それに続いて、田中角栄さんが提唱した『列島改造論』は、地方の中核都市への人口移動を誘発したのですから、過疎地と中途半端な過密と異常な過密という三色に日本は分けられてしまったわけです。中途半端な過密都市を新幹線で結ぶと、どんなご利益が有るかと言うと、農山村から地方都市へと若者はとんどん引き寄せられ、その中から更に大きな地方都市を経由して東京を目指す人口移動が止まらなくなるのです。その東京自体は、皇居と官公庁街を中心に抱え込んで成長した都市ですから、人口密度の高低差は世界一激しい都市になってしまいました。何度目かの再開発によって出現した超高層ビルの中に用意された住宅とは呼べない価格の空間が、全国から注目されているのは、人が住めないはずの場所に住んでいる人間に対する興味が生まれているからでしょう。

■東京の中心地は、生活人口で見れば、恐ろしいほどの過疎地域です。全国から押しかけた人々は、何故か東京の外へと外へと押し遣られ続けて、居住空間の同心円は際限も無く外へ押し広げられているのが東京という場所でしょう。この同心円が近隣の千葉・埼玉・神奈川を飲み込んで、境界線がまったく見えないノッペラボウの都市とは呼べないモノを作り出しました。欧州の都市のように、芸術家が集まって風景画を描いている場所も無く、劇場を持っていても海外からの観劇者はほとんど見当たらず、海外からの観光客が集まる文化施設や宗教関連の名所も無いのが東京ではないでしょうか?もしも、海外からの客人を案内しなければならなくなったら、と想像してみれば東京という場所の特殊性が分かるでしょう。

■「東京に出れば幸せになれる」と皆が信じた日本は、もう有りませんし、東京に膨大な人口を供給した地方には、将来の東京を支える人材を育てて送り出す余力が無くなっているのです。日本は、地方から壊れ始めているような気がしてならないのです。


働き盛りの男性を中心に自殺者が増え、7年連続で3万人台が続く状況を受けて、厚生労働省は鬱(うつ)病による自殺を減らすための大規模研究に着手する。……厚労省の04年の人口動態統計では、自殺者は三万227人……警察庁のまとめでは98年以降3万人超が続いている。……厚労省の研究班(主任研究者=樋口輝彦・国立精神・神経センター武蔵病院長)は……「地域特性に応じた自殺予防地域介入研究」「鬱による自殺未遂者の再発防止研究」の二つの研究計画を提案した。……自殺者が多い秋田、岩手、青森、鹿児島各県などの地域介入では自殺予防効果も出ているという。
2005年6月12日 朝日新聞一面より


■飲酒による疾病や運転事故が多いのも、同じ地域です。「均衡有る発展」や「地方の活性化」がすべて嘘であることは、もう隠しようも無い事実になってしまいました。この日本の歪(いびつ)さは、明治新政府が成立する前後の歴史的事情を原因としているのは明らかでしょう。「戊辰戦争」と「西南戦争」以来の、中央政府からの蔑視政策が解消されないまま、列島改造とバブル経済を通過した歴史の残骸が、こうした数値になっているのです。その間の三度の対外戦争でも、激戦地に送られる兵の出身地には見事な差別構造が埋め込まれていたという事実も有りますし、最近の「イラク派遣」に際しても、派遣先が酷暑の砂漠地帯だというのに、寒い北海道・東北の部隊から送られてのは何故でしょう?

■新聞もテレビも、東京に拠点を定めて情報発信を続けている異常な状態がまったく是正されずに、ますます酷くなっています。報道番組で、「町の声を聞いてみました」という枕言葉の後に続くのは、東京都下の新橋駅周辺で歩いている酔っ払いのサラリーマンか、銀座を歩いている女性達ばかりが目に付きます。これは「町の声」ではなく、新橋駅前の声、銀座をほっつき歩いている人の声、それ以上のものではありません。地方から集まったスタッフによって作られる情報が、全て「東京製」になってしまうことに、何の危機感も不自然さも感じないようなジャーナリストなど百害あって一利なしですなあ。「東京人」である事自体に、何らかの価値が有るという幻想を振りまく限り、東京の治安と福祉制度は悪化し続けるに違いありません。それを、また「東京の危機」として報道する愚か者が出て来るのでしょうが、それは「日本の危機」ですぞ!

其の六に続く

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有りもしない日本 其の四

2005-06-23 06:51:00 | 社会問題・事件
其の参の続き

■地方に残る伝統工芸の技術を受け継ぐ若者が都会からやって来る。師匠の子供達は都市部に去っている。農業にも同じ動きが目立っています。これは一体どうしたことでしょう?特に、思春期から青年期の貴重な時間と精力の大部分を注いで入学した大学で学んだ学問とはまったく関係の無い、伝統的な手工業や農業に天職を得るのならば、莫大な税金と家族の犠牲は、「自分探しの旅」だけに費やされたことになります。それならば、幼い時から社会常識を逸脱した「校則」の枠に嵌める努力などせずに、「可愛い子には旅をさせる」だけで十分ではないでしょうか?親の言うことも教師の指導も一切受け付けないガキンチョが、サッカー選手やら芸能人になれそうだと思い込んだら、どんな理不尽な隷属状態にも嬉々として耐えています。もっと伝統的な現象としては、ヤクザを頂点とする犯罪社会に入り込めば、古臭い仁義だの掟に従順になって悪事に励んでいるのは昔から変わらないわけです。

