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地盤改良杭としての間伐材の利用

2012年10月22日 | 信州の木材
林野庁発行の「RINYA」10月号で森林総合研究所の研究成果発表の記事を読んで。

 地盤改良杭としての間伐材の利用‐‐‐間伐材の土木利用拡大を目指して----

 軟弱地盤上に建築物や橋、盛土を造る際、工作物が沈下しないように地盤へ木杭を打つ・・・・地盤改良杭という。

 長野県は唐松の産地だったから、物心つく頃から唐松の杭を関東圏に送り続けてきていたのを目のあたりにしていた。

 昭和30年代当時、農村では農閑期山仕事は当然のことだったから、馬で木材を搬出する光景を目にしたものだった。

 8mや10mの長い木材を「うんそう」で搬出している写真を見たことがある。

 昭和30年代の材木の価格と今の価格はそう変わりないはず・・・・そんな時代だったから植林にも熱が入ったし、戦後復興とはいえ、当時工業も発達してきていなかったから、働き口の確保のためにも、植林は進められたのかもしれない。

 戦争中国内の山は荒れていたはず・・・・昭和30年に木材資源の保全を目的に「杭・柱等は、鉄鋼、軽金属、コンクリート等の耐久製品につとめて切替えるよう必要な措置を講ずる、という方策が出された、記事にあった。

 そんなことがあったんだあー。

 だから・・・住宅のプレハブ化の傾向もこのあたりにも遠因があるのかなあ。

 さらにだから、外国の木材の輸入に拍車がかかったのかもしれない。

 どちらにしても、東京オリンピック・高度成長の時代も長野から木杭は運ばれ続けた。海のない長野県でも使われていた木材は「ソ連唐松」だったのである。

 昭和55年台風の直撃を受けた佐久地方の山の木は風の当たった場所、一面なぎ倒されたのであった。

 その山の処理が行われたので、佐久地方の製材工場ではこの年以降、国産の唐松に大転換したのである。

 ただ我が社だけは、その1年前に国産唐松に転換していたのであったが、同業者に
「なぜ高いものを買うのか」と笑われもした。

 戦後植林した木が間伐の時期を迎えはじめていたのである。間伐の遅れは台風時になぎ倒されしまう、昭和55年はまさしくその象徴だったのかもしれない。

 話を戻そう

 地盤改良の技術研究は昭和30年で、そこでストップしたままになっていたのである、と記事にあった。

 それでも高度成長時代以後も、景気がよければ設備投資、悪ければ景気刺激対策で公共事業で、供給が間に合わない時代もあった。

 バブルがはじけて間伐の時期を迎えた山々からどんどんと木材は出るのに、使う場所がない時代に突入・・・・それから20年あまり・・・。

 間伐期を経て山は伐期を迎える・・・・このままでいいわけがない。

 昨今の住宅には国産材や地域材を使おうというのも、そのいい現われである。

 木杭についての研究の話は明日に。

                          依田美恵子

軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家


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