■またまた「裁判員制度」の導入を考えてしまう判決が出ました。「猥褻図画頒布(わいせつずがはんぷ)」という新聞記事では平仮名混じりで書かなければならないヤヤコシイ名前の有罪・無罪を争いが続いています。東京地方裁判所では執行猶予付きの懲役刑が言い渡されて、今回は高等裁判所での判決だったようです。昔は「ポルノ映画」の表現手法をめぐって興味深い騒動が起こったものでした。当時は、学生運動花盛りの頃でもありましたから、「猥褻だ!」と弾圧する体制側に対抗して、「表現の自由だ!」というのが反体制側で、小説・映画・写真の裁判が続いて起きたのでした。「猥褻じゃない!」という主張は少なかったようで、反撃する側が摘発逃れや権力側を挑発する工夫を凝らした作品を発表したりして、なかなか面白かったようです。
■長く続いている小沢昭一さんのラジオ番組『小沢昭一的こころ』で社会勉強をさせて貰った世代としては、小沢さんが猥褻裁判を話題にした時の興奮気味の口調が懐かしく思い出されます。今も語り続けておられる小沢さんですが、最近では猥褻について熱く語る機会もぐんと減ったのではないでしょうか?以前、こんな話を小沢さんが紹介していたのを覚えています。
アパートの一室で語り合う若い男女。ふと言葉が途切れる。見詰め合う二人、カメラはぐぐっと寄ってカット。次のカットは、女性の潤んだ瞳のアップと思い詰めたような男の表情が交互に繋がって、再び画面は見詰め合う部屋の二人になって、音楽が盛り上がる。ひっしと抱き合った二人が、ワザとらしく画面の下に写り込んでいるテーブルの蔭に消えて、カメラは動かずに、二人の姿が消えて現れる窓辺に置いた小さな花瓶にズーム。そこで、一輪挿しの花びらが一枚、風も無いのに落ちると……。
「猥褻だア!裁判だア!有罪だア!」ということになったのだそうです。どこからが猥褻なのかは明らかではないのですが、最後の花びらは確実に「猥褻」なのだそうです。何だか、風情の有る話ですなあ。
■日本製の作品は裁判が圧力になりましたが、海外作品となると敗戦国としては対応が難しく、「映倫」という小さな小さなお役所が鋏(はさみ)を振り回して、「猥褻」箇所を切り捨ててしまったので、何が何だか分からない映画が封切られたりしたそうです。それでは客が怒るだろうという事で、次に考えたのが「黒いちょうちょ」と「極端なピンボケ加工」、猥褻箇所というのは性器や陰毛が見える所という判定が決ってからは「モザイク処理」が登場したという歴史があるようです。伏字(ふせじ)やら一部黒塗りなどは、逆に観客の注意を引いて逆効果なのですが、お役所は律儀にこれを行なわねばなりません。こうした仕事をしているお役人を主人公にした喜劇映画を松竹が作ったことがあったらしいのですが、未見です。主演はフランキー堺さんだったようですなあ。何でも、映倫のお役人さんが、来る日も来る日も、猥褻作品の検閲作業に追われている内に、自分の夫婦関係に不具合が発生して悩んでしまうというテーマだったようです。
■今回、東京高等裁判所まで縺(もつ)れ込んだ猥褻物は、『密室』という漫画らしいのですが、これも見ていないので、「どれほど猥褻なのか」の判定は出来ませんが、田尾健二郎裁判長さんの目には、罰金150万を支払わねばならないほどの「猥褻」さだったようです。東京地方裁判所では、「懲役1年執行猶予3年」との判決だったそうですから、今回の控訴審の結果は減刑ということになります。こういう裁判が報道されると、商品の宣伝効果が生じて、ネット・オークションあたりでは高値を呼んでいるのではないでしょうか?儲けた人は、裁判様様でしょうなあ。買った人はどうだったのでしょう。
■興味深いのは、弁護側の主張です。要するに、様々の映像作品が氾濫していて、この作品だけが取り立てて猥褻とは誰も思わない、という時代と世相を味方に付けた主張で闘った模様です。ところが、裁判所側では、1951年に最高裁判所が示した定義を墨守(ぼくしゅ)して世の中の変化を一切視野に入れない姿勢を崩さなかったことが判明しました。この定義が無形文化財に指定したいほどの輝きを持っているのですなあ。
①いたずらに性欲を刺激し②普通人の正常な性的羞恥心を害し③善良な性的道義観念に反するもの
この定義に照らすと、今回の猥褻容疑を受けた作品は、
大半が性描写に費やされており、平均的読者がこの漫画から一定の思想を読み取ることは困難……性的刺激を緩和する思想的、芸術的要素もない
これが有罪の理由です。