■「不登校」を問題にする社会には、「登校は善である」という前提が有ります。子供達が楽しんでいるテレビやCD、あるいはテレビ・ゲームの業界には、大学に行かなかったゆえに成功した人達が存在していて、特に、芸能人(歌手やお笑い芸人)に対する一切の差別が消失してしまった現代で、小学校から大学まで貫いている学校文化の権威は、その実質的な有用性と共に崩壊しているように見えます。「学士様」などという言葉が死語となってから久しく、「末は博士か大臣か」などと言ったら、笑われるような時代を招いてしまった日本は、「忍耐」や「努力」を忘れてしまったのではないのです。その対象となる物が見えなくなっているのです。

■牧伸治さん(ウクレレ漫談の巨匠)の小さなネタにこんな傑作が有ります。


「伸治!ごろごろしてないで、勉強しなさい。勉強を!」
「なんで勉強しなきゃいけないの?」
「勉強すれば成績が上がるんです。」
「へえ、成績が上がるとどうなんの?」
「良い学校に入れるんです。」
「フーン、良い学校に入るとどうなんの?」
「良い会社に入れるでしょう!」
「へえ、それからどうなんの?」
「生活が安定するんですよ!」
「フーン、生活が安定するとどうなんの?」
「寝て暮らせるようになるんです。」
「だから、俺は最初から寝てんだよ」


■これほど露骨でなくても、実際の教育現場で、ほとんど同じ趣旨の指導をしている教師が存在しいます。中には、運良く合格した大学で、「サークル活動」と「アルバイト」に励んだ楽しい思い出を中学や高校の生徒に語って聞かせて、「だから、大学は楽しいんだ。皆も成績が上がると、大学で遊べるぞ!」と自己正当化と生徒指導を混同している教師が実在します。しかし、御本人は自分に教養や知識が欠けている事や、それが教育には必要である事を肌身で知った経験が無いのですから、誰にも責める資格は無いのです。少なくとも戦後の一時期には、「学校を出ていないと、世間で馬鹿にされる」という大いなる恐怖が就学の動機になっていたのですが、「愚かさ」を売り物にして大金を得ているように見える(御本人の演技なのかどうかは不明)人たちが、日夜テレビで「笑われている」のを見ている子供達が、「恥ずかしい」と思う対象が違ってしまっているのです。

■この「世間様」に対する羞恥心や、屈辱感が無くなると、「世間様」自体が消滅してしまうのです。これは社会における共同幻想(吉本隆明)ですから、疑惑を持たれたり伝承の努力が弱まれば、あっと言う間に消えてしまうものなのです。何も知らない幼子の頃から、親の厳しい言葉や表情で「事の重大性」を感知する経験を重ねることで、「恥ずかしさ」が抑止力となって友好に機能するのです。誰かが、この約束事を破ってしまうと、収拾が付かなくなってしまうのです。過激な社会主義革命の大流行時代に、革命を目的とする犯罪は許されるという、(実は旧日本軍の海軍将校が仕出かした5.15事件や、陸軍の2.26事件の理屈と同じ)放火や狼藉も楽しい思い出となっている世代が問題です。その次には、バレない犯罪で金と権力を得た人々が世に憚(はば)り、それを糾弾するどころか、称賛するようなマスコミがいた時代も有りました。

■「本音」という浅はかな「開き直り」が流行したことも有りました。「非常識」が商品化されてしまえば、常識は崩壊するのは当然で、どこの先進国にも公共放送や一般向けの出版物には、倫理上の規制(コード)が設定されています。多くはキリスト教文化を基盤にしているのですが、チベットや東南アジアの仏教国やイスラム諸国にも動揺の枠が存在しています。日本にだけは、この区別が無くなってしまっているようです。昔から浮世絵文化が有ったなどと言ってはいけません。子供が持ったり買ったりする物ではなかったのですから。浮世絵や黄表紙本を売っていたのは、コンビニ店とは似ても似つかない限定的な大人向けの店だったようです。

■従って、最近までは「子供のくせに!」という社会倫理のバリアの存在を示す言葉が生きていたということです。「有りもしない日本」の代表は、子供らしい子供や子供の居場所のことかも知れませんなあ。親の愛情と無関心は、促成栽培と放任というそれぞれの経路を通って、結局は子供らしい子供を消し去ってしまうという同じ結果を産んでいるのでしょうなあ。「お受験」と「ゆとり教育」は、二つの経路の断面に付けた名前でしょう。

■子供を大人扱いすると、責任感が育って頼もしく成長するものだが、圧倒的な経験不足の存在である事を忘れてはならない。子供らしい子供と大人らしい大人が、社会規範を守って地域社会の中で暮らしているという前提は、遥か昔に崩壊してしまっている。既に、大人と子供の消費活動は区別が無いし、衣服や化粧まで大人と変わらぬ物を子供に与えて得意になっている馬鹿親まで出現している。現実の学歴社会で味わった後悔や屈辱を、年端も行かない子供に押し付けることから、進学競争は始まるのだから、これも根は同じであろう。小学生の頃から高学歴の価値を実感している子供ばかりになったら、どんな社会が現出するのかを、誰も想像しないまま、進学熱を煽り立てているのではなかろうか?

其の五に続く。