Naked a STYLE (サブログ)

映画レビュー、ニュースネタを中心に、自身のメンタルチックな話題を絡めて、ノージャンルで書き綴るぜぃ~

オレが感じた東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)2011

2011年03月13日 23時59分59秒 | Weblog

まず、今回の地震により犠牲となった皆様には、ご冥福を祈念いたします。
そして被災した関係者、またそのご家族の皆様には、心よりお見舞い申し上げます。


なにもできない自分に悔しさも覚えますが、なにとぞそれはお許しください。
一刻も早い救済と復興を祈るばかりです。


まず我々にもできること・・・小さいことですが節電など自分に出来ることからやっていこうと思います。


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では、千葉県在住のオレが過ごした3/11~3/13を、行動と目から入った情報を現時点でのコメントを残そうと思う。
(オレの職場は、千葉県木更津市以南で、我が自宅は千葉県北東部で千葉市中心部に近いところ)


地震があったときは、安易にすぐ止まるだろうと思い、たまたま職場の事務所に受付へお客さんを通したりしていたのだが、尋常ではない横揺れが続く地震に思わず事務所を飛び出した。


オレが最初に見た光景は、職場内のプラントが大揺れで、関係者が腕を組んでそれを見守っていた状況だった。
それは、オレにしてみれば異様な光景であるともいえ、そろいも揃って彼らが集合することなどないためである。
そして時間は何分たったか分からなかったが、時間にして15分以上続いていたような感覚だった。


ネット回線やTVは使えたので情報をみると岩手沖が震源で、震度7というものだった。
これは大変なことになったと思い、社員のほとんどが危機対応に走った。


オレは、場内のプラントや海を見に行った。
わが社は、海と隣接しており東京湾に面しているが、富津岬よりも北にあるため、津波の危険はない地域ではある。


若干、プラント内の重いものが動いたりしたようだが、事故にはならなかった。
だが、安全のため
操業はすべて中止させた。
津波について、到達予想時刻を過ぎても海面が上昇する様子もないので事務所に戻ることに。


しばらく巡回して戻る途中、さきほどの揺れと同様の地震が発生した。
今度の地震も、5~10分程度長く続いたような印象で、前回と同じように真っすぐ歩けないレベルだった。
職場の場内でも、再び慌てた様子がうかがえた。


そして場内のあちこちでは、陥没地域や切り崩された箇所が多く見つかり、翌月曜日に社員による総点検を行うことで、この日は終業することに。
(完全埋立地であるのだが、一切の液状化現象は起きていなかった)


しかし、この間、事務所で得た情報とは、想像を絶する被害現場の状況であり、まるで映画を見ている様子に皆驚きと衝撃を隠しきれなかった。
TVでは、物凄いスピードで人家や田畑を飲み込む津波の映像が繰り返し流れ、本当に日本国内で起こっていることなのかと信じられなかった。


そして千葉でも市原市の化学工場コンビナートの一部が大火災を発生させたということが分かり、我が職場からもその黒煙が見える状況だった。
対岸の川崎市方面からも同様な煙も見え、ますます尋常ではない状況がうかがえた。


みんな電話で家族の安否確認をしていたが、携帯電話を介するとメールは通じるが電話は一切通じなかった。
固定電話では、まれにつながる程度で、携帯電話は、ホント使えなかった。


なぜインターネット(メール)やメールが使えるのか不思議だった。
⇒ソフトバンクへのメールは一時「相手先ホストの都合により送信できませんでした」という事例はあり。


実はこの日職場では、「定年退職を迎える方々へ感謝の意味を込めて」という送別会で、運の悪いことに電車で通勤していたオレ。
他に多くのクルマ通勤の人も電車で出社。
終業後の時間になっても、電車は当然動いていない。


偶然にもこの日の送別会は、木更津市内の某ホテルで執り行われる予定だった。
我が職場の飲み会でホテル開催など皆無。
たまたま幹事の機転でホテル初開催となったのだが。


まあホテル側の送迎バスが、職場まで迎えに来たので、ひとまず全員乗車。
通勤利用で使用する駅と職場までの移動時間 と 木更津駅とホテルまでの移動時間のほうが近いこともあった。


しかし、我が職場から会場まで、通常ならクルマで20分ちょっとのところ、激しく混雑する木更津の街中を走ること80分、ようやく到着した。
(その後わかったことだが、飲み会に参加せずクルマで帰った者は、千葉まで戻るのに10時間も掛かったとのこと。普通なら高速を使えば1時間、下で帰っても2時間弱だ)