■思想や芸術が問題になるのは、『チャタレー夫人の恋人』や『四畳半襖(ふすま)の下張り』という小説が猥褻裁判に持ち込まれた時に、弁護側に芸術家や知識人が集まって論陣を張ったことから、裁判所もその論争に負けないように採用した用語です。こうして話は泥沼化して、裁判所の外では「ヘア解禁」だの「ヘア・ヌード」だのと、女性の陰毛を言い換えた商品が出回って、何が猥褻なのかさっぱり分からなくなり、ビデオという恐ろしく手軽な機械が普及してしまえば、個人用か商売用かの区別も付かなくなりましたから、猥褻裁判は消滅してしまったとばかり思っていたのですが、ドッコイ猥褻罪は生きていたのでした。
其の弐に続く。
■長く続いている小沢昭一さんのラジオ番組『小沢昭一的こころ』で社会勉強をさせて貰った世代としては、小沢さんが猥褻裁判を話題にした時の興奮気味の口調が懐かしく思い出されます。今も語り続けておられる小沢さんですが、最近では猥褻について熱く語る機会もぐんと減ったのではないでしょうか?以前、こんな話を小沢さんが紹介していたのを覚えています。
アパートの一室で語り合う若い男女。ふと言葉が途切れる。見詰め合う二人、カメラはぐぐっと寄ってカット。次のカットは、女性の潤んだ瞳のアップと思い詰めたような男の表情が交互に繋がって、再び画面は見詰め合う部屋の二人になって、音楽が盛り上がる。ひっしと抱き合った二人が、ワザとらしく画面の下に写り込んでいるテーブルの蔭に消えて、カメラは動かずに、二人の姿が消えて現れる窓辺に置いた小さな花瓶にズーム。そこで、一輪挿しの花びらが一枚、風も無いのに落ちると……。
「猥褻だア!裁判だア!有罪だア!」ということになったのだそうです。どこからが猥褻なのかは明らかではないのですが、最後の花びらは確実に「猥褻」なのだそうです。何だか、風情の有る話ですなあ。
■日本製の作品は裁判が圧力になりましたが、海外作品となると敗戦国としては対応が難しく、「映倫」という小さな小さなお役所が鋏(はさみ)を振り回して、「猥褻」箇所を切り捨ててしまったので、何が何だか分からない映画が封切られたりしたそうです。それでは客が怒るだろうという事で、次に考えたのが「黒いちょうちょ」と「極端なピンボケ加工」、猥褻箇所というのは性器や陰毛が見える所という判定が決ってからは「モザイク処理」が登場したという歴史があるようです。伏字(ふせじ)やら一部黒塗りなどは、逆に観客の注意を引いて逆効果なのですが、お役所は律儀にこれを行なわねばなりません。こうした仕事をしているお役人を主人公にした喜劇映画を松竹が作ったことがあったらしいのですが、未見です。主演はフランキー堺さんだったようですなあ。何でも、映倫のお役人さんが、来る日も来る日も、猥褻作品の検閲作業に追われている内に、自分の夫婦関係に不具合が発生して悩んでしまうというテーマだったようです。
■今回、東京高等裁判所まで縺(もつ)れ込んだ猥褻物は、『密室』という漫画らしいのですが、これも見ていないので、「どれほど猥褻なのか」の判定は出来ませんが、田尾健二郎裁判長さんの目には、罰金150万を支払わねばならないほどの「猥褻」さだったようです。東京地方裁判所では、「懲役1年執行猶予3年」との判決だったそうですから、今回の控訴審の結果は減刑ということになります。こういう裁判が報道されると、商品の宣伝効果が生じて、ネット・オークションあたりでは高値を呼んでいるのではないでしょうか?儲けた人は、裁判様様でしょうなあ。買った人はどうだったのでしょう。
■興味深いのは、弁護側の主張です。要するに、様々の映像作品が氾濫していて、この作品だけが取り立てて猥褻とは誰も思わない、という時代と世相を味方に付けた主張で闘った模様です。ところが、裁判所側では、1951年に最高裁判所が示した定義を墨守(ぼくしゅ)して世の中の変化を一切視野に入れない姿勢を崩さなかったことが判明しました。この定義が無形文化財に指定したいほどの輝きを持っているのですなあ。
①いたずらに性欲を刺激し②普通人の正常な性的羞恥心を害し③善良な性的道義観念に反するもの
この定義に照らすと、今回の猥褻容疑を受けた作品は、
大半が性描写に費やされており、平均的読者がこの漫画から一定の思想を読み取ることは困難……性的刺激を緩和する思想的、芸術的要素もない
これが有罪の理由です。
■思想や芸術が問題になるのは、『チャタレー夫人の恋人』や『四畳半襖(ふすま)の下張り』という小説が猥褻裁判に持ち込まれた時に、弁護側に芸術家や知識人が集まって論陣を張ったことから、裁判所もその論争に負けないように採用した用語です。こうして話は泥沼化して、裁判所の外では「ヘア解禁」だの「ヘア・ヌード」だのと、女性の陰毛を言い換えた商品が出回って、何が猥褻なのかさっぱり分からなくなり、ビデオという恐ろしく手軽な機械が普及してしまえば、個人用か商売用かの区別も付かなくなりましたから、猥褻裁判は消滅してしまったとばかり思っていたのですが、ドッコイ猥褻罪は生きていたのでした。
其の弐に続く。