当夜7:30ぐらいかな、電車(内房線)が復帰する見込みもなく、JRは早々に東日本管内の全ての鉄道は、終日運転取りやめと発表。
我々はこれで帰宅難民になったことが確定した。


じゃ泊まろうかと思いホテルに問い合わせると、瞬時に予約客で部屋が満席になったとのことで、困り果てる。
宴会場で構わないから泊めてくれと交渉すると・・・これまた偶然に、突然数部屋に空きが出たとのこと。


聞けば、自衛隊関係者による宴会予約があったのだが、当然のようにキャンセルとなったらしいのだ。
これで我々も路頭に迷うことなく、宿泊することができるようになった。
(だが、食事の手配がつかないので素泊まりだった)


ところが、余震も信じられないくらいの群発数を体感、ドコモのケータイは時間に合わない地震警告メールがけたたましい音を発しながら連発。
家族と連絡のつかない人もいたので電源を切るわけにもいかず、結局我々の部屋の人はほとんど寝ずに過ごした。


素泊まり組には朝食がないので、ちょっと離れた場所にあるコンビニへ買い出しに。
すると携帯電話用の簡易バッテリーはすべて売り切れ、菓子パン類もすべてなく、わずかにおにぎりが売っていただけだった。
飲み物もいくつかの種類で売り切れていたようだった。


土曜朝8時の段階で、内房線は復旧せず。
TVでは被災地の現場と合わせて、市原の化学工場の火災を伝えていた。
少なくてもこの火災が落ち着かなければ、帰れないと覚悟した。


正直なところ、マジで家までの50km以上もの距離を歩こうと決めていたが、職場の先輩の奥様が救出しに来てくれることに。
その帰り道に見える光景としては、ところどころにあるガソリンスタンドが、尋常ではない行列を作っていたり、回転ずし屋やサイゼリアなどのファミレスも休業、ケータイショップも休業していた光景が、地震の爪跡としてオレの目に飛び込んでくる。


その後、長い長旅となったが、先輩の助けもあって、ようやく自宅に到着。
地震発生後、まる1日後に無事帰還できたわけだ。
(その先輩がいなかったら、マジでどうなっていたか....)


自身の家族の無事は聞いていたが、自宅は自宅の瓦がずれたり、家の土壁の一部が崩れていたりしていた。
オレの部屋も、1年前に肝いりで購入したプラズマクラスター加湿器が全壊、冷蔵庫やストーブも倒れていたが、倒れるようにオレ自身がスーツを着たまま爆睡。


起きたら、日曜日の朝7時。16時間も寝たようだ。
あいかわらず余震も続いていたが、友達知人から数々のメールが届いていたを知る。
オレが確認を取った人以外からも来ていたし、帰宅難民になったことを知って、連絡をくれた人もいた。


改めて自分が生きていたこと、家族も無事だったこと、友達全員無事だったことに感謝する。
起きてからは、部屋の片づけ、友人への連絡、GS巡り、買い出し で今日が終わりそうだ。


東京電力が計画停電の発表に合わせ、市内の臨時放送が夜の11時にも関わらず、計画停電の時間帯を正確に流していた。
我々もこれで被災者の方々には遠く及ばないが、被災後の厳しさを徐々にしることになるにだろう。


オレも人生40年弱生きてきたが、この地震を体感したことで、まだ長く生きていけそうな予感は小さくなった。
また近いうちに何かが起こりそうだし、自分自身もなにかに巻き込まれそうだ。
(こんなにまだまだ続く余震に見舞われていると、そう思ってしまう)


そのためにも一人ひとり冷静でいることも重要。
避難所の一部では、食料の略奪も起こっているところもあるというが、いい大人が、すべての大人が冷静に行動して助け合うことが、人間であり日本人であろうと思うし、そうありたいと願う。


いつ自分にどんな事件へ巻き込まれるか分からない。
でも、今、協力できることは、どんなに小さくてもやっていこうじゃないか。


西日本は60Hzだから、電力はうまく賄えないのだから、関東在住の我々が節電していこう。
会社がある人は、会社全体で病院だけには電気が供給できるよう出勤時間の統一、および退社など徹底していこうではないか。


被害地域に比べたら大変不謹慎な記事かもしれない。
ですが、どうか一人でも無事である人が増えることを祈念させてください。

コメント
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